陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

146.小沢治三郎海軍中将(6) 航海士、ガラスは何から出来ているのか

2009年01月09日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和16年12月8日、真珠湾攻撃が行われ、日本は太平洋戦争に突入した。小沢中将は南遣艦隊司令長官として、コタバル上陸作戦、マレー沖海戦など南方作戦を指揮した。

 昭和17年11月11日、小沢中将は第三艦隊司令長官に親補された。小沢中将は旗艦を「瑞鶴」に定めた。昭和18年1月18日、整備の完了した「瑞鶴」以下の艦艇を率いて岩国沖を出撃、トラック島に向かった。

 「瑞鶴」の野村実航海士(海兵71)が、艦橋で当直勤務をしているとき、小沢司令長官は「航海士、ガラスは何から出来ているのか」と訊いた。

 野村航海士はなぜこのようなことを訊かれるのか分からず「珪酸と石英が主成分であります」と当たり障りのない答えをした。

 野村航海士は、後で、それだけでは充分ではないかもしれないと、調べたり、人に尋ねたりして、次に会ったときに小沢司令長官にガラスの組成を詳しく説明した。

 すると小沢司令長官は「ガラスは全く平坦に作ることは出来ない。光の屈折もある。見張り員がガラス越しに眼鏡を使うのはよくないね」と言ったので、野村航海士は初めて小沢司令長官の意図が理解できた。

 艦橋には両側に大きな眼鏡がついていて、艦長や当直士官の手足となるために、優秀な見張り員がいる。見張り員たちは、艦橋の窓ガラスを下ろさずに、窓ガラスを通して見張りをやっていたので、小沢司令長官はそれを止めさせようとしたのだ。

 小沢司令長官は、戦闘になったときのことを考えて、細部まで目を向けて指導していた。だが航海長にそれを指摘すると、自分の落ち度と受け止めて部下を叱責する。そこで航海士に直接話したのである。

 昭和18年4月13日、ラバウルに司令部を置く南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将の発案で海軍兵学校37期のクラス会を開いた。

 集まったのは、南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将、第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将、第八艦隊司令長官・鮫島具重中将、輸送船指揮官・武田哲郎大佐、輸送船指揮官・柳川教茂大佐の五人だった。

 やがて、すき焼きパーティが始まった。どこから聞きつけてきたのか、山本五十六連合艦隊司令長官が「名誉会員たるものこれくらいのことはせねばなるまい」とブラックラベルのウイスキー1本をぶらさげて、ひょっこり入ってきた。

 みんなは大喜びで、この大先輩を迎え、クラス会は一段と活況を呈した。日頃は酔うほどに無口の小沢中将が山本長官に話しかけた。

 「長官は敵地に飛び込む部下将兵にして、万葉張りの和歌を書いて贈られるようですが、あれはあまり感心しませんな」

 すると山本長官は笑いながら

 「また、お前はおれの悪口をいうか」と答えた。

 「いや、そうではありません。死地に乗り込む部下に対し、お前ばかり死地に投ずるのではない、おれも後からゆくのだ、というように聞こえますが、これは随分まずいですな」

 すると山本長官は

 「いや、お前のいう通りだ。歌が未熟だからだ」と言った。

 さらに小沢中将が

 「第一、連合艦隊司令長官はかけがえのない方だ。そう容易に死地にとびこんでゆけるものではない。あなたの生国の越後には、良寛和尚のように、真実を詠んだ歌人がおるではないですか」と言うと

 山本長官は

 「そうだ、おれの国で一番えらい人物は上杉謙信と良寛和尚だ」と答えて、笑いが起こり、座ははしゃいだという。

 この五日後の4月18日、ブーゲンビル島上空で、待ち伏せた米軍のP38戦闘機16機によって長官機が撃墜され、山本五十六連合艦隊司令長官は戦死した。