■事前の下馬評通り、1月16日に投開票された台湾の総統選と同日選挙の立法委員選挙で、台湾の最大野党である民進党が勝利しました。台湾総統選に限って言えば、予想をはるかに超えて、民進党がほぼダブルスコアで与党・国民党を突き放しました。また、立法委員選挙でも、民進党が過半数の議席を占めて、新政権の安定化も確保されました。
↑民進党主席の蔡英文候補の事務所に飾ってあるダルマ。昨年、蔡候補を支援する新聞記者が高崎に来訪し、群馬県台湾総会の案内で高崎だるまを購入し、同候補の事務所に寄贈したものの一つとみられる。↑
※参考情報:
●総統選確定得票数
民進党・蔡英文 689万4744票(56.12%)
国民党・朱立倫 381万3365票(31.04%)
親民党・宋楚瑜 157万6861票(12.84%)
●立法委員投票結果(113議席中68席+5席)
http://www.thenewslens.com/post/272088/
↑立法院の議席数113議席のうち民進党68席+時代力量5席で、民進党は悲願の単独過半数を実現。↑
今回の民進党圧勝の背景については、いろいろ取り沙汰されていますが、なんといっても、馬英九が8年間率いて来た国民党が、あまりにも親中・媚中政策に奔走したことで、台湾の住民の皆さんが、このままでは香港のように言論自由のない中国共産党(中共)の支配する大陸中国に飲み込まれて、永久に中国の属国に成り下がってしまうという台湾の民主体制の強い危機感を強く抱いたことです。
台湾は確かに中国大陸と同じ漢民族の住民が大多数を占めていますが、かといって、中共のような独裁体制ではなく、表現の自由が保障されている民主主義体制です。しかも、この自由な体制は昔からあったものではありません。台湾の人たちの努力で勝ち取ってきたものです。
■1945年(昭和20年)、日本の敗戦後、台湾の人たちも日本人と同じように敗戦のショックに打ちひしがれていました。ところが戦勝国の中華民国の蒋介石が、台湾で降伏した日本軍の武装解除のために、大陸から国民党軍を引き連れてやってきました。台湾の人たちは、新しい台湾の時代を大陸から来た同胞と築けるのではないかと思いました。
ところが、期待は完全に裏切られてしまいました。国民党軍は、日本統治時代に整備された社会基盤や統治システムをそのまま乗っ取り、台湾の人たちを支配し始めたからです。銅の電線が町中に張り巡らせてあるのを見て、国民党軍は、それらを切り取って横流しするなど、日本統治時代に培われた先進性を持つ台湾の人たちの目から見ると国民党軍の野蛮性は目に余るものでした。
こうして民度の低い側が台湾を統治し始めた結果、台湾の行政や経済社会システムは混乱し、治安は悪化し、台湾の人たちの暮らしは極限までひどくなってしまいました。そうした状況下で、二・二八事件が発生したのでした。
この事件は1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がりました。これはまだ日本国籍を有していた台湾の人たち(本省人)と、蒋介石が大陸から連れて来た国民党軍(外省人)との内戦ともいえる大規模な抗争事件でした。
事件の発端は1947年2月27日、生活苦のため台北市内で闇タバコを販売していた本省人の中年女性に対して、取締の役人が公衆の面前で暴行を加えたことでした。これが端緒となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われました。これに対して国民党軍の憲兵隊が発砲し、抗争はたちまち台湾全土に広がりました。
本省人は多くの地域で善戦し一時実権を掌握しましたが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、台湾の人たちを圧倒的な武力をもって徹底的に鎮圧しました。
■筆者は、このときの様子について1999年に74歳で故人となった義父から、生前、詳しく聞いたことがあります。義父によると、終戦直前に召集を受け、沖縄戦に備えて基隆で軍事訓練を受けていましたが、沖縄に兵員を運ぶ船がことごとく沈められてしまったため、終戦まで基隆で日本軍の規律による厳しい訓練に明け暮れていたそうです。その時訓練を指揮していた日本人の教官のことを生前、非常にほめていました。
義父によれば、日本軍が残していった武器を使い、日本軍に教えられた軍事規律に基づき、国民党軍と戦い、台中のラジオ局を占拠して民衆に蜂起を呼びかけ善戦したが、台南のラジオ局が国民党軍に奪還されてしまい、それから流れが変わってしまったと、1987年まで続いた台湾での戒厳令下で、自宅の居間で小声で話してくれたことを今でもよく覚えています。台南のラジオ局さえ、あのとき奪還されなければ、台湾の戦後の歴史は変わっていたかもしれない、と残念がっていました。
■義父の言ったように、日本軍の教えを受けて統率がよくとれていた台湾の若者らは、隠し持っていた日本軍の軍服を2年ぶりに着て立ち上がり、占拠したラジオ局からは、国民党によって禁止された「軍艦マーチ」などの日本軍歌が流され、各地で国民党軍と攻防戦を繰り広げ、国民党政府は追い詰められていきました。
劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示しましたが、これは策略で、在台湾行政長官兼警備総司令の陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請していました。蒋介石は、この陳儀の書簡内容を鵜呑みにし、翌月、大陸から援軍を多数派遣しました。
1947年3月8日、米国から提供された機関銃で武装した1万3000人の国民党軍が台湾に到着し、掃討戦が始まりました。いくら大規模に蜂起しても、まともな武器を持たなかった台湾の人たちは、多数の機関銃を持った正規軍には太刀打ちできません。たちまち台湾の人たちの蜂起は鎮圧されました。そして、白色テロとよばれる血の粛清が始まったのでした。
台湾の人たちの団結力と底力に恐れをなした国民党軍は、裁判官、医師、役人など日本統治時代に高等教育を受けた知識階級の人たちを次々と逮捕、投獄、拷問し、2万8000人もの本省人が無惨に殺されました。
軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、善戦した(「独立自衛隊」、「学生隊」等)。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まってしまいました。
■この二・ニ八事件で発令された戒厳令は、その後40年間も継続し、その間、白色テロと言われる恐怖政治によって、多くの台湾の人たちが投獄、処刑されてきました。1975年4月5日に蒋介石が亡くなった後も、戒厳令は続けられました。
しかしソ連のペレストロイカの動きなど、時代の流れは台湾における国民党の一党独裁体制にも影響を及ぼし、1987年7月15日、蒋介石の長男の蒋経国が総統の時に、ようやく廃止されたのでした。これに伴い、動員戡乱時期臨時条款(国安法)の成立によって、新党結成も解禁されました。その結果、言論・結社・言語の自由が保障され、国民党以外の政党が合法的に誕生するようになりました。
内外の批判を浴びて国民党政府がようやく戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限され続けました。現在の台湾に近い形での「民主化」が実現するのは、1988年1月13日に蒋経国が亡くなり、副総統だった李登輝が総統に就任し、1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことです。1980年代後半、戒厳令が解除された後でも、筆者の義父が台北の自宅の居間で政治の話をする時は、まだ辺りを気にして小声でしゃべっていたことを今でも思い出します。
蒋経国の配偶者はロシア人であることは台湾の人たちはよく知っています。これは蒋経国が若いころソ連に留学し、その後、蒋介石の長男ということで政治的な迫害に遭い、労働に駆り出されていた際に生涯の伴侶に出会ったためで、蒋介石と異なり、国民の声に耳を傾けた長男の政治姿勢は今でも台湾の人たちに好感をもたれている所以です。
こうして台湾の民主化への道筋を付けた蒋経国の死後、副総統であった李登輝(後の中国国民党主席)が総統に就任し、台湾国民政府の民主化を本格的に推し進めていきました。その結果、1994年7月、台湾省・台北市・高雄市での首長選挙が決まり、同年12月に選挙が実施されました。
さらに李登輝は総統直接選挙の実現に向けて、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統選出時から直接選挙を実施することが賛成多数で決定されると共に、総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めました。
そして1996年3月23日に中華民国史上初めての国民の直接選挙に、李登輝が自ら総統候補敏江出馬し、54%の得票率で当選し、台湾史上初の民選総裁として第9期総統に就任しました。
この選挙に際して中共は、台湾独立を懸念して反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称する軍事演習を実施し、ミサイルの発射実験を行いました。一方米国は2隻の空母を台湾海峡に派遣して中共を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まったことはまだ鮮明に記憶に残っています。
これ以降、中華民国政府が「中国全土を統治する政府」から「実効支配地域を代表する政府」へと変貌を遂げ、同時に1928年から続いてきた国民党の一党独裁による国民政府が消滅しました。これによって、台湾では複数政党制政治が確立し、台湾住民の民意に基づいた民主的な政府体制へと変化することとなりました。
李登輝は総統に再任後、さらに行政改革を進めました。1996年12月に「国家発展会議」を開催し、この会議の議論に基づいて1997年に憲法を改正し、それまで中華民国の地方政府としての機能を重複して持たされていた台湾省政府を凍結しました。これによって台湾省政府は事実上廃止となりました。
■こうして、台湾では民主的な選挙が実現したのはわずか20年前からです。李登輝の後、民選で選ばれたのが、初の民進党候補の陳水扁(2期)でした。しかし2000年3月の総統選挙での歴史的勝利、2001年12月の立法委員選挙での民進党の大躍進、2004年総統選挙での再選を成し遂げた陳水扁の政権運営は、2004年夏から暗転し、憲法修正、立法院の議員半減と選挙制度改革、党主席兼任問題、次世代リーダーたちの動き、不十分であった選挙対策が重なり、2004年12月の立法委員選挙で過半数獲得に失敗し、その後迷走を続けました。
この背景には、陳政権発足以来、陳水扁派と新潮流派を支持基盤としていましたが、2006年の陳水扁辞任要求運動の際に政権基盤の組み替えがあり、独立派が支柱の一つとなったこの時の意見対立が民進党内の主導権争いへと発展し、陳水扁の後継争い、党の路線論争にまで繋がって行ったのでした。そして、2008年総統選挙を前に、民進党は台湾ナショナリズムの方向に軸足を移して行きました。
2008年1月12日、総統選挙の前哨戦とされる第7回中華民国立法委員選挙では、馬英九率いる国民党が経済政策の失敗を問われた民進党に圧勝し、単独過半数を確保しました。そして同年3月22日の総統選挙では、民進党の謝長廷陣営が、1977年に馬英久が取得したグリーンカード所持、馬英九一族による政治献疑惑、暴力団との関係などを主張するネガティブキャンペーンを展開したのに対して、馬英九陣営は「ロングステイ」と銘打って台湾各地の農村地帯を訪れて回り、外省人でありながら台湾語による会話を行ったり、客家として客家語による演説を行うなど有権者と直接触れ合う機会を増やす事で対応し、国民の信頼を維持する選挙戦を展開しました。
総統選挙の結果、謝長廷の544万5239票(41.55%)に対し756万8724票(58.45%)を獲得して馬英九の当選が決定しました。2008年5月20日、馬英九は第12代中華民国総統に就任し国民党は8年ぶりに政権を奪還しました。この時、中国側は馬英九当選を歓迎しつつも、短距離ミサイルの増設など硬軟織り交ぜた姿勢を示しました。
■次の総統選は2012年1月14日に実施されました。この時は、第8回中華民国立法委員選挙も同日実施され、史上初の総統選挙と立法委員選挙のダブル選挙となりました。候補者は国民党が馬英久、民進党が蔡英文、親民党が宋楚瑜で、馬英久以外は今回と同じ顔ぶれでした。
投開票の結果、国民党の馬英九・呉敦義が6,891,139票(51.6024%)、民進党の蔡英文・蘇嘉全が6,093,578票(45.6301%)、親民党の宋楚瑜・林瑞雄が369,588票(2.7676%)でした。
馬英九が勝利した要因は、中台関係改善の実績と現状維持路線(統一せず、独立せず、武力行使せず)が評価されたものと受け止められました。とりわけ中台関係改善・交流拡大のきっかけとなった「九二共識」(92年合意。中国と台湾の当局者が92年に交わしたとされる合意の通称で、中国側は「一つの中国」で双方が合意したと主張したが、台湾側は「一つの中国」の判断は双方の見解に委ねるとして双方で食い違いを見せた)を維持するとした馬英九に対し、蔡英文は92年合意そのものを否定する戦略を採ったため、中国との関係悪化を懸念する中間派有権者への支持を広げられなかったのが敗因とされています。
こうして再選された外省人出身の馬英久は2期目に入ると、かつて中共と内戦を争った国民党は、過去のことも忘れたかのように、台湾の人たちの不安を無視して、次第に親中・媚中政策に重心を移して行き、ついには中共の傀儡政権に成り下がってしまったのでした。
■今回の総統選における台湾の人たちの投票行動の特徴としては、国民党支配下で忍び寄る中国からの圧力に若い世代が大きな危機感を感じて、民進党への指示を強め、こぞって投票に参加したことが挙げられます。
そして、予想外のダブルスコアの大差の原因については、投票日直前に韓国で起きた台湾出身タレント周子瑜さん(16)を巡る騒動が台湾で大きな波紋を呼び、選挙結果に影響を与えた可能性が指摘されています。
周さんは2015年10月に韓国の芸能事務所「JYPエンターテインメント」からミニアルバム「THE STORY BEGINS」でデビューした日韓台出身の9人で構成するアイドルグループ「TWICE」のメンバーです。昨年11月に韓国のテレビ番組の収録中に韓国の国旗と共に「中華民国(台湾)」の旗「青天白日満地紅旗」を振りました。
ところが、これが中国大陸のインターネットなどで批判を浴び、中国での興業に影響の出るのを心配した所属事務所は2016年1月14日、中国のファン向けに釈明文を発表し、台湾総統選投票日の前日の1月15日夜、周さんが黒い服を着て「両岸(中国と台湾)は一つだ」と繰り返し謝罪する動画を公表しました。
すると、たちまち台湾で「中国側の圧力を受けたのではないか」と反発が広がり、若者の投票率の高まりもあって、台湾自立の意識の高い民進党が、中共に媚びる国民党を大差をつけて破るという結果につながったと見られています。
【ひらく会情報部・海外取材班】
↑民進党主席の蔡英文候補の事務所に飾ってあるダルマ。昨年、蔡候補を支援する新聞記者が高崎に来訪し、群馬県台湾総会の案内で高崎だるまを購入し、同候補の事務所に寄贈したものの一つとみられる。↑
※参考情報:
●総統選確定得票数
民進党・蔡英文 689万4744票(56.12%)
国民党・朱立倫 381万3365票(31.04%)
親民党・宋楚瑜 157万6861票(12.84%)
●立法委員投票結果(113議席中68席+5席)
http://www.thenewslens.com/post/272088/
↑立法院の議席数113議席のうち民進党68席+時代力量5席で、民進党は悲願の単独過半数を実現。↑
今回の民進党圧勝の背景については、いろいろ取り沙汰されていますが、なんといっても、馬英九が8年間率いて来た国民党が、あまりにも親中・媚中政策に奔走したことで、台湾の住民の皆さんが、このままでは香港のように言論自由のない中国共産党(中共)の支配する大陸中国に飲み込まれて、永久に中国の属国に成り下がってしまうという台湾の民主体制の強い危機感を強く抱いたことです。
台湾は確かに中国大陸と同じ漢民族の住民が大多数を占めていますが、かといって、中共のような独裁体制ではなく、表現の自由が保障されている民主主義体制です。しかも、この自由な体制は昔からあったものではありません。台湾の人たちの努力で勝ち取ってきたものです。
■1945年(昭和20年)、日本の敗戦後、台湾の人たちも日本人と同じように敗戦のショックに打ちひしがれていました。ところが戦勝国の中華民国の蒋介石が、台湾で降伏した日本軍の武装解除のために、大陸から国民党軍を引き連れてやってきました。台湾の人たちは、新しい台湾の時代を大陸から来た同胞と築けるのではないかと思いました。
ところが、期待は完全に裏切られてしまいました。国民党軍は、日本統治時代に整備された社会基盤や統治システムをそのまま乗っ取り、台湾の人たちを支配し始めたからです。銅の電線が町中に張り巡らせてあるのを見て、国民党軍は、それらを切り取って横流しするなど、日本統治時代に培われた先進性を持つ台湾の人たちの目から見ると国民党軍の野蛮性は目に余るものでした。
こうして民度の低い側が台湾を統治し始めた結果、台湾の行政や経済社会システムは混乱し、治安は悪化し、台湾の人たちの暮らしは極限までひどくなってしまいました。そうした状況下で、二・二八事件が発生したのでした。
この事件は1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がりました。これはまだ日本国籍を有していた台湾の人たち(本省人)と、蒋介石が大陸から連れて来た国民党軍(外省人)との内戦ともいえる大規模な抗争事件でした。
事件の発端は1947年2月27日、生活苦のため台北市内で闇タバコを販売していた本省人の中年女性に対して、取締の役人が公衆の面前で暴行を加えたことでした。これが端緒となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われました。これに対して国民党軍の憲兵隊が発砲し、抗争はたちまち台湾全土に広がりました。
本省人は多くの地域で善戦し一時実権を掌握しましたが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、台湾の人たちを圧倒的な武力をもって徹底的に鎮圧しました。
■筆者は、このときの様子について1999年に74歳で故人となった義父から、生前、詳しく聞いたことがあります。義父によると、終戦直前に召集を受け、沖縄戦に備えて基隆で軍事訓練を受けていましたが、沖縄に兵員を運ぶ船がことごとく沈められてしまったため、終戦まで基隆で日本軍の規律による厳しい訓練に明け暮れていたそうです。その時訓練を指揮していた日本人の教官のことを生前、非常にほめていました。
義父によれば、日本軍が残していった武器を使い、日本軍に教えられた軍事規律に基づき、国民党軍と戦い、台中のラジオ局を占拠して民衆に蜂起を呼びかけ善戦したが、台南のラジオ局が国民党軍に奪還されてしまい、それから流れが変わってしまったと、1987年まで続いた台湾での戒厳令下で、自宅の居間で小声で話してくれたことを今でもよく覚えています。台南のラジオ局さえ、あのとき奪還されなければ、台湾の戦後の歴史は変わっていたかもしれない、と残念がっていました。
■義父の言ったように、日本軍の教えを受けて統率がよくとれていた台湾の若者らは、隠し持っていた日本軍の軍服を2年ぶりに着て立ち上がり、占拠したラジオ局からは、国民党によって禁止された「軍艦マーチ」などの日本軍歌が流され、各地で国民党軍と攻防戦を繰り広げ、国民党政府は追い詰められていきました。
劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示しましたが、これは策略で、在台湾行政長官兼警備総司令の陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請していました。蒋介石は、この陳儀の書簡内容を鵜呑みにし、翌月、大陸から援軍を多数派遣しました。
1947年3月8日、米国から提供された機関銃で武装した1万3000人の国民党軍が台湾に到着し、掃討戦が始まりました。いくら大規模に蜂起しても、まともな武器を持たなかった台湾の人たちは、多数の機関銃を持った正規軍には太刀打ちできません。たちまち台湾の人たちの蜂起は鎮圧されました。そして、白色テロとよばれる血の粛清が始まったのでした。
台湾の人たちの団結力と底力に恐れをなした国民党軍は、裁判官、医師、役人など日本統治時代に高等教育を受けた知識階級の人たちを次々と逮捕、投獄、拷問し、2万8000人もの本省人が無惨に殺されました。
軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、善戦した(「独立自衛隊」、「学生隊」等)。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まってしまいました。
■この二・ニ八事件で発令された戒厳令は、その後40年間も継続し、その間、白色テロと言われる恐怖政治によって、多くの台湾の人たちが投獄、処刑されてきました。1975年4月5日に蒋介石が亡くなった後も、戒厳令は続けられました。
しかしソ連のペレストロイカの動きなど、時代の流れは台湾における国民党の一党独裁体制にも影響を及ぼし、1987年7月15日、蒋介石の長男の蒋経国が総統の時に、ようやく廃止されたのでした。これに伴い、動員戡乱時期臨時条款(国安法)の成立によって、新党結成も解禁されました。その結果、言論・結社・言語の自由が保障され、国民党以外の政党が合法的に誕生するようになりました。
内外の批判を浴びて国民党政府がようやく戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限され続けました。現在の台湾に近い形での「民主化」が実現するのは、1988年1月13日に蒋経国が亡くなり、副総統だった李登輝が総統に就任し、1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことです。1980年代後半、戒厳令が解除された後でも、筆者の義父が台北の自宅の居間で政治の話をする時は、まだ辺りを気にして小声でしゃべっていたことを今でも思い出します。
蒋経国の配偶者はロシア人であることは台湾の人たちはよく知っています。これは蒋経国が若いころソ連に留学し、その後、蒋介石の長男ということで政治的な迫害に遭い、労働に駆り出されていた際に生涯の伴侶に出会ったためで、蒋介石と異なり、国民の声に耳を傾けた長男の政治姿勢は今でも台湾の人たちに好感をもたれている所以です。
こうして台湾の民主化への道筋を付けた蒋経国の死後、副総統であった李登輝(後の中国国民党主席)が総統に就任し、台湾国民政府の民主化を本格的に推し進めていきました。その結果、1994年7月、台湾省・台北市・高雄市での首長選挙が決まり、同年12月に選挙が実施されました。
さらに李登輝は総統直接選挙の実現に向けて、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統選出時から直接選挙を実施することが賛成多数で決定されると共に、総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めました。
そして1996年3月23日に中華民国史上初めての国民の直接選挙に、李登輝が自ら総統候補敏江出馬し、54%の得票率で当選し、台湾史上初の民選総裁として第9期総統に就任しました。
この選挙に際して中共は、台湾独立を懸念して反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称する軍事演習を実施し、ミサイルの発射実験を行いました。一方米国は2隻の空母を台湾海峡に派遣して中共を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まったことはまだ鮮明に記憶に残っています。
これ以降、中華民国政府が「中国全土を統治する政府」から「実効支配地域を代表する政府」へと変貌を遂げ、同時に1928年から続いてきた国民党の一党独裁による国民政府が消滅しました。これによって、台湾では複数政党制政治が確立し、台湾住民の民意に基づいた民主的な政府体制へと変化することとなりました。
李登輝は総統に再任後、さらに行政改革を進めました。1996年12月に「国家発展会議」を開催し、この会議の議論に基づいて1997年に憲法を改正し、それまで中華民国の地方政府としての機能を重複して持たされていた台湾省政府を凍結しました。これによって台湾省政府は事実上廃止となりました。
■こうして、台湾では民主的な選挙が実現したのはわずか20年前からです。李登輝の後、民選で選ばれたのが、初の民進党候補の陳水扁(2期)でした。しかし2000年3月の総統選挙での歴史的勝利、2001年12月の立法委員選挙での民進党の大躍進、2004年総統選挙での再選を成し遂げた陳水扁の政権運営は、2004年夏から暗転し、憲法修正、立法院の議員半減と選挙制度改革、党主席兼任問題、次世代リーダーたちの動き、不十分であった選挙対策が重なり、2004年12月の立法委員選挙で過半数獲得に失敗し、その後迷走を続けました。
この背景には、陳政権発足以来、陳水扁派と新潮流派を支持基盤としていましたが、2006年の陳水扁辞任要求運動の際に政権基盤の組み替えがあり、独立派が支柱の一つとなったこの時の意見対立が民進党内の主導権争いへと発展し、陳水扁の後継争い、党の路線論争にまで繋がって行ったのでした。そして、2008年総統選挙を前に、民進党は台湾ナショナリズムの方向に軸足を移して行きました。
2008年1月12日、総統選挙の前哨戦とされる第7回中華民国立法委員選挙では、馬英九率いる国民党が経済政策の失敗を問われた民進党に圧勝し、単独過半数を確保しました。そして同年3月22日の総統選挙では、民進党の謝長廷陣営が、1977年に馬英久が取得したグリーンカード所持、馬英九一族による政治献疑惑、暴力団との関係などを主張するネガティブキャンペーンを展開したのに対して、馬英九陣営は「ロングステイ」と銘打って台湾各地の農村地帯を訪れて回り、外省人でありながら台湾語による会話を行ったり、客家として客家語による演説を行うなど有権者と直接触れ合う機会を増やす事で対応し、国民の信頼を維持する選挙戦を展開しました。
総統選挙の結果、謝長廷の544万5239票(41.55%)に対し756万8724票(58.45%)を獲得して馬英九の当選が決定しました。2008年5月20日、馬英九は第12代中華民国総統に就任し国民党は8年ぶりに政権を奪還しました。この時、中国側は馬英九当選を歓迎しつつも、短距離ミサイルの増設など硬軟織り交ぜた姿勢を示しました。
■次の総統選は2012年1月14日に実施されました。この時は、第8回中華民国立法委員選挙も同日実施され、史上初の総統選挙と立法委員選挙のダブル選挙となりました。候補者は国民党が馬英久、民進党が蔡英文、親民党が宋楚瑜で、馬英久以外は今回と同じ顔ぶれでした。
投開票の結果、国民党の馬英九・呉敦義が6,891,139票(51.6024%)、民進党の蔡英文・蘇嘉全が6,093,578票(45.6301%)、親民党の宋楚瑜・林瑞雄が369,588票(2.7676%)でした。
馬英九が勝利した要因は、中台関係改善の実績と現状維持路線(統一せず、独立せず、武力行使せず)が評価されたものと受け止められました。とりわけ中台関係改善・交流拡大のきっかけとなった「九二共識」(92年合意。中国と台湾の当局者が92年に交わしたとされる合意の通称で、中国側は「一つの中国」で双方が合意したと主張したが、台湾側は「一つの中国」の判断は双方の見解に委ねるとして双方で食い違いを見せた)を維持するとした馬英九に対し、蔡英文は92年合意そのものを否定する戦略を採ったため、中国との関係悪化を懸念する中間派有権者への支持を広げられなかったのが敗因とされています。
こうして再選された外省人出身の馬英久は2期目に入ると、かつて中共と内戦を争った国民党は、過去のことも忘れたかのように、台湾の人たちの不安を無視して、次第に親中・媚中政策に重心を移して行き、ついには中共の傀儡政権に成り下がってしまったのでした。
■今回の総統選における台湾の人たちの投票行動の特徴としては、国民党支配下で忍び寄る中国からの圧力に若い世代が大きな危機感を感じて、民進党への指示を強め、こぞって投票に参加したことが挙げられます。
そして、予想外のダブルスコアの大差の原因については、投票日直前に韓国で起きた台湾出身タレント周子瑜さん(16)を巡る騒動が台湾で大きな波紋を呼び、選挙結果に影響を与えた可能性が指摘されています。
周さんは2015年10月に韓国の芸能事務所「JYPエンターテインメント」からミニアルバム「THE STORY BEGINS」でデビューした日韓台出身の9人で構成するアイドルグループ「TWICE」のメンバーです。昨年11月に韓国のテレビ番組の収録中に韓国の国旗と共に「中華民国(台湾)」の旗「青天白日満地紅旗」を振りました。
ところが、これが中国大陸のインターネットなどで批判を浴び、中国での興業に影響の出るのを心配した所属事務所は2016年1月14日、中国のファン向けに釈明文を発表し、台湾総統選投票日の前日の1月15日夜、周さんが黒い服を着て「両岸(中国と台湾)は一つだ」と繰り返し謝罪する動画を公表しました。
すると、たちまち台湾で「中国側の圧力を受けたのではないか」と反発が広がり、若者の投票率の高まりもあって、台湾自立の意識の高い民進党が、中共に媚びる国民党を大差をつけて破るという結果につながったと見られています。
【ひらく会情報部・海外取材班】