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古いメモのようなものが出てきた。それに釣られて・・・。
無人の駅を出てからとうとう誰とも会わなかった。そのせいもあってか何年ぶりかなのに、道中では実に些細な記憶までが次からつぎと蘇ってきて驚いた。見覚えのある歩行の邪魔をする路傍の岩、同じく太い木の根、枯れ葉の積もった滑りやすい足裏の感触、それに小雪交じりの冷たい風と寂寥感が加わってくる。
出合いに着くと、上部は相変わらず陰鬱な雲に隠れたままで、雪で鎧った峻険な岩の圏谷には夕暮れが迫りつつあった。さらに登って谷の中まで行ってみようかと思ったが、思い留まった。仮に谷の中に入っていっても、何ができるわけでもなかった。それでも未練がましく長居したのは、ついいろいろな記憶に攻め立てられ、それによって味わう感傷めいた思いが離さなかったのだろう。特徴のある垂直の岩の中断まで雪雲が降りてきたのを機に、ようやく魔性の谷を離れた。
それからさらに1時間ほども歩いたか。幕営地にした林の空き地は以前にも何度か来ていた。すぐそばに川があり、岩に砕け白濁した水が勢いよく流れ、その瀬音を耳にしながら、今では恐らくそんなことが許されない場所にテントを張り、枯木を集め小さな火を焚いた。
この山行は、仕事を辞めて、東京から去る重い決断をした後だった。田舎に帰ればこの山域は遠くなるからと、挨拶と言ったらよいのか相手は山だが、一応そんな報告めいたことをしておきたいと思って出掛けたのだった。それと、世話になった友人に都落ちの知らせと、簡単な心境をそこで書いて伝えたいとも思っていた。
あの夜も、いつもの豚ロースの味噌漬けを焼いて食べたのだろうか。ウイスキーのお湯割りを飲んだことは覚えている。寒かった記憶はない。川の反対側には葉の落ち尽くした疎林があって、その向こうに見えていた黒い岩の上から月が現れ、当然その雲間からの寒月も酒のつまみになったはずだ。いつの間にかすっかり手紙を書くことなど諦め、それでも夜中に目が覚めれば長い夜になることを考え、湧いてくる妄念の数々を相手に、遅くまで起きていた。
あれから何年が過ぎたのか、その後一度だけきょう呟いた上越の山へ行く機会があった。吹雪の山頂こそ踏みはしたが、思い出の残るこの幕営地へは行ってない。
本日はこの辺で。