ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

趣味としての護憲なのか

2016-09-15 12:13:00 | 社会・政治・一般

黙り込むのは卑怯だと思う。

日頃、憲法改正の話が上がると、必ず騒ぎ出すのが、いわゆる護憲派と言われる方々である。その癖、憲法の存在意義が問われるような現実に直面すると、黙り込んでしまう。

北朝鮮のミサイル実験や、核実験が行われた時、彼らは抗議の声こそ上げるが、日本国憲法にまで踏み込むことはしない。

秋田県沖の日本の経済水域に、北朝鮮のミサイルが落下したときも、彼らは黙り込んだ。その海域で漁業を営む日本国民が、危機感を覚えているのに、彼ら護憲派は黙り込むのみ。

本当に憲法9条は、日本の平和を守れるのか、それが問われる事件であったが、彼ら護憲派は決してその実効性に対する議論には乗ってこない。

戦前の大日本帝国なら、日本漁船が操業する海域に、無断でミサイルを落とす行為ならば、事実上の宣戦布告とみなして、相手国に軍艦を派遣していたかもしれない。そのくらいの乱暴な行為であり、日本の平和を乱す所業であるのは確かなところだ。

なぜに北朝鮮は、平和を愛する日本を攻撃するようなことをするのか。憲法9条を守る日本だからこそ、口頭の抗議(北京大使館でやっている)で済んだのだと、護憲派はアピールすべきだ。

それなのに、黙り込む。

国民の大半が既に理解しているように、憲法9条では日本の平和は守れない。憲法9条は日本各地にある「交通事故0宣言の町」のようなお題目でしかない。その言い分は立派でも、実社会に於いて有効に機能するものではない。

現実には役立たずの憲法9条だから、ミサイルの落下という現実に対して、護憲派は黙り込む。知らん顔を決めこむ。その癖、国会などで憲法改正の話が持ち上がると、決まったように抗議の声を上げる。

現実に日本の平和を乱す相手には、黙り込む癖にね。

彼ら護憲派が、自らの善人ぶりをアピールしたいだけで、現実の平和は他人任せの無責任言論人であることは承知しているが、それでも彼らの態度には腹が立つ。彼らにとっての護憲とは、他人がどう思うかなんて気にしない、マイペースの趣味なのだろう。

多様な意見を許容することが、近代民主主義の根幹ではあるが、如何に少数意見だと分かっていても、不愉快なものは不愉快であることに変りはないようです。

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紳士同盟 小林信彦

2016-09-14 12:01:00 | 

なぜだか知らないが、日本という国は詐欺師に対して甘い。

どうも、騙す奴は悪いが、騙される方も悪いという歪んだ価値観が、詐欺犯罪への甘い処罰の根底にあるようだ。

騙されるのは、欲があるからであり、そこを付け込まれたのだから、騙される方にも責任はある。これは近代法が明治時代に導入されて以降、法曹の世界では常識となっている。

果たして、本当にそうなのだろうか?

私は以前から疑問に思っていた。誰にだって欲はあるし、その欲を如何に利用するかが商売であることは承知している。では、詐欺と適法の境界線はどこにある。

半世紀以上、生きてきた私だが、未だにこの詐欺と適法の境界線が理解できない。曖昧であるのは致し方ないが、理解しがたいのは、騙される方も悪いとする価値観である。

一理あるのは認めるが、それにしたって日本の刑法は詐欺犯罪に対して甘すぎる。この詐欺犯罪に対する甘さが、悪辣な詐欺を横行させる土壌になっている。

それは詐欺犯の再犯率が異常に高いことからも分かる。

詐欺で刑務所に入れられても、短期間で出所するケースがほとんどで、出所した後、彼らは再び詐欺に手を染める。得られる利益に対して、その処罰が甘すぎるのだから、ある意味当然の判断であろう。

又聞きの話ではあるが、ある詐欺師が東京郊外に住むある老人を詐欺にかけて、かなりの金額を騙し取ったことがある。その詐欺師は、それが違法だと知っていたが、警察に捕まってもたいした処罰にならないと、多寡をくくっていたようだ。

その詐欺師にとって誤算だったのは、その老人の息子が裏社会の人間であったことだ。いわゆる広域暴力団の組長であったため、父親を騙した詐欺師に対して、その息子が下した処罰は過酷なものであったらしい。

私も詳しくは聞かなかったが、その詐欺師が二度と詐欺に手を染めることはないと断言出来るほど、厳しい処罰であったらしい。義絶された不詳の息子であったが、組長としての面子もあり、騙し取られた以上のものを奪い取ったとのこと。

その老人は縁を切ったはずの息子の親孝行に、かなり複雑な気持ちであったらしい。でも、その詐欺師に対する処罰は、警察に任せるよりも、息子に任せたほうが適切であったと考えていたようだ。

おそらく違法なことなのだろうけど、私も聞かなかったふりを平然としたのは、現行の詐欺犯に対する処罰の甘さへの不満があるからだ。なぜに裁判所に代表される法曹界が詐欺に対して甘いのか、私は未だに理解できない。

ところで、表題の作品は、その詐欺師たちの痛快な犯罪を描いている。私は詐欺が嫌いなので、好きな作品ではないが、今読み返しても面白い点は評価できる

。昨今、ほとんど目にしなくなった小林信彦の小説だが、この夏の書庫整理で見つけ出して、ついつい読み出してしまった次第です。

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抜歯

2016-09-13 12:24:00 | 健康・病気・薬・食事

人間、50を過ぎると身体にガタがくる。

先週後半だが、急に食事が辛くなった。噛むと奥歯が痛むのが原因である。嫌な予感がした。この奥歯は10代の頃に治療したもので、たしか神経を殺して虫歯を治療したはずだ。

5年ほど前に、やはり痛くなったのだが、当時はまだ歯根が残っていたので、痛みの原因であるばい菌を服薬で治療しただけで済ましていた。再び、同じ個所なのだが、どうも不安が募る。

土曜日に急患として受け入れてもらう。この歯科医は、私が大学生の頃から通っている。当時は、まだ若々しい歯科医であったが、今では白髪の目立つベテランの風貌になっている。

さっそく診察を受け、レントゲンを撮ることになる。結果、分かったのは既に奥歯の歯根は溶けて残っておらず、歯肉に支えられている状態であること。当然グラグラしているし、その隙間に入った雑菌が、痛みの原因であることだった。

30年以上、もたせてきた奥歯だけど、もう抜くしかないとの診断に、「お任せします」と言うほかなかった。麻酔を打ってもらい、抜歯はすぐに終わった。見せてもらったが、たしかに歯根がなかった。虫歯の治療痕があるほかは、いたって綺麗な奥歯であったから、長年のブラッシングの効果はあったのだろう。

ところが大変だったのは、その後である。抜歯した痕からの出血が止まらないのだ。

原因は、数年前の心筋梗塞後に服用するようになった薬のせいである。再び血栓をつくらないよう、血をサラサラにする薬を飲んでいるので、血が固まりにくい。つまり、出血すると止まりにくい体になっている。

抜歯後、1時間かけて縫合し、止血をするのだが、困ったことに止まらない。その日は仕事には行かず、帰宅して安静にしていたのだが、微量ながら出血が続いている。

翌、日曜日は微熱と出血からくる気怠さで、動く気になれず、終日家でゴロゴロしていた。明けて月曜日、午前中に顧客の元を回って、その足で再び歯科医の元を訪れて消毒。

医者が言うには、血が止まらないのは、薬のせいだけでなく、肝機能が落ちていることも関係しているとのこと。思い当る節が多過ぎて、答えに窮してしまう。ただ、幸いなことに、出血量も減少してきているので、このまま様子を見るとのこと。

ただ、患部の消毒だけは、可能な限り毎日やるとのこと。

正直、今週は日程が詰まっているので、かなりシンドイのだが、背に腹は替えられず、止む無く連日の歯科医通いである。実を言えば、歯を抜くのは、多分30数年ぶりである。このかかりつけの歯医者さんは、歯をなるべく抜かない方針の方なので、今日までなんとか、持たせてきたが、やはり年齢には勝てずである。

久々の抜歯は、かなり手痛いものとなった。歯を抜いたのは哀しいが、それ以上に年々身体にガタがきている現実を受け入れるのは、辛いものです。

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慢心の日本サッカー

2016-09-12 15:53:00 | スポーツ

哀しいことに、当たってしまった私の危惧。

先週、いきなりワールドカップ最終予選の初戦で、ホームに迎えたUAEに0-1で敗れた日本代表。その後、アウェイでのタイ戦は2-0での勝利だが、後二点は取れた試合でした。

チームの中核を担うはずの、本田、香川、長谷部のプレーがひど過ぎた。これは、ヨーロッパ・サッカーがまだ序盤で、彼らもコンディションが整っていなかったからでしょうけど、怪我を恐れてか、全力のプレーには程遠かったのは、観ていた人なら分かるはず。

考えてみれば、彼らは南ア杯の時のレギュラー陣であり、未だにチームの中心にいること自体、いかに後進が育っていないかの証でもある。もっとも、タイ戦で活躍した浅野、原口、山口らの若手が、そろそろ使える戦力になってきたようなので、今後に期待したいものです。

ただ・・・あまりマスコミ紙面上には出ませんけど(何故だろう?)、日本サッカー協会の怠慢は断固非難されるべき大罪です。

私の知る限り、ザッケローニ監督の頃まで、日本サッカー協会は対戦相手の情報分析(これは、今もやっています)だけでなく、試合を裁くレフリーに対する情報収集もやり、どんな時に笛を吹き、カードを出すかの傾向と対策を、監督や選手に情報提供していました。

しかし、現在はやっていません。なんでも、アジア予選には不要だと判断したそうで、その結果があのUAE戦でした。あのレフリーは確かにひどかった。だいたい、中東のチームと東アジアのチームが対戦するのだから、レフリーは豪州か中央アジアから出されるべき。

後になってFIFAに抗議したって無駄。事前に対応しなくては意味がない。その意味で、UEA戦の敗北の最大の戦犯は、日本サッカー協会であるはずです。そのことを指摘しているメジャーなマスコミ、どれだけあります?

サッカーに対する不勉強なマスコミが如何に多いものか、これで良く分かろうというものです。

それともう一つ、マスコミ様が黙り込んでいるので、私が言います。Jリーグ開幕以来、たしかに日本のサッカーを進歩しました。ボールを扱う技術の高さ、戦術眼、パス、トラップ、どれをとっても間違いなく進歩しています。

でもね、逆に低下しているものもあります。それは、Jリーグの選手の経験値。開幕から数年間は、世界中から有名な選手を助っ人として呼び、彼らの世界レベルのプレーが、日本人選手の技量向上に大きく役立った。

とりわけ、対戦してみなければ分からない部分、例えばぶつかった時の身体の強さ、ボールを奪取する間合い、瞬間的なスピードなどを体で実感したからこそ、Jリーグの日本人選手たちは、大きく技量を向上させることが出来た。

しかし、今のJリーグには、世界的な知名度のある外国人選手は、事実上いないのです。景気後退の煽りを受けて、高額なギャラを払えなくなったのが大きな要因です。でも、それだけではない。

各Jリーグのチーム幹部たちが、もう高額な外国人選手は不要だと思いあがったことが、現在Jリーグでプレーしている日本人選手の経験値を下げている。実際、かつては優勝も珍しくなかったアジア・チャンピオン・リーグも、現在のJリーグのチームの実力では、予選敗退が日常化していることでも証明されている。

つまり、足元から日本サッカーは弱体化が進んでいるのです。今回のワールドカップ予選は、敗退も覚悟するべき厳しい戦いになると私は予想しております。

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草木の意志

2016-09-09 14:00:00 | 日記

なにを食べようと自由である以上、なにかを食べない自由もある。

日本ではベジタリアンと総称される菜食主義にも、いろいろある。肉食を避けるための健康志向の菜食主義もあれば、宗教的な理由であったり、生命保護の観点からの菜食主義もある。

如何なる考えに基づこうと、それは自由だとは思うのだが、私は植物だって命であり、生き物である以上、生命を奪うのを避けるといった趣味的な菜食主義には、いささか懐疑的である。

なぜかと言うと、植物にだって生きようとする意志があると信じているからだ。根っこを残せば良いと言った問題ではない。確かに根を残せば、再び生えてくるのは確かだが、植物がそれを喜んでいるとは思えない。

あれは大学生の頃だった。夏は暑いので、山に登るとしたら標高3千メートル級の高山か、さもなければ沢登りが中心であった。日数が必要な高山と異なり、沢登りは日帰りも可能だ。

緩やかに登る林道が途切れる辺りから、沢筋に入り込む。沢が次第に傾斜がきつくなり、流れる水量こそ減ってくるが、その勢いは増してくるあたりが面白い。

ビブラム底の登山靴では滑りやすいので、沢に入るまでは踵の高いスポーツシューズで登ってきたが、沢に入るあたりで草鞋に履き替える。あの頃は、既に化学繊維の草鞋が出回っていたが、やはり本物の草鞋のほうが水に馴染み易く、滑りにくい。

馴れた人は素足で履くらしいが、軟弱な都会人の足では無理なので、足袋は必携だ。もっとも足袋といっても、底がゴム底状の丈夫なもので、私たちは土方足袋と呼んでいた。

水に浸けて馴らした草鞋は、苔むす沢沿いの岩の上でも、容易には滑らない。沢筋は空気がひんやりしているし、日差しは木々の梢に遮られるので快適に登れる。

ただし、虫よけのクリームを事前に塗っておくことは必携だ。関東界隈の沢はそうでもないが、上信越の沢だと刺すと痛い蚊やブヨがうようよいる。また軍手もしておいた方がいい。沢筋の岩肌は鋭くとがっていることが多く、知らぬ間に手は傷だらけになるからだ。

傾斜がきつくなると、やがて滝が現れる。ここで滝を直登するか、あるいは巻いて避けるかの判断が大切だ。沢登りの事故の多くは、この滝界隈で起きることが多い。

登れると判断したら、なるべく直登してしまう。水しぶきが心地よく、下手に巻くよりも時間短縮できるし、巻いて避けても、その道は決して安全ではない。ただ、岩登りの技量がないと、滝の直登は難しい。

以前、ある沢の滝を直登していたら、岩棚で涼んでいた青大将をつかんでしまったことがある。ヘンな感触ですぐに気が付いたが、蛇も慌てたようで、噛みついてきたが、幸い軍手の上からなので、怪我は避けられた。

すぐに投げ捨ててしまったが、ザイルで確保されていなかったら、危なかった。慌てた私も、バランスを崩して落下したが、ハーケン一本でぶら下がった状態で助かった。このような場合、精神的なショックのほうが怖い。

滝を上り詰め、沢をどんどん詰めていくと、沢の幅は小さくなり、やがて草むらに消えていく。さて、これからが大変だ。まともな登山道などないので、獣道を見つけて、尾根筋にぶつかるまで、ひたすら草むらを掻き分けて登る。

草むらといったが、実際は藪であり、その藪を両手で掻き分けて歩く。その様は、まるで藪を漕いでいるようなので、通称藪漕ぎと言われている。

沢筋は気持ちよいが、この藪漕ぎは苦行難行である。慣れてくれば、上半身をふりふり、ゆるやかに藪の中を進むことが出来るのだが、非日常的な動きなので、かなりの肉体的負担がかかる。

コツは、藪の中の草の根っこを、上手く踏みつけて草を唐オながら進むことだ。これは理屈云々よりも、身体で覚えるしかない。こうして書くと、簡単に思えるかもしれないが、実際は悪戦苦闘することになる。

私は藪漕ぎをするようになって、植物にも意志があるものだと知った。植物の多くは、上を目指して伸びていく。それを妨げるものには、断固として抵抗する。藪漕ぎをしている最中、汗と埃にまみれながら、私は周囲の藪を構成する植物が、私に敵意をもっているのではと思うことが多かった。

まるで草木が意志をもって、私が進みたい方向を妨げるかのような動きをする。最初は錯覚だと思っていたが、やがて確信に変わる。間違いなく、藪の中の草木は私を敵だと見做している。

そうでなければ、これほど藪漕ぎに苦労するはずはない。疲労で意識が困惑しているのを自覚していたが、草木の敵意に不感症でいられるほど鈍くはない。その疲労と困惑が頂点に達した頃、するっと藪を抜けて、尾根道が目の前に現れる。

この時の感激は、山頂に上り詰めた時よりも大きい。なによりも解放感が素晴らしい。冗談抜きで、これほどの悦楽を得られる機会は、そうそうないと断言できる。喩えていえば、刑務所を脱走した囚人が、安全な隣国に到着したようなものかもしれない。

後は、尾根道をひたすら下り、林道まで降りて、バス停で帰りのバスを待つだけだ。手足は傷だらけだし、虫刺され、草汁によるかぶれもあるが、心地よい疲労と空腹は、決して悪いものではなかった。

だが、ここで油断してはいけない。

これは、私だけかもしれないが、藪漕ぎをやった日の夜は、なぜか寝苦しいことが多かったからだ。普通は疲労からすぐに寝付く。ところが、藪漕ぎをした夜は、妙に寝苦しい。目を閉じても、藪の風景が脳裏に浮かんで離れない。

私が踏みつけ、叩き折り、薙ぎ払った草木の恨みが、体内に残っているような錯覚に陥ってしまう。白状すると、私は藪が浮ゥった。なにが出てくるか分からない恐浮ニ、いくら押し進んでも、終わりが見えない徒労感が辛かった。

不思議なことに、この藪漕ぎの苦悩は、春から夏に限定される。晩秋から冬にかけての時期だと、同じ藪漕ぎでも、そこには陽だまりの温もりがあったり、静寂な空気に癒される。

この違いは、草木が成長する時期と、枯れていく時期の違いだと思う。私は冬に雪があまり積もらない低山を登るのが好きだった。一面、枯れ野原の草原が冬の日差しに輝く風景が好きだった。

反面、春から夏にかけては、草木が生え拡がり、生い茂り、息苦しさを感じるほどの圧迫感があって、藪はもちろん、草原さえ歩くのがきつかった。この感覚は整備された登山道しか歩かないハイカーには分かりづらいと思う。

私は草木にも意志があると信じている。その意志を踏みにじり、押し唐オ、なぎ唐オたからこそ、私は藪が苦手だった。だから、私は命を奪わないと語るベジタリアンに違和感を禁じ得ない。

草木の生きる意志は強く激しい。アスファルトの小さな割れ目から芽吹き、成長するにつれて、その割れ目を広げて、最後はアスファルトを崩壊させるほど、草木に生きる力は逞しい。自然の力を舐めてはいけないと思うのです。

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