もう寒々しい写真は止めようと決めたのに、ついまた懲りずにこんな写真を上げてしまった。すぐそこまで、花咲き、胸膨らむ春が来ているというのに、もうしない。これをもって、雪の写真は最後にし、去っていく冬には深い感慨をこめて別れを言うことにする。
酔って書いてる。それでも書いておく。某有名作家の語る死といういうことについてだ。老境にある彼が、にもかかわらず「本当は一向に(死の)実感がないのだから困ったものである」と書く。「能天気なものだ」とも。
嗤わせるな、と言いたい。いつも忍び寄る死の影に誰よりも怯えているくせに、そしてそれが書くものからはしなくも滲み、浮き出たりしているのに、まだこんな子供のような見えすいた強がりを言う。呆れる。その老残が、哀れ、惨めに見える。
この人の書くものといえば大方が、日常の他愛もない瑣事を浅く、軽く、薄く、書くだけだが、そこには何もない。できるだけ少ない言葉で頁を埋める術はいやらしいほど巧みだが、冷えた吸い物のようで味わいも感動もない。
今またとぼけたふりをして、恰好をつけたつもりかどうか知らないが、これほど見苦しく見える老人も珍しい。ずっと昔からそうだった。黙っていればよいのに、あえて死をおちゃらかすような雑文を書く。不誠実である。
この人もそうだが、日常にさしたる悩みのない暇人の中には、ヒタヒタと迫りくる死と対峙し、あがく。老人性鬱病などという精神疾患に陥る人のことだ。しかしその心の弱さは、この人より正直ではある。
舞台を降りた老優はそれらしく消えていくのに、この痩せた老作家はどうでもいいことを、誰もいない舞台でまだ呟いている。
ウムー、このまま投稿すべきか・・・。
TOKU君、来なはれや。4月20日から、牧場生命!でやっているから。TELします。