どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

ふくべは縁起がいい・・茨城

2024年12月26日 | 昔話(関東)

      茨城のむかし話/茨城民俗学会編/日本標準/1975年

 

 田植え時期というのに雨が降らない日がつづき、水不足に悩んでいたおっかさんが、たんぼのあぜ道にいると、目の前に大きな男が立っていた。

 男は、おっかさんのところに三人の娘がいることを知っていて、ひとりくれるならおまえさんのたんぼに水をいっぱいいれてやるという。三人いるからひとりぐらいやってもいいから、田んぼに水をいれてくれといったおっかさんが、「いったいおまえはだれだ」と聞くと、男は、「今晩のうちに、おまえさんのたんぼに、水をいっぱいにしてやる。わしは普通の人じゃねえ。たまげねえでくれよ、わしは池の大蛇なんだ。」というと、さっとくらやみの中にきえてしまった。

 上のふたりは、大蛇のよめになるなんて、とんでもねえと断るが、末娘は、たんぼに水をひけるならと、泣きながら、よめになることを承知した。次の朝、いままで一滴の水もなかった田んぼに、水がいっぱいあり田植えがおわった。

 末の娘は、いよいよ約束通りよめにいくことになったが、「よめ入りの道具として、長持ちをひとつと、ふくべ(ひょうたん)を千個、針を千本買ってほしい」という。おっかさんとふたりの姉は、長持ちをひとつと、ふくべを千個、針を千本用意し、森の中へいくと、池に向かって、やくそくどおり よめをつれてきたと、さけんだ。すると池の水が急にざわざわして、池の中から大蛇がやってきた。

 末の娘は、「いまこの池にふくべを千個まくけど、その中のどれでもいいから一つしずめられたらあんたのよめになる。」と、条件を出した。「ひとつぐらいしずめるのはなんでもねえ、はやくまけ」と大蛇がこたえ、ふくべをしずめようとすると、しずめたとおもったふくべが、全部うかびあがった。おどろいた大蛇は、別のふくべを五、六個口にふくみしずめたが、これもすぐうかびあがってきた。ふくべには針が一本ずつつきささっていて、その針が、大蛇の背中や腹をぶつり、ぶつりさすもんだから、大蛇は痛くてしょうがなくて、「大蛇のよめはやっぱり大蛇がいい。人間なんぞまっぴらだ。さっさと帰れ。」と叫んだ。

 末娘は、「大蛇のよめになるつもりでここにきたんだから、約束ははたした。よめにしねえというんだから仕方があんめい。田植えもしたし、義理もたてたし、よかったな。さあけえろう、けえろう」といって、無事に家に帰ってきたんだと。だから、ふくべは縁起がいいんだそうだ。

 

 大蛇のいいぶんが、なんともいえない。


カエルのもちしょい・・茨城

2024年12月21日 | 昔話(関東)

      茨城のむかし話/茨城民俗学会編/日本標準/1975年

 

 むかし、新しく取れた米で餅をついて、田の神さまにお祭りしたもんだと。

 カエルは、田の神さまの家来だったが、十月になると、八百万の神さまは、みな大社の出雲へいかれるもんだから、お供えした餅を背負って、田の神さまのあとにしたがって、出雲へ行っていた。だけど、重い餅をもって歩くのは、カエルだってありがたくなかったので、中には横着なカエルもいて、田の神さまのおとももせず、取入れのすんだあとの畑にもぐりこみ、冬ごもりをはじめるものもいた。

 こんなカエルは、お百姓さんが麦をまくため畑を耕しているとき、まちがってよく鍬の先で切られてしまうんだと。それで、鍬で切られたカエルは、田の神さまのもちしょいをしなかった罰なんていわれたと。

 

 田ほり、苗代づくり、種まき、田植え、田の草取り、収穫まで、米づくりの工程が、季節とともに展開します。

 楽しいのは、カエルのもちしょいをみたダイコンが、カエルの格好が面白いので、あっちのダイコン、こっちのダイコンが、土の中から、もっくりもっくり首をながくするが、十月がすぎると、ダイコンがせっかくのばした首を引っ込めてしまうので、畑には決して はいるもんでねえという。

 農作業の知恵が、こめられている昔話。聞いたらしぜんに、農作業の流れが わかるようになりそうです。


十三塚・・茨城

2024年12月17日 | 昔話(関東)

      茨城のむかし話/茨城民俗学会編/日本標準/1975年

 

 ずっとむかし、筑波の裏山にさびしい村があって、そこにごんべえどんが、一人で住んでいた。ぼんべいどんは、ひとりぐらしでさびしかったのか、動物が大好きで、とくにいっぴきのネコをかわいがっていた。畑仕事がおわって家に帰ると、ネコに話しかけるのが楽しみだった。

 ある日、ごんべいどんは、きゅうにさがしものをおもいだして、めったにあがったことのない物置にあがったが、いきなりネコがでてきて、ごんべいどんの足に絡みついた。ネコはごんべいどんがあがろうとするたびに、足に絡みついたので、ごんべいどんは、物置にいくことはやめにした。その晩、便所に行こうとしたら、また、ネコが出てきて、あとになったりしてついてきた。用をすませて、寝床にもどったら、ネコは安心したようにねてしまった。

 どこへ出かけるにも、ネコがついてくるので、ネコをよんできいてみると、物置にはでっかいネズミがいて、おじいさんを食おうとしていたという。はじめてネコの心がわかったおじいさんに、「ひとりだけでは、この大ネズミをやっつけることはできねえ。」という。ちょうどいいことには、なかまのネズミが十一ぴきいるので、みんなにたのんでネズミを退治して見せるという。

 ごんべいどんは、たいそう喜んで、とっておきの米で、赤飯をたいて、ごちそうし、ネコの好きなかつおぶしもいっぱいふるまった。せいぞろいしたネコは物置にいったようで、「ギャー、ギャゴーッ」「チ、チュー、キッ、キュー・・」「ガウ、ギャオー」と、ものすごい叫び声が聞こえてきた。ものの一時間ほどもたったころ、ごんべいどんが、物置にいってみると、大ネズミも、十二ひきのネコたちも、みんな血だらけになって死んでいた。

 ごんべいどんは、死んでしまったら、敵も味方もない。いくら動物たちでも、命はとうといもんだと、ネコやネズミの墓を作ってやった。

 いつのころからか、村の人たちは、この墓を十三塚とよぶようになったんだと。


びんぼう神と小判・・茨城

2024年07月23日 | 昔話(関東)

      茨城のむかし話/茨城民俗学会編/日本標準/1975年

 

 ある貧乏な夫婦が、夜なべでわらじをつくっていると、急に地震みたいに家が揺れ、バリッとばかり天井をぶち抜いて、骨と皮ばかりにやせた、ちっちゃなじいさんがあらわれたと。

 おじいさんは貧乏神で、「おまえのところは土地が少なく、家も小さいという貧乏暮らしだから、ここにながく住みつくつもりだったが、お前たちが働き者で、まじめにせっせとかせぐので、どうもすみにくい。よそにいくことにした。」といい、つづけて、「今夜の四つどき(午後十時ごろ)むこうの山をすずをつけた馬が通るから、おまえたちはこれからいって、その馬の横腹を竹やりでつきだせ。」というと、ふうっと消えてしまった。

 へんな話だとおもったが、神さまのいいつけならと、貧乏神のいうとおりにすることにしたんだと。ありあわせの竹の棒で竹やりをつくり、一本の木の下でしゃがんで、その馬をまっていると、たしかにひづめの音がして、木の方に近づいてくる。馬が目の前にきたので、男が夢中で飛び出して馬の横腹めがけて竹やりをつきだした。するとたまげたことに、馬の腹から、なにか、きらりときらりとひかりながら、チンカラリン、チンカラリンと、あとからあとからこぼれおちるものがあったんだと。よくよくみれば、それは小判だったと。きがつくといつのまにか馬はいなくなっていたそうだ。

 ふたりは、小判を拾って帰って、いっぺんに大金持ちになっちゃったつうだがな。

 

 竹やりでつきさせと、びっくりさせて、落としどころは昔話らしい。貧乏神だって、えらぶ権利があると主張するのが、ほほえましい。


糸くり川のカッパ・・茨城

2024年07月21日 | 昔話(関東)

      茨城のむかし話/茨城民俗学会編/日本標準/1975年

 

 親孝行の若者が、ある夕方橋のたもとでみかけた娘を、親の反対をおしきって、よめにした。

 顔も姿もきれいで、大変な働き者。反対していた親も、近所にいって自分の家のよめの自慢をするようになった。しあわせな毎日をおくっていたが、だれにもまねのできないおかしなくせがあった。いつもみんなが寝静まった夜になると、こっそり家を抜け出し、夜明け近くになるとかえってはくるが、いつもからだはなんとなくひやっとつめたかった。

 ある日、若者が寝たふりをして、外に出かけたよめのあとをつけていったが、橋の上までくると、すうっと姿が見えなくなってしまった。その夜は、そのままかえってきた若者は、こんどは気がつかれないように、着物の裾にぬい糸をゆわえつけておいた。つぎの晩も、若者はよめのあとをついていったが、やはり橋の上で見失ってしまった。だがこんどは、縫い糸をたよりに、あとをついていくと、よめは洞穴にはいっていった。なかをみると、思わず腰を抜かしてしまった。そこには、子どもたちにちちをのませているカッパが、しずかにすわっていた。

 働き者のよめというのは、じつは川に長い間すんでいるカッパで、人間の姿にばけて、若者のところに やってきていたんだという。このことがあってから、この川のことを糸くり川と呼ぶようになったということだ。

 

 カッパは人間に悪さをする存在とおもっていると、そうでもない。このあとどうなったか気になるが、話はそこで終わっている。


万石長者・・茨城

2024年07月18日 | 昔話(関東)

      茨城のむかし話/茨城民俗学会編/日本標準/1975年

 

 出だしとおわりはちがうが、竜宮伝説の一つでしょうか。

 ひどく貧乏な”むたいち”が、毎日鰐が淵で魚を釣っていた。鰐が淵というところは天狗が住んでいるといわれ、ほかのだれも近づこうとしなかったところ。

 ある日、いつものように鰐が淵で釣りをしていると、白い杖をもったおじいさんがあらわれた。おじいさんがいうことには、むたいちが、釣りをするようになってから天狗が姿を現さなくなりお礼をしたいという。連れていかれたのは。水の下の竜宮。ここで夢のような日を過ごしたむたいち。家に帰ろうとすると、お姫さまが くれたのは 打ち出の小づち。

 打ち出の小づちをふると、米でも金でも食い物でもなんでも出てきた。それから、むたいちはは、みるみるうちにゆたかになり、一年後には、村の者から万石長者とよばれるほどになった。

 何年かたったある日、八幡太郎義家が、奥州の安部氏を滅ぼすために、長者屋敷にとまったとき、村では長者を中心に、義家の連れてきた10万の家来をもてなした。

 やがて安部氏を滅ぼして帰ってきた義家一行を、こんども前以上に大判振る舞いをした。

 義家は、歓待をされながら、「こんな金持ちの長者を、このままにしておいたのでは、後日の災いになる。今のうちの滅ぼすにかぎる」と、長者の屋敷を焼き討ちにし、家のものを皆殺しにしてしまう。火は三日三晩燃え続け、打ち出の小づちも見当たらなくなった。

 

 このあたりを八幡太郎義家が、とおっていったのでしょうか。竜宮は、きっかけなのか?


かさボコホイ、みのボコホイ・・栃木

2024年02月01日 | 昔話(関東)

        栃木のむかし話/下野民俗研究会・編/日本標準/1977年

 

 あるところのおおきな寺に、みのやかさの壊れたものがだいぶたまって、和尚さんは小僧さんに寺の床下にすてるよういいつけました。

 日が暮れておつとめを終えた小僧さんが、布団に入ってうとうとしていると、どこかで、「かさボコホイ、みのボコホイ かさボコホイ、みのボコホイ」という声が聞こえてきた。ねむりかけた小僧さんが目をこすりながらおきてみると、だれもいない。つぎの夜も同じように声が聞こえてくる。気味が悪くなった小僧さんは、とうとう和尚さんに いっしょに 寝てくれるようお願いした。「そんなにひとりで寝るのがこわいのなら、ひとつ、わしがいっしょにねてやろうか」と、和尚さんもその夜、小僧さんのそばに寝たんだって。

 その夜、和尚さんの耳にも、「かさボコホイ、みのボコホイ かさボコホイ、みのボコホイ」の声が聞こえてきた。和尚さんは、二、三日前に、かさとみのを、縁の下に捨てたことを思い出し、「かさやみのが、縁の下なんぞに、捨てられたもんだから、おこってんだべ。」と、つぎの日、縁の下だけではなく、近所のうちから、いらなくなったものを、うんと集めてきて、丁寧に拝んでから、火をつけてもしてしまった。

 それからは、へんな声が聞こえなくなったという話じゃ。


たこ屋半兵衛・・栃木

2024年01月27日 | 昔話(関東)

        栃木のむかし話/下野民俗研究会・編/日本標準/1977年

 

 たこ屋半兵衛が伊勢参りにいって大阪の金持ちの家にとまりました。そこでは、金屏風をたてて、たいしたごちそうでもてなしてくれました。

 じっさいは、掘立小屋に住んでいた たこ屋半兵衛ですが、「こんなものは、うちにもある」「おら、よめさまほしいんだ」と おおぼら。

 金持ちは、「よめさまほしけりゃ、おらげのむすめやんべ」と、約束。年の暮れに大阪からやってきたよめさまが、掘立小屋を見てという。、「よめに行くべえと思ってきた以上は、その人に会って、顔を見ねえでは おら帰んねえ」と、親子の縁を切られても たこ屋半兵衛のもとへ。

 ところが、たこ屋半兵衛の掘立小屋が狭いため、ばけもの屋敷にとまることに。ところが夜中になるとガタガタがはじまり、でっけえ音がしたり、うなり声がして、ばけものがきたとおもったら、そのおばけは、「あんたらにうらみがあるわけでもなんでもねえんだけど、おれは、ここにうまっている金なんだ。しゃばへ出して、通用さしてもらいてえと思って、ここへ人が来ると、こうして出だしてくんだけど、みんなにげてしまう。おまえらは どうだっぺね。」。

 よめさんどきょうがあって、これはいいこと聞いたと つぎの日、ほってみると たくさんのお金が でてくるわでてくるわ。それで たこ屋半兵衛は、一晩のうちに大金持ちになったというわけだ。たこ屋半兵衛はそのお金で商売をしたが、よめさんも、大商人のむすめさんだから、金の使い方がうまく、大阪の鴻池にもまけねえようになった。

 

 「いまならば銀行かなんかにあずけるんだけど、大昔のことだから、屋敷のどっかに うめることしか しょうがなかったんだべ。」と、なぜ、金がうまっていたのかの説明?もあるのが 目新しい。


子ざるとそば・・茨城

2024年01月12日 | 昔話(関東)

      子どもに贈る昔ばなし18/小澤俊夫・監修/小澤昔ばなし研究所/2022年

 

 ソバがたくさんつくられるようになった話。

 軒下で血でそまったさるの親子を助けた矢次郎夫婦。看病の甲斐なく母ざるがなくなり、のこされた子ざるを大切に育てました。子ざるは、山仕事にでかけると、いつもついてきて、ほかの仕事もよく手伝っていました。

 10年もたったある月夜のばん、子ざるがすがたを消してしまいました。その年は、冬の寒さと夏の長雨で、作物がほとんどとれなくなって、ふたりがやっとの思いで暮らしていたのでした。

 それから三年たって、ふたりがいつものように仕事を終えて家に帰ると、土間にいっぴきのさるがすわっていました。よく見ると、たしかにあの子ざるでした。さるは、頭をぺこぺこさげ、ぐれえっ葉につつんだものを、ふたりにさしだしました。ぐれえっ葉には、こげ茶色の三角の実がたくさんはいっていました。ふたりがよろこんでいると、さるはまた頭をぺこんぺこんと下げて、山へ帰っていきました。

 つぎの日、ふたりはその実を畑にまきました。三月三日たったころ、畑いちめんに真っ白い花が咲き、こげ茶色のみがたくさん実りました。ふたりはこれを粉にして、だんごにしたり、おやきを作ったりしました。とてもおいしいので、ふたりはあのさるがそばにいたら、一口食べさせたかったと思い、この実を「そば」と名づけました。それからはこの地域で、そばがたくさんつくられるようになりました。

 

 「そば」の名前の起源が 「さる」にむすびついていたとは!。ぐれえっ葉というのはギボウシの葉というのですが、どちらにしてもよくわかりません。


おやじのおしえ・・東京

2023年10月03日 | 昔話(関東)

        東京のむかし話/東京むかし話の会編/日本標準/1970年

 

 裸一貫で大店をきづいただんなさんでしたが、それでもじっとしなくて、お客の応対や、庭掃除、ふきそうじにくるくるとよくはたらいていた。

 ところが、だんなさんのむすこときたら、地面にはいつくばるようのはたらくおやじをみて、「金をもって死ねるわけではなかろうに。ああしてまで金をためたいもんかねえ。あーいやだ、いやだ。この世に生きるのはたった一度っきり。のんびり金を使ってあそんでくらすのがいちばん・・」と、帳場から大番頭の目をかすめては、金を持ち出し、あそんでくらしておりました。

 ある日、ふところ手をしたむすこが、酒のにおいをしてかえってきたのをみただんなが、血相を変えてむすこにつめより、庭の真ん中にどんっとむすこをつきたおすと、松の木にのぼるように 怒鳴ります。むすこはおやじの剣幕におされて、しぶしぶ松の木にとりつくと、のぼりはじめました。「もっとのぼれ・・。もっとじゃ。」「へいへい。」

 まわりには番頭たちが口をあけみあげています。「こりゃーいいながめだわい」「こりゃ-。のぼれーっ」「へいへい」。「こんどは、そのえだにぶらさがれ・・っ」

 「いいか、よっくきけ。まず、小指をはなせ。「へいへい。」「つぎは、薬指をはなせ。」「へいへい。ちょっとあぶないな。」「こんどは、中指をはなせーっ。」「へーっ。おっとあぶない。」「こんどは、人差し指をはなしてみろ。」

 人差し指をはなしたら、おちてしまうと悲鳴をあげるむすこに、だんさんはいいます。

 「せがれや、その指のかたちをよっくおぼえておけ。それはなんのかたちじゃな」「お、お金ですよ・・っ」「わかったな。人差し指と親指で、まるくつくったもの。そいつをはなすと、おちてしまう。金は大事に使え。どんなことがあっても、はなすじゃないぞ。」

 番頭や手代は、いっせいにかんしんしていいました。「なーるほど、さすが、おやじのおしえ」

 

 あまり見られない昔話です。芥川龍之介に「仙人」という短編があります。仙人になりたいという男が、20年ただ働きをしたら、仙人になる術をおしえるといわれ、期限がくると、松の木にのぼります。木へのぼると、右手、左手を離すようにいわれ、そのとおりにすると、宙にうき、高い雲のなかへのぼっていってしまいます。昔話では、天からむかえがくる話もありますが、「おやじのおしえ」のほうがリアルでしょうか。


江戸のネズミと九州のネズミ・・東京

2023年10月01日 | 昔話(関東)

 「三分間で語れるお話」(マーガレット・リード・マクドナルド 佐藤涼子・訳/星雲社/2005年初版)に、「長崎のネズミ」が紹介されています。

 「長崎のネズミ」は、食べるものがなくなった長崎のネズミが、薩摩まで船で渡り、食べ物を手に入れようとすすんでいくが、途中であったのが、薩摩の船。
 この船にのっていたのが、薩摩のネズミ。薩摩のネズミも食べるものがなくなって、食べ物を手に入れようと長崎にいくところ。
 長崎にも薩摩にも食べるものがないことを知ったネズミが一匹、一匹海に身を投げ出します。
 すっかり悲観したネズミが一匹一匹が海に飛び込むようすを、やめてといわれるまで続けるという話。

 

 「江戸のネズミと九州のネズミ」(東京のむかし話/東京むかし話の会編/日本標準/1970年)

 再話でだいぶながくなっていますが、「長崎のネズミ」と同様の話。こちらは江戸と九州と距離がはなれています。

 江戸も九州のネズミも、どちらも大火事になって、新天地を目指しますが、どちらのネズミも、人間どもの見せしめに、海にはまって死んでやろうと寒い冬の海にとびこむ結末。

 江戸のネズミがいうことには、火事で、強盗や、辻斬りが横行し、近所のお百姓からコメを仕入れてきて、べらぼうな値段で売る不届きな者がいると嘆きます。


キツネの恩返し・・東京

2023年09月27日 | 昔話(関東)

       東京のむかし話東京むかし話の会編日本標準1970年

 

 「むかし、中野というところは、字のとおりに、野原の真ん中だった。」とはじまるので、中野区の話でしょうか。

 タヌキやキツネが、ひとびととなかよくくらしていたころ。のっぱらの、真ん中にひとりの旅の坊さんが粗末な小屋を建てて住みついた。このあたりは、まるで寂しいところで、人かげはめったに見られない。坊さんは、ときどき「こうまでだれともあえんとは、さびしいことだ」といいながら暮らしていた。

 あるとき、坊さんのところへキツネがやってくるようになり、何年かぶりで生きものに出会った坊さんは、うれしくなって、じぶんのたべものを たべさせてやったりしていた。やがて、寒い夜など、坊さんが火をたくと、そのそばまでやってきて、手足をのばせるだけのばしてあったまって、ぐっすりと眠り、朝になるとかえっていた。

 あるとき、坊さんが、どうしても町へでかけなければならん用ができた。その日、とっぷりと日がくれ、夜道をかえってくると、じぶんの小屋からあかりがもれている。「これは、どうしたことだ。」と、小屋にはいってみると、キツネがちゃんとなかにいて、火を焚いて、湯までわかして、坊さんをまっていてくれた。

 ある冬、雪がしゃんしゃんふりつもる夜、トントントンと、戸をたたくものがある。戸の外にはキツネが、なにやら小さなふくろをかかえていた。「おお、つめたかろう。はいれ、はいれ、はいって火にあたれ。」ふくろのなかにはアズキと米がはいっていて、坊さんとキツネは、かゆをにて、あついかゆをふうふういいなっがらすすった。その夜、坊さんとキツネは、ひとつふとんにくるまってねた。ふとんのなかでキツネは、「坊さん、坊さん。こんなにしんせつにしてもらってありがたい。いままでの恩返しに、なにかしてあげたいが、おれにできることがあったらいうてみい。」といった。

 坊さんが、「そうじゃなあ。わしのように世を捨てたものにゃあー、何も望みはないが、暑い日にはすずしい風がほしいし、すこしさむい日にゃあ、あったかいおてんとさまの光がほしいのう。」というと、キツネは、「それは天がやることで、キツネができるもんじゃない。ほかには。」というた。そこで、坊さんは、「そうじゃなあ。ま、この小屋が火事にあわんように。それから、飲み水は、夏は冷たく、冬はぬるくしてほしいのう。そうなれば、わしらのような年寄りは、朝晩水をつかうときにたすかるわい」というた。「そうかい。それぐらいならできんこともないな。」キツネは、そういうた。

 それからというものは、中野では、どこのわき水も、夏は手がしびれるくらい冷たくて、冬は、ゆげがたつほどぬるくなり、火事もあんまりでないそうだ。

 

 昔話には珍しく、高望みがなくほっとする話。恩返しではなく、キツネが坊さんにつくす話。 


源十郎 弥十郎・・神奈川

2022年11月20日 | 昔話(関東)

          神奈川のむかし話/相模民俗学会編/日本標準/1977年

 

 鎌倉の源十郎という魚売りが、いつもように由比ヶ浜を歩いていると、犬に追われたキツネが一ぴき、一目散にかけてきて源十郎が担いでいる荷の中へとびこんでしまいました。追いかけてきた犬がもの凄い剣幕で吠え立て源十郎のまわりをぐるぐるまわりました。源十郎が天秤棒で犬を追い払うと、キツネは一目散に山へ帰っていきました。

 その晩、源十郎は、夢枕で 昼間助けたキツネから、魚売りをやめて佐介ケ谷でダイコンをつくるよう話かけられました。お金持ちになるといわれ、源十郎はさっそくダイコンづくりをはじめました。あけてもくれてもダイコンづくりにはげみ、いつか寒い冬になりました。

 その冬、村じゅうに悪い病が流行っていました。その病気にかかると、たいていの人は助かりません。そんなとき、村のひとりが夢の中で、源十郎が作っているダイコンを食べれば、たちどころに、病はなおるという神さまのお告げを聞きました。お告げを聞いた村人は、村じゅうに、お告げのことを知らせました。ためしにダイコンを食べてみると、不思議なことに、たちまち病がなおりました。評判が評判を呼び、源十郎のところへダイコンを買いにくる人がおしかけました。残り少なくなると値段はどんどん高くなるばかりでしたが、それでも人びとが高いダイコンを買ったので、源十郎は、たちまち大金持ちになってしまいました。

 源十郎は大金を手に入れ、御殿のような家を作り、たくさんの召使を雇ったり、かってなことをするようになりました。こんな振る舞いは、身分をわきまえないと、殿さまが財産を取り上げ、鎌倉から追い出してしまいました。

 仕方なく旅に出た源十郎夫婦が旅をつづけ、いつのまにか筑紫(福岡)のある村につき船にのりこんだときのことです。急に海があれだし、船が沈没しそうになりました。船頭は「海が荒れるのは、竜王さまがおこっているからだ。みんながもっている宝物を、海に投げ込めば、海は穏やかになる。」といいます。源十郎は、命惜しさに、残り少なくなったお金を海に投げ込みました。すると、海はもとどおり静かな海になり、無事に博多につくことができました。

 年の暮れに、魚を買ってお祝いしようと妻が言いだしますが、源十郎は、お金がすっからかんになるので難色をしめします。それでも妻からしつっこくいわれ、大きな魚を買いました。ところが魚を調理しよう腹をさくと、さきほど海に投げ込んだお金があるではありませんか。

 このお金で再び商いをはじめた源十郎は、その商売があたって、いつのまにか、また大金持ちになりました。このとき名前を弥十郎とあらため、こんどは大金持ちになっても、おごらず、貧しい人には、ほどこしをするなどのよいことをしました。

 このうわさが鎌倉にもきこえ、源十郎を追い出した殿さまの、次の殿さまから「鎌倉にかえってきてもよい」とのお許しをもらい、鎌倉に帰って、しあわせにくらしたという。

 

 スケールがちがいますが、どんな贅沢をしても使いきれないほどの大金持ちもいます。天国(地獄?)までもっていっても仕方がありませんが・・・?


カッパどっくり・・神奈川

2022年11月13日 | 昔話(関東)

            神奈川のむかし話/相模民俗学会編/日本標準/1977年

 

 いくら飲んでも減らない「カッパどっくり」の行方は?。

 

 茅ケ崎の働き者の五郎左ヱ門が、畑仕事を終えて帰る途中、川のそばで馬が暴れていました。

 馬の飼い主が「助けてくれ! カッパだ。カッパだ。カッパが出たんだ!おれの馬をとっちまう!」と騒いでいます。カッパが馬の尻に、がぶりと食いついていました。馬は痛いのと恐ろしいので、気が狂ったようにあばれています。五郎左ヱ門は大きな声でみんなを呼びました。ちょうどよいことに仕事を終えて、帰りかけていた村の人が、大勢かけつけました。村の人たちはカッパをつかまえ、縄でギリギリにしばりあげると、殺してしまえと大騒ぎ。

 カッパはすっかりおとなしくなり、泣いて、小さな声で助けてくれとうったえました。村の人たちは、すぐにでも殺してしまいそうなようす。五郎左ヱ門はおそるおそる、「カッパのやつも、もう悪さはしねえと言っているようだから、ひとつ放してやろうじゃねえか。」と、みんなにむかって言ってみましたが、村の人たちはなかなか納得しません。しかし、五郎左ヱ門が一生懸命たのみ、カッパも頭を地面にこすりつけて泣いてあやまったので、そのうち村の人たちも、放してやることにしたのです。

 その夜、「コトコト、コトコト」と戸口をたたく物音がし、五郎左ヱ門が眠い目をしばしばさせながらでてみると、先ほど助けてやったカッパが、またきているでは ありませんか。こんど見つけたら、ただではおかないといっておいたのにと、おもわず怒鳴りつけると、カッパはなにやら細長い物を、五郎左ヱ門の前に差し出すと、こう言いました。

 「これはカッパどっくりというものです。中にはうまいお酒がいっぱい入っています。いくら飲んでもへりません。でも、とっくりの底をポンとたたくと、もう普通のとっくりと同じになって、酒は出ません。」。カッパは、これだけのことをいそいで言うと、おじぎをして、にげるようにして、川の方に帰っていきました。それから五郎左ヱ門は、二度とカッパに会うことはありませんでした。

 

 カッパのくれたどっくりは、茅ケ崎のある村に残っているが、いまは一滴の酒も出てきません。だれかが、とっくりの底をポンとたたいたのでしよう。

 

 いくらお酒を飲んでも減らないとっくりがあったら、仕事がおろそかになるので、やはり話としておくのが、いちばんでしょう。


タフンバルとザットの頭・・神奈川

2022年11月08日 | 昔話(関東)

             神奈川のむかし話相模民俗学会編日本標準1977年

 

 川崎の兵蔵さんという綿屋が、相模原の宿屋で、夕食もすませくつろいでいるところへ宿の主人がやってきて、「綿屋さん。タンフルを食べなさるか。」と聞く。兵蔵さんは聞いたこともない食べ物だが、いずれにしても食べ物であることは間違いないだろうと、「大好物だね」と答えた。すると宿屋の主人はたいへん喜んで、タンフバルを出してくれた。ところがタンフバルというのはカエルの煮物で兵蔵さんは驚いた。大好物といった手前、食べないわけにはいかず、我慢して食べた。むねがつかえて少しもおいしくなかったが、「とてもうまかったよ。」とあいさつした。

 するとまもなく宿の主人がやってきて、「ザットの頭を食いなさるか」といってきた。聞いたこともないので、こんどは、「だいきらいだ。」と、答えた。ところが、同じ宿の人がとなりの部屋でザットの頭をおいしそうに食べているので、そっとのぞいてみると、それはうまそうなぼたもちであった。

 兵蔵さんはあまいものがだいすき。なかでもぼたもちが大好物だったので、残念で残念でならなかった。それいらい、やたらにすきだ、きらいだなどと、いうものではないと、つくづく思ったそうだ。

 

 姿がカエルのままだとちょっと手が出ないというのは先入観。食べてみたらおいしいのかも。