どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

ながいながいよる

2016年02月29日 | 絵本(外国)
ながいながいよる  

       ながいながいよる/作:マリオン・デーン・バウアー 絵:テッド・ルウィン/訳:千葉 茂樹/岩波書店/2011年初版

 

 雪に閉ざされ、長く長く続く寒く暗い冬の静寂な森。

 春を待ち望む動物たち。

 クマ、カラス、ヘラジカ、キツネが力で太陽をとりもどそうとしますが、風は「あなたじゃない」と、ためいきをつきます。

 太陽を待ち望み、いらだちを隠せない動物たちが画面いっぱいに大きく描かれていて、迫力があります。

 夜が主役で、前半の暗い感じと太陽がほほえむ最後が対照的です。

 文というより、詩です。


くつ屋のかけ・・・ボリビア

2016年02月28日 | 昔話(南アメリカ)

       くつ屋のかけ/大人と子どものための世界むかし話6 ペルー・ボリヴィアのむかし話/加藤隆宏・編訳/偕成社/1989年初版


 オチがユニークなボリビアの昔話。

 びんぼうなくつ屋が、妻には内緒で、悪魔と契約をして、ほしいだけのお金を手に入れます。しかし、五年後には魂を悪魔にわたすことが条件でした。

 五年後、悪魔が地獄に連れて行こうとしますが、くつ屋はなんとか八日間だけの猶予をもらいます。
 何も知らなかった妻は、夫が苦しんでいるのをみて、問いただします。そして自分の計画を話します。

 くつ屋は、やがてやってきた悪魔にかけをもちかけます。地上の動物で知らないものがないと自負していた悪魔に、自分がかっている動物の名前があてられなかったら、契約はなかったことにしてもらいというのです。

 悪魔がその動物をみますが、どうしても名前がわかりません。くつ屋に聞くと「ミ・ムヘール」と答えます。悪魔はその名前を何度もくりかえしながら帰っていきます。

 「ミ・ムヘール」とは「」わたしの妻」という意味で、悪魔がみた動物というのは、妻がはだかになって、足の間から頭をだしているものでした。 

 あまたの昔話がありますが、こうしたオチは、ほかにはなさそうです。
 悪魔との契約というのも、外国のものらしいところです。


どうぐはなくても

2016年02月24日 | 絵本(外国)
どうぐはなくても  

        どうぐはなくても/作:ビターリー・V・ビアンキ 絵:N.チャルーシナ/訳:田中友子/福音館書店/2007年初版

 

 道具はつかわず、口だけですみかを作る小鳥に、どんなふうに作っているのか聞いています。
 ツバメやキツツキのほか、なじみのない鳥も。

 ヨタカは、宮沢賢治の作品にでてくる鳥でしょうか。
 カササギ、ツリスガラ、ウタツグミ、ワシの巣。

 ワシに道具をつかったらどうでしょうというと、じゃあ使ってみようと出来上がった巣には、カナづち、のこぎり、ハンマ、カンナなどは巣の材料にされてしまい、おもわず笑ってしまいます。


 丁寧に描かれた巣の様子がリアルです。

 人間は道具を作ったりして自然を克服してきましたが、小鳥は自然を生かして共存していることをあらためて考えさせてくれます。


爺さまの湯治

2016年02月23日 | 昔話(日本)

           わたしの昔かたり/宮川ひろ/童話屋/2012年


 宮川ひろさんの語りで、派手さはありませんが、温かいものを感じた昔話です。

 秋の仕事も一区切りついて、婆さまと息子夫婦にすすめられて、湯治にいくことになった爺さま。
 お天道様が昇るまで朝寝坊をして起き抜けに湯に入って、米のおまんまよばれて、一日中茶飲んで気ままにしていていいなんて、はあもったいない話だと考えているうち、寝て起きて、飯をくって、湯へ入るだけのことなら、銭つかうこともあんめいと、家にいて湯治するといいだします。

 湯治にいくのに、米、味噌を用意するのですが、このあたりは昔の湯治をあらわしています。
 
 家にいて湯治すると言い出した爺さま、もらった小遣いで飴玉どれほどなめられるか、念仏講にいって酒を飲むのもよし、ちょいと花札をしてもよしと考えていました。

 爺さまが風呂にはいっているとき、雨がふりだします。まだ畑仕事をしていた婆さまたちは、干し物はお爺さんが取り込んでくれるどろうと仕事を続けていましたが、そのうち雨がひどくなってきて、家に帰ってみたら、干し物はそのまま。
 お爺さんの言い分は、おれは湯治しているのだからとしゃあしゃあいいます。

 雨降りだから、今日はぼた餅でも食おうとお婆さんたちは、ぼた餅をつくります。
 あんこに砂糖をはずみ、とろとろつやのあるぼた餅。

 お爺さんは湯治にいったからと、お爺さんを無視してぼた餅を食べ始めますが、ぼた餅は、いつもと違っておいしくありません。
 するとお爺さんは、荷物をもち、草鞋をはいて、ものもいわず、外にでていってしまいます。

 お婆さんは、干し物を取り込まなかったからといって、あんまり怒ったので、爺さまが家をでていったのではないかと心配します。

 しかし、お爺さんはすぐに「湯治から帰ったぞと」と草鞋のひもを解き始めます。

 お爺さんもふくめて、みんなで食べるぼた餅は、いつものようにおいしいものでした。


 お爺さんのどことなくとぼけた味がいきていて、いるべき人がいないと、おいしいものもおいしくないと家族のありかたもしめしているようです。
 大人のほうが楽しめる話でしょうか。                   


世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ

2016年02月22日 | 絵本(社会)
世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ  

    世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ/編:くさばよしみ 絵:中川 学/汐文社/2014年初版


 2012年リオネジャネイロで開かれた国際会議でのウルグアイのムヒカ大統領のスピーチです。

 先人の言葉を引用して「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に欲があり、いくらあっても満足しないことです。」とあります。

 そして、社会が発展することが、幸福をそこなうものではあってはなりません。発展とは、人間の幸せの味方でなくてはならないのです。
   人と人とが幸せな関係を結ぶこと、
   子どもを育てること、
   友人をもつこと、
   地球上に愛があること
発展は、これらをつくることの味方でなくてはならないといいます。

 家族や友人や他人を思いやる気持ちが、情け容赦のない競争をくりひろげる世界の中で「心をひとつに、みんないっしょに」などという話し合いができるか疑問をなげかけます。

 人間の幸せとはなのか深く問いかけ、言葉の持つ力を感じさせてくれます。

 給料の大半を貧しい人のために寄付し、公邸には住まず、町から離れた農場で奥さんと暮らしているのですが、このリオの会議に出かける冒頭に、農作業をし、犬にエサを上げ、自分でお湯を沸かし、コーヒーをのみ、さて自分で年代物の車を車を運転してリオにでかけようとする大統領ににむかって、奥さんが、ニワトリにもエサをやっていってねというと、エサをやってからでかける大統領の自然体が、このスピーチをよくあらわしているようでした。

 ウルグアイの人びとは親しみをこめて、ペペとよんでいるといいます。

 青年になってからは左翼派のゲリラ活動に従事するようになり、4度の逮捕を経験し、2回は脱獄しているという。
 感動的な逸話も多く、ネットで確認できます。

 人口300万人で、1300万頭の牛、1000万頭の羊がいるというウルグアイの歴史にも興味深いものがありました。
        
 この4月に来日したムヒカさんの講演の要旨が、新聞に取り上げられていました。あらためて豊かさの意味を問われているきがしました。テレビでみているとひょうひょうとした好々爺のようですが、言葉の一つ一つに感銘をうけました(2016.4)。


と おもったら・・・

2016年02月21日 | 絵本(外国)
と おもったら......  

    と おもったら..../作・絵:イエラ・マリ/ブロンズ新社/2005年初版

 

むかしむかし あるところに ウニがありました とはじまって
とおもったら・・・ヤマアラシ
とおもったら・・・こどものあたま
とおもったら・・・かぶ
どんどん絵が変化して

とおもったら・・・やっぱりウニだった とおわるのですが・・・・。

見方をかえると、別のものにも見えますよというのですが、途中の変化がやや苦しそうです。
それでもスキー帽、とんがり帽、ふんかする火山、くるくる花火と、よくもさまざまな連想があるものと感心します。

 下地が白で、真ん中の絵がきわめてシンプル。イタリア語が併記されているのもにくいところです。                


宮川ひろさんの昔かたり

2016年02月20日 | 昔話あれこれ

      わたしの昔かたり/宮川ひろ/童話屋/2012年


 宮川ひろさんの語りをCDで聞きました。
 ネットでも、語りを聞くことができるのですが、生のものとは微妙に違う感じがして、これまでは敬遠していました。
 しかし、このCDは雰囲気をよくあらわしているようでした。

 収録されているのは、「ねずみ経」、「さると地ぞう」、「せんがりの田」、「ねずみの相撲」、「天から落ちた源五郎」、「大工と鬼六」、「爺さまの湯治」と七つで、「爺さまの湯治」以外はこれまで何回か聞く機会がありました。

 語り手によって、雰囲気も微妙に異なり、ゆったりとした語り口で楽しめましたが、こまかな表現のちがいも印象に残りました。

 国分寺市で活動されているのですが、お生まれは1923年。児童文学者で、たくさんの作品を発表されていますので、表現にはこだわりがありそうに思いました。

 語りの合間に、感動的なエピソードが紹介されていました。

 一つは、「さると地ぞう」に関係した遠藤登志子さんの姪御さんにかかわる話です。

 姪御さんが、ある日、交通事故にあって、外傷はなかったものの、意識不明になって、意識がもどらなく、医者からは「今夜が峠です」と宣告されたそうです。
 この姪御さんは話の好きな子で、遠藤登志子さんがいつも話をされていて、おしまいには「さると地ぞう」を聞かないと帰っていかなかったそうです。
 遠藤さんが、不謹慎だとは思ったけれども、「さると地ぞう」を語りだし、この中の歌をうたいだしたら、姪御さんがちょこっと口を開いたそうです。聞こえていると思った遠藤さんが、この掛け詞を何回も何回も、リズムをかえながら語っていたら、姪御さんが「はあっ」と大きく息を吐いて、目をぱっちりあけ、後遺症も残らなかったというのです。

 語りは力になるんですね。じーんときました。
            
 もう一つは大工と鬼六。

 息子さんの入学式のあくる日、先生がざら紙を四つに切ったのを、一人に十枚わたし、そこに自分の名前を書かせて、名刺交換会をさせたそうです。お友だち十人分の名刺を持って帰ってきたのに感動されたというのです。

 ちょっといい話でした。

 宮川さんは2018年12月29日、亡くなられました。図書館の企画展示で知りました。「爺さまの湯治」を語ってみたいとおもいながらなかなか自分のものにならないのですが、再挑戦します。               


北風と太陽・・イソップとラ・フォンテーヌ

2016年02月19日 | 昔話(外国)

 タイトルはしっているが、なかみはしらないものも多いが、ラ・フォンテーヌ寓話もその一つ。昔話のモチーフにつながるものがあるか目をとおしていたら、「日の神と風の神」がありました。

 イソップの「北風と太陽」の再話版というべきもの。
 イソップはストレートですが、2千年以上、時を経てどんなふうになっているのかも、興味深いところです。

・北風と太陽(イソップのお話/河野与一・編訳/岩波少年文庫/2000年新版)

 北風と太陽が、どっちが力がつよいかといって争いました。道をあるいている人間の着物をぬがせたほうが勝ちだということにきめました。
 北風のほうがさきにはじめて、はげしくふきました。すると、人間が着物をおさえたものですから、北風はますますふきつけました。ところが人間は、ますます寒がって、ほかの着物まで着こみましたので、北風はとうとうつかれきって、太陽に、こんどは、きみの番だといいました。
 太陽は、はじめはじわじわと照らしました。すると人間が着物をぬいだので、もっと光をつよくしました。人間は、しまいにその熱さにがまんできなくなりました。そこで、着物をぬぐと、川のながれにはいって水を浴びました。
 いいきかせるほうが、むりにおしつけるよりも、ききめのあることが多いものです。

・日の神と風の神(ラ・フォンテーヌ寓話1/川田靖子・訳/玉川大学出版部/1979年)

 北風と太陽がみつけた旅人ひとり
 あらしにそなえてしっかり身じたく
 ちょうど秋もはじめてのころとて
 用心しすぎるということはない
 ふったり てったり にじの橋
 こんなきせつにでかけるときは
 コートがぜひともひつようだ
 むかしローマの人びとは
 あやしいきせつとよんだもの
 この旅人もそれをみこして雨じたく
 しっかりと うらうちされたじょうとうの
 じょうぶなマントを身につける
 「あのおとこ どんなことがおころうと
 じゅんびオーケーのつもりらしいが」
   -風の神
 「おれがあれればどんなボタンも
 ひとたまりもないとしらぬな
 その気になればマントなどゆくれしれずさ
 ひとあばれしてみるのもよいきばらしだ
 いっちょうやってみようかい」
 「それもいい では二人で かけでもするか」
 と日の神はことばすくなに
 「あそこのおとこのきているマントを
 早くぬがせたほうが勝ち
 さっそくきみからやってみたら」
 といわれるがはやいか
 ふいごのような風の神
 いきすいこんでふくらんで
 おっぱじめた悪魔のような大そうどう
 ヒューヒューゴーゴーふきまくり
 ちからあまって やねふきこわし
 船をつぎつぎしずめてしまう これもみな
 たった一まいのマントのため
 旅人はあらしがからだにふきこまぬよう
 しっかりかくごをきめてきりぬけた
 北風はむだに時間をついやすばかり
 くしんすればするほど いよいよ
 おとこはかたく身をまもる
 えりをぱたぱた ひだをばさばさ
 あおりにあおったかいもなく
 かけのタイムも時間ぎれ
 太陽が早くも雲をはらってでてきた
 そして男をほっとさせ
 あたたかい光をそそいで
 マントにしたに あせかかせ
 ぬがずにいられないきぶんにした
 それでもまだまだ めいっぱい
 ちからをだしたわけでもなかった
 やさしさは ちからにまさる


農夫とその子たち・・イソップ、なまけむすこ、父さんののこした宝物・・モルダビアほか

2016年02月18日 | 昔話(外国)

 イソップは実在の人間なのか、それとも伝説の架空の人物なのかは定かでなさそうですが、とにかく2600年も前の人物。


農夫とその子どもたち(イソップのお話/河野与一・編訳/岩波少年文庫/2000年新装)

  農夫が死ぬ間際に、「ブドウ園にいろいろなものが隠してあるから、よくさがして見つけなさい」と子どもたちに言い残してなくなります。
 子どもたちは、宝物が埋まっていると思ってブドウ園の土をすっかり掘り返します。ところが、宝物はみつかりません。
 しかし、よく耕したので、いままでの何倍もの収穫がありました。



お百姓とむすこ(ラ・フォンテーヌ寓話1/川田靖子・訳 馬場かし男/玉川大学出版部/1979年初版)

 ラ・フォンテーヌは3百年前にいたフランスの詩人。

 父親が、土地のなかに、たからがかくしてあると言い残して亡くなるのはおなじですが、ここではお金持ちの百姓になっています。ほかのものとの違いは、相続した土地を売ってはならないと遺言します。
 働くことが何よりの宝だと示します。



なまけむすこ(語り継ぎたい日本の昔話4/小澤むかし話大学再話研究会/小峰書店/2011年初版)

 なまけむすこの将来を心配したおじいさんが、自分が死んだら、畑に宝物を埋めてあるから、それを掘り出して使うように言い残して亡くなります。ところが、なまけむすこが、いくら畑を掘っても宝物はでてきません。
 近くの爺様がその様子をみて、豆を畑に植えるようにいい、やがて秋には立派な豆が育ち、なまけむすこは、お爺さんが言った宝物とは、このことだったのかと気がつきます。

父さんののこした宝物(モルダビア)(子どもに贈る昔ばなし9 うさぎ楽土/小澤俊夫監修/小澤昔ばなし研究所/2008年初版)
    
 ちっとも働こうとしない三人息子を心配した父親が、「たくさんの宝物を壺の中に入れて家の近くに埋めたが、どこに埋めたか思い出せない。その宝物があればお前たちは何不自由することなく暮らしていけるだろうがなあ」と言い残して死んでしまう。

 兄弟たちは宝物を探そうと家のそばに小さな穴を掘り始めます。しかし壺はみつからず、家のまわりや畑を全部掘り返します。
 鋤がなにか固いものにぶつかって掘ってみると、それは重たい石。うんこらうんこら石をかたずけ、さらに土地を掘り返していきますが壺は見つかりません。
 そこで兄弟は、せっかくだからとふわふわとなった土にブドウの苗を植えます。

 しばらくするとブドウのつるは立派にのびて、あまいブドウがたわわに実ります。大豊作となったブドウを売って兄弟は大金持ちになり、父さんが死ぬ前にいった宝物はこのことだったんだと気がつきます。

 モルダビアの話ですが、モルダビアは、東ヨーロッパの一角を占める地域の名称で、ルーマニアの東北部、カルパティア山脈の東、プルート川の西で両者に挟まれた地域にあたり、時にはルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川を西限とするベッサラビア地方を含めた、さらに広い地域を指すといいます。

 イソップの話は簡潔なのですが、モルダビア版はもっとふくらんだものになっています。

 モチーフはどれも同じなのですが、昔も今も、さらに国をとわず、子どものことを考える親の気持ちは同じようです。頭ごなしではなく自然に気が付くようにもっていくのは年配者の知恵でしょう。            


モジャキのくすり

2016年02月14日 | 絵本(日本)
モジャキのくすり  

      モジャキのくすり/文:平田 明子 絵:高畠 純/ほるぷ出版/2014年初版

 

 森にすむゴリラのモジャキは、夜にはなくそをまるめてこっそり食べる楽しみがありました。
それをみていたフクロウのロニンは気になってしかたありません。

 「なにを そんなに うまそうに たべておるんじゃ」と、ロニンに聞かれて、まさかだれかにみられていたのだとおもわなかったモジャキは、おもわず「あたまの よくなるくすりだよ」とでまかせをいってしまいます。

 ロニンから「ぜへともほしい、わしだいじなものと とりかえっこしよう」といわれて、モジャッキは、絶対誰にもいわないでと、念を押して、はなくそをロニンにわたします。

 ところが、このことが、チータ、キリン、ゾウ、コウモリと森中に広がってしまいます。

 このため、モジャキは次から次へとはなくそを丸める必要があって、大好きな昼寝もできず、嘘をついているのがいやになって、とうとう、寝込んでしまいます。

 寝込んだモジャキを心配して、みんながお見舞いにやってきますが・・・・。

 みんながお見舞いに持ってきたのは何と、あのあたまのよくなるくすりでした。

 うそだといえず、はなくそをごくりと飲み込み、あお あか みどり きいろ むらさき にかわるモジャッキの顔がなんとも楽しくなっています。

 はなくそのくすりを飲んだのはあまりいなかったようです。


 大笑いして読みましたが、モジャキはもしかしてみんなから信用されていたのかもしれません。
 そうでないと、モジャキの嘘は、森中に広がりません。
 嘘と知ったみんなのリアクションもさることながら、嘘を信用する側にも落ち度があります。            


ふしぎな小鳥の心臓・・ブルガリア

2016年02月13日 | 昔話(ヨーロッパ)

       ふしぎな小鳥の心臓/吸血鬼の花よめ/ブルガリアの昔話/八百板洋子 編・訳 高森登志夫・画/福音館文庫/2005年初版


 外国の昔話は、日本のそれよりも長いものが多いようです。「ふしぎな小鳥の心臓」も次から次へと話が展開します。

 一人の狩人が、燃えている木の上にいたヘビを助けますが、ヘビはそのお礼に小鳥の巣のたまごが、狩人をお金持ちにしてくれるでしょうといいのこし、どこかにいってしまいます。

 このたまごには小さな文字がかかれていました。文字が読めない狩人が、町の商人にたまごを見せると、商人は狩人に金貨を一枚わたし、さらに鳥をつかまえてくれるよういいます。
 狩人が小鳥を打ち落とし、商人のところにもっていくと、商人は両手でつかめるだけの金貨をくれます。
 狩人は、ヘビが言ったようにどっさりと金貨をさずかりますが、このあと、狩人の出番はありません。

 小鳥の卵には、小鳥の胃袋を食べたものは毎朝、枕元に金貨の入った袋がさずかり、小鳥の心臓を食べたものは、人のこころがなんでもわかるふしぎな力がさずかるだろうと書かれていました 
 
 小鳥を手に入れた商人は、召使に料理するよういいつけます。
 誰にも食べさせてはだめと商人はいいますが、召使の二人の息子が胃袋と心臓を食べてしまいます。
 弟が心臓を、兄は胃袋がのどの奥にひっかかります。
 お昼になって商人がもどってくると、二人は、逃げ出します。
 弟が心臓を食べて、商人が小鳥の胃袋と心臓を食べた者をつかまえて、首を切ろうとしてしているのがわかったからです。
 ここで商人の出番は終わります。商人はあきんどと振り仮名がつけられていますが、このほうがぴったりしています。 

 胃袋を食べた兄が、朝、目をさますと金貨の入った袋を見つけます。
 この金貨で、悠々と過ごすのですが・・・。

 5年たって立派な若者になった二人でしたが、この国の王さまには二人の美しいお姫さまがいて、うわさを聞いたたくさんの人が、お姫さまを一目見ようとやってきていました。
 二人の息子と二人のお姫さまですから、このカップルが結ばれてもおかしくはないのですが、ストーリーは意外な展開をします。

 欲張りな王さまが、お姫さまを一回見せるのに、金貨を一枚ずつ、とっていたのですが、二人は金貨にはことかきませんから、心をうばわれてしまったお姫さまをみようと、城に通い続けます。

 不思議におもったお姫さまは、若者の財産を、すっかり奪い取ろうと策略をめぐらし、兄の秘密を聞きだします。
 お姫さまは夕食会に二人の若者を招待し、お酒を飲ませ、酔っぱらってぐっすり寝込んだ兄の頭を棒でたたいて、小鳥の心臓を手に入れます。(心臓がのどにひっかっているという伏線が生きてきます)
 そして、弟から金貨に入った地下室のカギを手に入れ、金貨をすべてうばいとります。

 すべてを失った兄弟でしたが・・・。

 二人が森のなかでみつけた、黒いブドウと白いブドウ。
 黒いブドウをたべるとロバに、白いブドウをたべるともとどおりになるのをしった二人は、お城の前にいき、大声でブドウを売り始めます。
 黒いブドウを食べたお姫さまは、ロバになって城を追い出されてしまいます。

 兄弟は、「もう、こんなふしぎな力はこりごりだ」「金貨は、働いて手にいれるのがいちばんだ!」とどこかにいってしまう結末がまっています。
 そしてロバになったお姫さも、それから先はどうなったか、だれもわかりませんと結ばれています。


 ヘビの恩返しだけでも一つの話ですが、狩人、商人、二人の若者、二人のお姫さま、欲張りな王さまと次から次へと登場して飽きさせません。


おしり

2016年02月12日 | 絵本(日本)
おしり  

           おしり/写真・さとう あきら 文・さえぐさ ひろこ/アリス館/2007年初版

 

 動物のおしりの写真だけです。

 動物って正面だけでなく、おしりもいろいろです。

 でてくるのはキリン、カバ、ニホンリス、カピバラ、マレーバク、インドサイなどなど。

 シマウマのおしりは、シマでなんとなくわかりますが、オカピというのは、すぐにイメージするのは、むずかしそうです。

 カバのおしり。しっぽは短めでどうどうとしています。でか ばーん!です。
 キリンは、しっぽ たらーり のっぽ ぐにゃ~り。
 シマウマは、しまうま しましま ぐるぐる しましま。

 文も動物の特徴を楽しくあらわしています。


さんすううちゅうじんあらわる

2016年02月11日 | 絵本(日本)
さんすううちゅうじんあらわる  

   さんすううちゅうじんあらわる/作:かわばた ひろと 絵:高畠 那生/講談社/2012年初版

 

 ガンバルル小学校1年1組に突如やってきた宇宙人。

 宇宙人のゼロイチ先生が、地球人って戦争したり、喧嘩ばっかりしていて、そんな星はないほうがいいから、すごい算数をみせてくれたら助けますが、だめだったら宇宙金魚キョダイデメゴンのエサにするといいだします。

 1時間目体育の時間。サーカーのゴールをみて、ボールをける速さ、タイミング、角度、回転を一瞬に計算するのに、ゼロイチ先生はうなります。

 2時間目音楽の時間。ドレミファソラシドは、算数の規則できまっていると再び感心するゼロイチ先生。
 図工室では、宇宙人のちょうど半分の人形に、保健室の身体測定では身長、体重、視力の記帳に、教室の時計とカレンダーの複雑な計算に感心します。

 最後に1から10までの数字を足したらいくらになるのか計算する問題。
 小学校1年ですから、まだ勉強していない問題です。
 アンジュさんがなぜかカードゲームで遊んでいます。

 チャイムがなって時間切れ。あわや地球はキョダイデメゴンにのみこまれそうになりますが・・・。

 ゼロイチ先生が一人で、うなずいて普段きずかないのを教えてくれるあたりが、面白いところです。
 給食の時間、バラエテイに飛んだ児童となぜか小さく描かれた黒い影や鳥の存在がきになります。

 楽しみながら算数の楽しさをおしえてくれますので、算数ぎらいがなくなるかも・・・。

 戦争や喧嘩ばっかりしている地球はないほうがいい(事実そのとおり!)といわれるのは悲しいです。


ふしあわせさん・・ブルガリア

2016年02月10日 | 昔話(ヨーロッパ)

       ふしあわせさん/吸血鬼の花よめ/ブルガリアの昔話/八百板洋子 編・訳 高森登志夫・画/福音館文庫/2005年初版


 ”ふしあわせさん”というのは、まじないの言葉でしょうか。

 父親と二人の息子。
 父親に依存していた息子を、なんとか一人立ちさせようと、父親は二人だけで森にいって薪をとってくるようにいいます。
 二人は、斧が壊れたらどうしよう、荷車が壊れたらどうしようと心配ばかりします。
 すると父親は ”ふしあわせさん” がお前たちを助けてくると肩をたたいて、家からおくりだします。
 二人は一日中働いて、荷車に山のように薪を積み上げます。
しかし、帰る途中に荷車が、こわれて動かなくなります。
 二人は ”ふしあわせさん”をよんで助けてくれるようさけびますが、だれもあらわれません。
 
 しかたがないので、自分たちで荷車をあっちこっちいじっていると、もとどおりになります。
 父親に荷車がこわれたこと、自分たちで荷車を直したことをことを、話します。

 父親は ”ふしあわせさん”が助けてくれたよと話し、自分たちで前に歩き出した息子をだきしめます。


 息子の自立を促す父親ですが、薪をとってくるのは、ややくるしい展開です。
 もっと別の課題であってもよさそうです。


吸血鬼がでてくる昔話

2016年02月09日 | 昔話(ヨーロッパ)

 日本の昔話であまりお目にかかれないキャラクターに吸血鬼があります。

 吸血鬼と娘という組み合わせは欠くことができない要素のようです。

 魔女がでてくる結末はハッピーエンドに終わることが多いのですが、吸血鬼の場合は、どこかせつない感じの終わり方をします。

 (バルカンの昔話/八百板洋子 編・訳 ルデイ・スコチル 画/福音館書店/2007年初版)から吸血鬼がでてくる話。
    

吸血鬼に恋した娘(ブルガリア)

 秋の収穫祭のとき、村に一人の若者がやってくる。村の白い花のような娘カリンカは、若者に熱いまなざし向け、それからふたりで逢瀬をかさねる。若者が自分のことを何もいわないため、娘は若者のあとをつけ、若者の正体は吸血鬼であることがわかるが、会いたい気持ちをとめることができない。若者が「この前の晩、みただろう。正直に言わないと君の一番大切な人が死ぬよ」といわれて、カリンカは何もみていないとこたえます。
 次の朝、父親が冷たくなりますが、それでもカリンカは若者に会いたくて夜になると家をでていきます。母親も弟もなくなってしまうがそれでもカリンカは若者に会いたい気持ちが止められません。
 しかしある朝、村の人は花嫁衣装を着て冷たくなっていたカリンカを発見します。
 それから春になると娘の家の庭先にいままで見たこともないような赤い花が咲いたという。

青い炎の館(ルーマニア)

 ある娘が乗った馬車が大きな雷で谷底に落ちてしまいますが、美しい若者に助けられます。娘は若者が好きになり、若者から結婚を申し込まれますが、実はこの若者、吸血鬼。
 秘密を知った者を殺すのが吸血鬼の掟ですが、この若者は娘を逃がします。
 こうもりに姿をかえた吸血鬼どもが娘を殺そうとしますが、若者は十字架をかざして吸血鬼を防ぎますが、十字架をかざした若者のからだを金色の光がつつみ、まっ黒な森の中に燃え上がります。
 それいらい、古い館はいつも青白い炎につつまれたようになります。



吸血鬼の花よめ(ブルガリアの昔話/八百板洋子 編・訳 高森登志夫・画/福音館文庫/2005年初版)

 バルカンの昔話の同じ訳者が訳されていて、福音館文庫にあります。

 王さまの三人目のお姫様がりっぱな身なりの若者の求婚をうけて結婚することになりますが、この王女は若者の正体をよく見極めないまま、王さまの手をふりきって、むかえの馬車にのって、城を去ります。
 墓石の下にある青い炎が燃えている部屋にいき、パンを一口食べると、急に眠くなります。
 光のさしこまない部屋で若者をまって、何か月かすぎますが、姫は一度も夫の姿をみることができません。
 若者は、毎晩花よめのところにやってきて、一番どりが鳴くと、どこかへ行ってしまうのです。
 若者は姫に求婚したときに、吸血鬼におそわれ、魂をうばわれていたのです。吸血鬼は姿を見られた人間を生かしておくと、自分の身が滅びてしまうのですが・・・。

 前の二つの話は、せつない終わり方をするのですが、この話では、姫が若者のことをおもって、ふかい祈りをささげると、墓の下で、冷たくなって命が絶えた若者が生き返ってハッピーエンドになります。

 三人の王女をスイカにたとえ、一番大きなスイカはあまく熟れすぎ、二番目はちょうど食べごろで、一番小さなスイカはすこし早すぎという表現は、他の昔話にはみられません。

 相手に結婚の承諾をするとき、リンゴで若者の肩を打つ場面もあります。

 若者が姫に求婚したときに、吸血鬼が魂を奪うのは、嫉妬だったのでしょうか。


 ブルガリアは長い間、ローマやトルコに支配されたので、文化の面でも他のスラブ諸国と別の道をあゆみ、独自のものをつくりあげたというのですが・・・。
 吸血鬼が登場する話は、もっとあってよさそうにも思いますが、目につく限りでは翻訳されているのは少ないようです。