雨が降っている。たまにはこんな天気も悪くない。それに、午後には回復するようだ。気になるのは上の様子で、雪が降っているかも知れない。天気予報によれば、30日の降雪は100㌫だと!
まだ何の準備もしていないが、午後になれば当家なので、地類(一つの土地を分け合ったという伝承をもち、共同で神仏をまつる家々/大辞林)の小さな氏神に正月の飾り付けをしなければならない。こういう当番が何年かに一度は回ってくる。いつまで続くのか分からない風習だが、絶えてしまうよりかいいと思っているから、面倒な役目ながら不平、文句を言わずに従っている。
しかし自分の家の正月の準備は、この家の最後の住人となるのに、昨年は何もしなかった。床の間の掃除も、神棚の煤払いもせず、供え餅は一体いつの物か記憶にすらない。門松もしめ縄も、こうした古き良き時代の習いに従う気がなくなってしまったらしい。今年はまだ間に合うがどうしたものか・・・。
日頃は、郷土史がどうたれなどと柄にもないことを言っている割合にはこの体たらく、それでいて入笠へは雪の中、越年のため誰も来なくとも行こうとする。この方が、年末年始の欠かさない行事になってしまったというのも、他人からは理解されまい。
新年が冬来るのはいい/(略)ねがはくは新しい世代というふに値する/清潔な風を天から吸はう。(略)
ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。
本当に高村光太郎が言うように「新年が冬来るのはいい」。まっさらで、輝かしい光、新鮮、希望、そういう思いが自然と湧いてくる。そのすべてが一新されたような清潔な冬の朝を、畏まって寿いだことも遠い昔にはあった。それが段々と面倒になり、旧年と新年の境が曖昧になってきて、世の中から仲間外れを食らったような気分で正月に"耐える"、そんなへそ曲がりになってしまった。
いやいや、上に行けば今年こそは「わたしは又無一物の目あたらしさと/すべての初一歩の放つ芳ばしさとに囲まれ」雑煮も用意すれば、正月らしい料理だって作るつもりだ。できれば餅つきだってやりたいくらいだが、さすがにそれは抑えるにしても、下にいては人並みのことができなくなったということのようだ。とにかく「精神にたまる襤褸をもう一度かき集め/一切をアルカリ性の昨日に投げこむ」、そんなつもりで、この年末は上に行こう。(省略並びに順不同ながら、鉤括弧内はすべて高村光太郎の詩より)。
年の暮れにはいつもこの詩を思い出す。
かんとさん、あれはいいPHでした。ウン百年後が楽しみです(笑)。番長様、裏番長様、承知いたしました。何もかもcovid-19のせいです。本日はこの辺で。