どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

「花さかじい」型の昔話

2024年08月31日 | 昔話(日本)

 誰もが知っている?「花さかじい」ですが、地域や作者によっていろいろなバージョンがあり、さらに絵本も多いので、語る場合は、どれをテキストにするか悩む。

出だしの部分をいくつかあげると
 ・おじいさんが、つむぎを売りに行き、そのお金でいじめられていた犬を助ける(正月も近づいたころ)
 ・じさまがお寺まいりに行って串団子を土産に買って帰り、途中いじめられていた犬をこの串団子とひきかえに助ける。
 ・おばあさんが川に流れてきた柿を家にもちかえり、この柿を臼に入れておくと、子犬が食べてしまう。
 ・おばあさんが川に流れてきた桃を家にもちかえり、この桃を臼に入れておくと、犬が食べてしまう。
 ・おばあさんが川に洗濯に行くと、黒い箱と白い箱が流れてくる。白い箱をもちかえるとその中には、子犬がはいっている。

 柿や桃がでてくるものがあるが、これは季節によって使い分けができそう。しかし、後半部分で、枯れ木に花を咲かす場面がでてくるので、時期は、晩秋から冬がふさわしいので、桃というのは少しくるしい。

・花さかじい(岐阜のむかし話/岐阜児童文学研究会編/日本標準/1978年)

 おばあさんが、川でひろった柿。あまりにおいしいので、お爺さんにも食べさせようと臼においておくと、臼の中から子犬。おおきくなった犬が、ここほれ、ここほれというので、クワでほってみたら小判やたからもの。
 意地の悪いおじいさんが、借りてきた臼をつくと、出てきたのはどろどろの水。
 意地の悪いおじいさんが、臼をつくと、でてくるのは黒くなったもち。
 ほかの話では、ちょとグロテスクなものがでてきますが、こお話しでは、すっきり受け入れやすい。

・むぎからおんじとそばからおんじ(岩手のむかし話/岩手県小学校国語教育研究会編/日本標準/1976年)

 タイトルからはわかりませんが、「花咲か爺」型の話で、灰をまくと、花が咲くのではなく、雁がおちてきます。
 でてくる人のネーミングが楽しい。魚を捕りにいって白い子犬を助けるでだし。犬の亡骸のところに植えるのは、「コメコノ木」(どんな木でしょうか)
 雁が飛んでくるようすも、かぎになったり、さおになったりとイメージがふくらみます。

・かもとり(秋田のむかし話/秋田県国語教育研究会編/日本標準/1974年)

 「むかしむかし、じっちゃは山へしば刈に、ばばは川さ、せんたくにいったど」と、「桃太郎」風の出だし。川から拾ったのは、白い子犬。このあとは「花さかじい」ふうの展開。

 「花さかじい」では、臼の灰で、枯れ木に花が咲きますが、ここでじっちゃが灰をまくと、鴨の目に灰がはいって、鴨がバタバタと落ちてきて、鴨汁にして食べてしまう。一方へちょへちょじっちゃ(ずるくてけちんぼな じっちゃ)が灰をまくと、自分の目に入り、めがみえなくなってしまう。

・子犬をひろってしあわせになったじいさんの話(まめたろう/愛蔵版おはなしのろうそく10/東京子ども図書館/2010年(森口多里著「黄金の馬」三弥井書店) 

 花ではなく、雁がおちる話。
 下の爺さんが小犬を助け、太郎と名前をつけます。ばあさんが、皿で食べさせれば皿ほどに、お椀たべさせればお椀ほどに、臼でたべさせれば臼のおおきさになった太郎。

 やがて、太郎が山へ、下のじいさんと一緒にでかけます。太郎が「あっちの山さ、蜂落ちろ。こっちの山さ、鹿落ちろ」と叫ぶと、爺さんの方に鹿が落ちてきて、その日は鹿汁。
 上の爺さんが、太郎を借りて、山へ行くと、落ちてきたのは蜂。上のじいさんは 怒って太郎をうちころしてしまいました。下のおじいさんが、打ち殺された太郎を埋めたあとに植えた木から、臼をつくり、餅をついていると、「金落ちろ、銭落ちろ」と、歌う声が聞こえてきて、じいさんの前に金、ばあさんの前に銭が落ちてきました。
 上の爺さんが臼を燃やしてしまったあとの灰を空にふりまくと、雁がおちてきて、雁汁に。
 上のばあさんが、厠の屋根から落ちたじいさんを、雁と間違って、しりをへらでたたいて、じいさんをたたきころすという忖度のない おわりかたをします。

 雁が出てくる昔話は、「枯れ木に花」タイプより先行していたといいますが、いまは雁は禁猟。語る場合は、一言 必要でしょうか。


 イギリスのユングによる世界童話全集2(川端康成 野上彰 編訳/偕成社文庫/1977年初版)のなかに、「花咲じい」がのっているが、ここでは、子どもがいない夫婦が、子犬を大事にかわいがっていたという出だし。
 川端康成が名を連ねている童話集であるが、このタイトルが「うらやましがりやのとなりの人」とあって、副題に「花さかじい」とあるのは、訳者が日本の読者に配慮したものか。


食わず女房

2024年08月30日 | 昔話(日本)

 テキストも多く、絵本にも紙芝居にもなっており、端午の節句とよもぎと菖蒲が魔よけとなったいわれが盛り込まれているので、5月に語られることが多い。しかし前半部からは、こうした展開を予測することは難しい。

 「食わない女」をよめにしたいというのは、どうにも男の身勝手。「食わない女」、男と一緒にいるときは何も口にしないが、男が仕事にいくと、にぎりめしや味噌汁を頭の中の口に、ぽんぽんと投げ込むという山姥。怖い怖いと思いながらついつい引き込まれます。

 「食わない女」とは、山姥、鬼、河童、ヘビなどで、各地で異なります。

・食わず女房(日本の昔話29 信濃の昔話/日本放送出版協会/1980年) 

 正月バージョン。松の枝を家のまわりにさしておくと、鬼ばばあは、どうしても男をみつけることができず、あきらめて山に帰っていくという結末。こんな話からは、四季に応じたものもありそうです。

・山んばとショウブ(熊本のむかし話/熊本県小学校教育研究会国語部会編/日本標準/1973年)

 類話では、山姥が頭の口に、にぎりめしを 投げ込みますが、この話では、にぎりめしを子どもがいる裏山へ運んでいきます。頭の口というより違和感がありません。

 けちな男が、そばを通りかかったきれいなむすめをみて、ひとりごとをいうと、むすめは、飯食わんでもいいと、男のよめになります。

 男が米倉の米が、減っているのにきがつき、物陰に隠れてみていると、山姥は、炊いた飯でおにぎりをつくると山道をのぼっていきます。すると山姥の子どもがどこからともなくあらわれ、われさきにとその握り飯を食べはじめました。

 正体がばれると、身を清めてきれいに別れようとお湯をわかし、たがいにゆずりあって、男が風呂に入っていると、山姥は風呂桶をかるがる持ち上げ、山道をのぼっていきます。

 男は松の木の枝にとびつき、運よく難をのがれます。さらに山姥が家までやってくると、草むらに逃げ込みます。逃げ込んだ先にはショウブが、あたり一面においしげっていたので、山姥は男を見つけ出すことができず、あきらめて山に帰っていきます。

 いかにも昔話風なのが、「なぜ、見つからなかった?」と問い、結びに持っていくあたり。

・かえる女房(青森のむかし話/青森県小学校国語研究会・青森児童文学研究会/日本標準/1975年)

 「まま よけいくってもいいから あったり前の人間のよめっこ もらってやるじゃ」と、当たり前?の結末。

 むすこのために ご飯食わねえよめっこほしいと、毎日神さまにおがんでいたばさま。ある雨の日、草履をはいた娘っ子が、一晩とめてくれるようやってきて、ご飯をくわせても、少ししか食わず、もっと食えとすすめても「もう 食われねえ」という。

 むすこのよめにちょうどいいと、よめっこにもらうことにしたばさま。

 三、四日たってから、よめっこは ぼたもちをもって お神楽にでかけます。よめっこどこの村からきたかとおもって、むすこは、よめっこのあとをつけていきます。すると よめっこは 大きな沼のあるところにいって、ぼたもちを、投げ入れます。池から出てきたのはかえるで、よめっこも ぱっとかえるになって ポチャンと池に。むすこは池に木の根っこを投げ入れます。

 夜、お神楽からかえってきたよめっこは あしをひきずっていました。ばさまが しらんぷりをして「その足どうした」ときくと、よめっこは 「木の根っこで けがした」と、こたえます。ばさまが そばにあったうすを なげると よめっこは、大きなかえるになって、ぴょんぴょんとんでいなくなります。

・もっけの化けもの(秋田のむかし話/秋田県国語教育研究会編/日本標準/1974年)

 タイトルとは結びつきませんが、秋田版「食わず女房」です。青森版同様、もっけというのは かえるのこと。

 ニ度目のよめさんとしてでてきます。女が法事に行きたいというので後をつけていくと、もっけの姿に早変わりし、古い堀に飛びこみます。池からは、「ゲグ ゲグ ゲグ」と賑やかな鳴き声。弥助という男が あまりの腹だたしさに、堀の中めがけてどんどん石を投げつけます。

 家に帰った弥助に、女が、「さかんにお経をあげているときに、なんだか知らねども、屋根にドスンドシン、投げつける音がした」と話すと、弥助が、「んだべ、んだんべ。このおらが、大きな石をいっぱいなげただもんだ」というと、女は正体を現して、堀のなかに飛び込んでしまいます。

・食わずのよめ(岡山のむかし話/岡山県小学校国語教育研究会編/日本標準/1976年)

 「食わずのよめ」の正体はクモ。

 おむすびをつくり、背中でぱくっと食べるのですが、どんな食べ方やら。

・食わずの嫁(愛媛のむかし話/愛媛県教育研究協議会国語委員会編/日本標準/1975年)

 おしかけ女房の正体はクモ。化けクモに追いかけられ、男が逃げ込んだのは観音堂。観音堂がクモの糸でぐるぐる巻きにされ、でられなくなってしまうが、五日目に通りかかった村の人に助けられ、男はどうにか干ぼしにならんですむ。

・食わず女ぼう(福島のむかし話/福島県国語教育研究会編/日本標準/1977年)

 おしかけ女房の正体は山うば。自分で女の正体を探る話がほとんどの中で、隣の人が、知らせてくれ、いきなり「何食ってんだ」とどなると、桶に入れられさらわれていく。

・弥そう太と山んば(岐阜のむかし話/岐阜児童文学研究会編/日本標準/1978年

 タイトルからは想像できません。

 よめのしていることを つし(屋根裏の物置)に隠れてみていた弥そう太。よめは子ども衆を連れ込んで、飯を食わせはじめます。正体がばれると、つけ菜おけに、弥そう太を押込み山へ向かいます。よめは、さきに子どもたちをいかせ、湯を沸かしておくように いいつけます。フジヅルにつかまって、桶から出た弥そう太は、怖いもの見たさに、よめの後を つけていきます。「あしたの晩は、クモにばけていって ひっさらってこよう」という、山んばを 何とかしようと、近所の衆に相談します。近所の衆と山んばをまちますが、夜になって、みんながこくりこくり。すると、一ぴきのクモが、つしの上からさがってきて、ねむっている弥そう太の首に、糸をつけてすーっとあがっていきます・・・。

・あれわいさのさ(信濃路の民話を語ってひとり旅/瓜生喬・著/郷土出版社/1986年初版)

 九州肥後の「食わず女房」の再話ですが、最後のほうが楽しい。

 正体がばれた女が、桶の中に男をぽいと投げ込み、あれわいさのさと歌うことを要求し、阿蘇の山めぐりするというのですが・・・・。

 「お金や田地田畑なんぞ、つまらん浮世の通行手形。旅にはいりません」とうそぶく女。この女が、なに者であったのかはでてきません。

・めしくわぬにょうぼう/常光徹・文 飯野和好・絵/童心社/2018年

 

 欲深な男のところへやってきたうつくしい娘が、やまんばにばけ、にぎりめしを 頭の口に 投げ入れるところは迫力満点。
 欲深な男も、ごっつい感じ。まあ、同情できませんが・・・。

 男の家に、米俵、漬物桶がありますが、でっかい太鼓もあるので、気になりました。お祭りのとき、太鼓でもたたいたのでしょうか。なんの説明もなく、ちょこっと鎮座して、あれこれ空想させてくれるのも、絵本ならではです。


美濃の桃太郎・・岐阜

2024年08月29日 | 昔話(中部)

      岐阜のむかし話/岐阜児童文学研究会編/日本標準/1978年

 

 川へ洗濯にいったばっさまが見つけたのがドンブラコ ドンブラコとながれてくるモモ。ここまでは「桃太郎」のでだし。

 ばっさまがさっそくひとくち食べてみると、そのうまいことうまいこと。じっさまにもあげようと、残りの半分を懐にしまい込んで、きれいな谷水をすこし手にすくって飲んだ。これが騒動のはじまり。六十あまりのばっさまの姿が、十七、八のむすめにかわってしまった。

 シバを背負ってかえってきたじっさまが、いえにはいると、ひとりのわかいむすめが、ばっさまとそっくりの着物を着て、庭のかまどのところにいた。ばっさまが、「まあまあ、おじいさん。おそかったなも。さあさあ、どうぞ足を洗いなされや」と、せきたてるので、じっさまは、まるでキツネにつままれた。

 どうもふしぎでならんとおもったが、なにかわけがあるのじゃろうと、ひとまず家の中にはいった。「どこのどなたじゃ、あまり見かけないむすめさんじゃが」といわれれ、こんどは、ばっさまがへんにおもい、「おかしなこというな、アッハッハ アッハッハ・・」と、大声をあげてわらいだしてしまった。

 ばけものだろうと、つめよったじっさま。近所の衆が集まってきて、じっさまが若いむすめを取り押さえ、脇差をかまえて、ことばもあらあらしくののしっているのをみて。みんなあきれかえってしまった。村の衆がよく見てみると、この若いむすめは、顔かたちから身のこなしまでも、なんとばっさまにそっくり。そのうち、だれかが手かがみを持ってきた。「むすめさん、いっぺんじぶんの姿をみてみなんさい」といって、さしだした。ばっさまは、鏡を見て、びっくり仰天。さてさてどうしたことかと考えておったが、ふと思ついた。

 わけをはなし、もってかえったモモもじっさまにさしだした。とても信じられないと、モモを一口食べたじっさまは、みるみるうちに二十歳ほどのりっぱな若者にかわってしまった。村の衆は、目の前で、世にも珍しいありさまを見聞きして、なんだか若い二人が姿がありがたいと思った。やがて、ふたりのあいだに男の子が生まれた。モモから生まれたようなもんじゃて、桃太郎という名前をつけたという。

 

 語り手の方が、「若返りの水」と「桃太郎」の出だしをうまく組み合わせ、楽しんで語った様子が浮かんできます。


ベッドのなかは きょうりゅうのくに

2024年08月28日 | 絵本(日本)

   ベッドのなかは きょうりゅうのくに/まつおか たつひで/童心社/2022年

 

 いつも、おやすみのまえに おかあさんから本をよんでもらっていた男の子。でもあかちゃんの泣き声で、おかあさんは、とちゅうで部屋を出ていきました。

 「つまんないの~」「おふとんの なかへ もぐっちゃえ。」男の子はネコのミーコと、ほらあな探検とばかり、ふとんのなかにもぐりこみました。ふとんのなかを どんどんすすんでいくと、そこは恐竜の国。

 ランベオサウルスの子が肉食竜に追われていました。ティラノサウルスに見つかりそうになりますが、なんとか やりすごし、おかあさんをさがしに でかけました。

 夜だけど、いろんな恐竜がいて、おかあさんを みなかったか 声をかけていきます。草食竜のアラモサウルス、そらをとぶプテラノドン、パラサウロロフスなどがでてきて、恐竜好きの子には たまらない世界。見返しにさまざまな恐竜のイラストがあり、登場するページ番号も書かれています。


 恐竜だけでなく、カメやトカゲ?、カエル、ゴキブリ?など さまざまな生き物も登場します。こんな生き物が、恐竜時代にいたことにも驚き。

 ほとんど覚えられない恐竜の名前も、好きな子にとってはハードルは低いようで、いつも感心しています。カタカナを覚えるのも大変な気がしますが、それが障害になることもなさそうです。


天からふってきたお金・・トルコ

2024年08月27日 | 昔話(中近東)

     天からふってきたお金/アリス・ケルジー・文 岡村和子・訳/岩波書店/1964年

  トルコでは、みじかいお話六百ほどあつめた「ナスレッディン・ホジャ物語」が、何回も出版されているようです。実在の人物のようで1208年の生まれ。

 ホジャのとなりの金持ちの商人ディン・ペイは、ホジャが、「ああ、神さま、わたしはお金がいりようなのです。どうか一千クルシュをおさずけください」「ハ百クルシュではだめですし、九百九十九クルシュでもだめです。きっかり一千クルシュの大金がいりようです。それより、すこしでもすくなかったらおことわりもうしあげます。」と祈っているのを聞いて、みょうなことをいっているのものだなあと、思ったのです。

 こっけいなホジャが好きだったディン・ペイは、あることを思いつき、きっかり九百九十九クルシュの金貨を袋にいれ、ホジャへ投げ入れました。ホジャは神さまにお礼もいわずに、せっせと金貨をかぞえはじめました。なんどかぞえても九百九十九クルシュしかありません。「一千クルシュよりちょっとでもすくなかったら、ホジャはいただきません。」といっていたのに、ホジャは、神さまに一クルシュ貸したことにして、はらまきにおさめてしまいます。

 ところがディン・ペイは、ホジャをからかろうとしただけなので、金貨を返すようにいいます。が、「あなたが?上からおとしなすった? そんなばかな! このお金は、神さまがくださったんだ。それにまちがいない。わしの祈りが通じて、天からおちてきたんです。」と、ホジャはうけつけません。

 ディン・ペイが裁判所で決着をつけようとすると、いつも裁判所でしゃべりまくるのがすきなホジャは、「妻がつくろっているので、上着がない。上着なしでは法廷にはでられない。」「裁判所まで歩いていったのでは時間がかかる」といいだしました。ディン・ペイはしょうがなく、上着を貸し、馬まで用意しました。さらに「くらやたづなもない」というので、ディン・ペイは、それも用意し、すっかり支度を整えて、裁判所まででかけました。

 裁判所で、ホジャは、「ディン・ペイさんは、世の中のありとあらゆるものがじぶんのもだとおもいこんでおられる。わたしの金のことも、そうだといわれた。ためしに、たとえば、わたしがいま着ている上着が誰のものか聞いてみてください。」「馬まで、じぶんのものというでしょう。」と、申し立てます。

 裁判官は、金貨の袋を上からおとしたことは、おかしな気がしたが、たづなまで自分のものだというのは、これはあきらかにおかしいと、金貨、馬はホジャのものだと裁定します。

 ところが、家に着くと、ホジャは、金貨も上着も馬もディン・ペイに 返すといいだしました。さらにホジャは、「裁判所へ戻って、いまのはじょうだんだんだ、証拠がそろっているからといって、いつもその証拠どおりでないと、よくいってきかせてくるつもりです。」と、いいました。

 ホジャは、えらそうにふんぞりかえっている裁判官をだましてやろうと、策略していたのでした。

 

 ホジャにつきあわされたディン・ペイさんは、災難でした。


カミナリさんの手つだい・・岐阜

2024年08月26日 | 昔話(中部)

      岐阜のむかし話/岐阜児童文学研究会編/日本標準/1978年

 

 カミナリさまのところでも人手不足のようで・・。

 田植えもすんでお伊勢参りにでかけた、キン、ゴン、サンという三人の男が、道にまよって宿をたのんだのは、ひとりでいたおくさんのところ。

 夕食に、お皿におかれた、まるいものを食べようとすると、かんでもかんでも食えない。何かと聞くと、泣く子のヘソを取ってきたものをにしめにしたものという。おくさんのだんなは、カミナリさま。三人は、えらいところに泊まったとふるえておったら、夜中になって、バリバリッという音がして、黒いふんどしで現れたのはカミナリさま。

 三人が、頭を下げてじっとしていると、カミナリさまが、「よく来てくれた。きたついでに、たのみたいことがある」という。「じつは、こちらはまだ田植えのさかりで、お百姓が雨をまっている。何とかして雨をふらせてやりたいが、どうにも人手不足で、思うようにふらせらねえ。手伝ってくれないか?」

 つぎの朝、カミナリさまは、「キンはいなずまを引け」「ゴンは、キンがいなずまを引いたら太鼓をたたけ」「サンは手桶に水を持っとって、水をまいてくれ」という。

 キンがいなずまをひくと、ぴかぴかっ。ゴンが、たいこをたたくと、ドンドンドンゴロドロッ。サンは水まき。すると下では、「それ! ようだちさまが雨をくださったで、この機をはずさんように田植えのしたくだ」と、大騒ぎ。

 キンが、こりゃおもしろいと、いなずまを引きながら、ひょいひょいひょい歩くうちに、雲を踏み外して、ドサーッと、落ちてしまった。その勢いで、火事が起こってしまった。「こりゃかなわん。くそかしょんべんをかけてやれ」と、大騒ぎ。

 昔から、カミナリさまの火事は、なにか不浄なものをかけると火が消えるという。

 

 お伊勢参りに出かけた三人の名前が、キン、ドン、サンなので、名前に引っ掛けたものがでてくるとおもったら、スルー。もっとも、カミナリさんのところへいくのが、三人というのも めったにありません。


まっくろ

2024年08月24日 | 絵本(日本)

    まっくろ/作・高崎拓馬/絵・黒井健/講談社/2021年

 

 まったく最後が想像できませんでした。これだけ びっくりする最後も珍しい。

 

 先生が「こころに うかんだことを かいてみましょう」と言うと、ひとりだけ画用紙を真っ黒に塗りつぶしている男の子がいました。先生がこまった 顔をして、「ちゃんとした えを かきなさい」と言いますが、男の子はやめません。
みんなが描き終わってもまだひとり、画用紙に 黒を塗りつぶしていく男の子。

 家に帰っても、朝になっても、休みになっても、男の子は、画用紙を真っ黒に塗りつづけ、大人はみんな心配顔。保健室でも 書き続ける男の子。ともだちもみんな心配顔。それでも 手を止めなかった男の子。

 やがて、男の子は 黒い画用紙を 体育館に ならべはじめます。

 よくよくみると、画用紙は すべてが黒だけではなく、白い部分も ありました。ならべはじめると 白いリンクなようなものが。

 先生も、ともだちも みんな 集まってくるなかで、男の子が、次々に ならべていくと できあがったのは?

 

 黒といっても、色合いはさまざま。

 「心に浮かぶもの」は、百人いれば百人それぞれ。その子を 戸惑いながらも じっと見守る周囲も、素敵です。


五つのちっちゃなカボチャちょうちん

2024年08月24日 | 昔話あれこれ

   三分間で語れるお話/地球をぐるっと77編/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳 出久根育・画/編書房/2005年

 

35秒ほどの指を使ったお話。

五つのちっちゃなカボチャちょうちん、木戸の上に座っていた。

一番目が言った。「暗くなってきた」

二番目が言った。「魔女たちがとんでいる」

三番目が言った。「かんけいない」

四番目が言った。「面白いことをしよう」

五番目が言った。「かけっこ、かけっこ、かけっこ」

ヒューと、風吹いた。

火がパッと消えた。

五つのちっちゃなカボチャちょうちん、ころげて消えちゃった。

 

文章ではなんとも味気ないのですが、指を使って、聞き手の反応をみながら、ゆっくり話したい。

火が消えたところで、ぱんと手を打つのがみそ。


森のカプセル探検帳-ドングリいっぱい大発見

2024年08月23日 | 絵本(自然)

   森のカプセル探検帳-ドングリいっぱい大発見/構成・文 飯田 猛 写真・宮園晋一/技術評論社/2024年

 

 ドングリは、日本では22種類。

 家のコナラは、ドングリから育てて十数年。成長が早く、どこまでも伸びる感じで、三年おきに剪定していても、すぐに緑がいっぱい。落ちたドングリがすぐに芽を出し、成長をはじめます。

 写真で構成され新しい発見も。クリもブナ科の木になるので、ドングリの仲間。

 ドングリの帽子の部分は殻斗、実は堅果、殻は果皮という名前。

 19種類のドングリがずらりと並んでいて、いろいろな形があるのがわかりますが、どれがどれかを判断するのは大変そうです。

 あまり見たことがありませんが、ハイイロチョッキリという虫は、ドングリの実に卵を産み、幼虫になったら殻に穴をあけて、外へ出るというから、穴の開いたドングリをみつけたら、虫がいたということ。

 ほかに、ドングリの育て方、ドングリクッキング、ドングリニュースと盛りだくさん。

 

 クマが街へ出没してニュースになっていますが、大事な食べ物のドングリが少なくなっている証拠ですから、森が今どうなっているのも心配です。


ジョナスのかさ

2024年08月22日 | 絵本(外国)

   ジョナスのかさ/作・ジョシュ・クルート 絵・アイリーン・ライアン・イーウェン  訳・千葉茂樹/光村教育図書/2020年

 

 傘の歴史は古いが、18世紀半ばのロンドンでは、雨が降ったら家から出ないか、馬車で出かけるか、ただ濡れるにまかせるのが 当たり前。
 雨にぬれることがきらいなジョナス・ハンウェイが、雨の降らない土地をさがしていてペルシャの宮殿でみた傘をみて、びっくり仰天。これにヒントをえたのか、ある雨の日、傘をさして街へ出かけた。

 傘をさすジョナスを、ご婦人たちは息をのみ、紳士たちは、顔をしかめ、子どもたちはくすくす笑い、「ねえ ママ。あれなあに?」という。どこへいくにも傘をもっているジョナスは「ほらほら おおばかものの ジョナス・ハンウェイだ」といわれ、馬車の御者からいやがらせをうけをうけても、いつも傘を使い続け 30年。
 そしてある日、おどろくような、きみょう きてれつ,前代未聞のことがおこります。

 

 じょじょに傘が普及しはじめるまで30年以上。信念を貫くといえば格好いいが、便利だから使い続けたのかも。

 当時の服装も見逃せません。

 ジョナス・ハンウェイ(1712-1786)は実在の人物で、海運業で財を成した人のようです。流行りものは 簡単に受け入れない頑固な人物だったようで、イギリスには欠かせない紅茶は、お金の無駄遣い、健康を害すると受け入れなかったり、「クライミング・ボーイ」と呼ばれる路上からさらってこられた身寄りのない子どもが、煙突掃除をさせられていることに怒りをもって、異を唱えたことも、巻末に紹介されています。さらに、傘にかかわる雑学が披露されています。


やさい ぺたぺた かくれんぼ

2024年08月21日 | 絵本(日本)

    やさい ぺたぺた かくれんぼ/松田奈那子/アリス館/2015年

 

 オクラからはじまって、セロリ、レンコンなどを切って、スタンプにし、さらに野菜の断面で花や自転車、車の車輪などを表現したユニークな絵本。
 イヌとネコの口が、野菜スタンプになっているのも楽しいが、人の顔もうまく表現されていて、こんなこともできると納得。

 なぞなぞ遊びで、野菜に興味をもってもらえそう。巻末に野菜スタンプの遊び方もあって、この時期の夏休みの自由研究にも応用できます。


ざっそうの名前

2024年08月20日 | 絵本(日本)

   ざっそうの名前/長尾玲子・作/福音館書店/2013年

 

 夏の日、おじいちゃんのうちに遊びに行った太郎くんが、おじいさんから草の名前を教えてもらいます。畑で、生垣で、玄関前で。

 どんなものにも名前があるので、ひとくちに、「ざっそう」といっていいのか、やや抵抗があるのですが・・・。

 六月を過ぎて、七、八月になると、サツマイモや落花生のまわりは、”ざっそう”でいっぱい。草取りをしようにも、この暑さでは 外に出る気力も失せます。家の北側にはドクダミがはびこって、とってもとっても、あっというまに占領されます。

 ヤブガラスが、クリスマスツリーのように描かれていますが、このヤブガラスもあっというまに、木などに絡みつくので やっかいな存在。

 はじめ普通?に見ていたのですが、刺繍絵ということ。草の精密な表現に、とにかくびっくり。絵本の表現方法には、まだまだ知らない世界があります。

 草花の名前がなかなかおぼえられないじぶんにとっては、身近なものがでてきて、とても参考になることばかり。いまはなんでも携帯で確認できますが、よく観察することで、特徴がつかめます。きっかけが図鑑ではなく、絵本というのもはいりやすい。

 この絵本は、夏のものですが、緑が極端に少なくなる冬にも、よくさがせば、いろいろありそう。

 道路と側溝のわずかな隙にある草もあれば、いつのまにか見なくなるものも。よく見られたヒルガオもこの頃見なくなりました。草にも生存競争があって、駆逐されてしまったようだ。


阿波タヌキ合戦・・徳島

2024年08月19日 | 昔話(中国・四国)

      徳島のむかし話/徳島県教育会編/日本標準/1978年

 

 徳島にはタヌキ合戦が似合いそう。

 小松島に、あまり繁盛していない和屋という染物屋があった。ある日、店のもんが、タヌキの穴をみつけ、けむりでいぶし出して、タヌキ汁にして食おうと騒いでいた。しかし、店主の茂右衛門は、優しい人で、苦しがっているタヌキをたすけ、毎日えさをやっていた。タヌキはご恩返しをしたいと、小僧さんに化け店で働くようになった。小僧さんの手にかかると、いまでみたことのないようなみごとな染物があがるようになり、店の客も増え、繁盛するようになった。このタヌキは金長ダヌキというタヌキ。

 金長ダヌキはうらないいまでやって、これがなんとまあ、よくあたったので、遠くからでもわざわざ訪ねてくるようになり、茂右衛門は、庭に正一位の旗をたててやったそうな。

 とろろが、タヌキの世界にもいろいろあって、総大将といってタヌキのなかでいちばんりっぱなタヌキのところで修業しないと、正一位は名乗れなかった。それで金長は、津田の総大将六右衛門ダヌキのところへ、修業にでかけた。
 六右衛門ダヌキは、精出して修業した金長に、「むすめ、鹿ノ子のむこになり、総大将のあとつぎになってくれ。」というが、金長は、「大和屋の主人は命の恩人、大和屋へ帰る。」と、断った。これまで、なんでも思い通りにしてきた総大将六右衛門は、若い金長ごときに断られたとあって、ひどく腹をたて、夜討ちはかった。金長は、命からがら小松島に逃げ帰った。
 ところで、鹿ノ子姫は、そのご三日三晩嘆き悲しみ、とうとう自殺してしまった。六右衛門は、鹿ノ子姫の髪を切り、それをうばに持たせて、金長のところまで届けさせた。このひどいしうちに怒った金長は、津田の六右衛門をせめた。阿波のタヌキどもは、若くて力のある金長と総大将六右衛門の二つに分かれて、津田のあたり一帯を戦場として、一大合戦をくりひろげた。これが阿波のタヌキ合戦ちゅうんだと。六百ものタヌキが、夜通し戦ったので、村の人たちは寝るに眠られず、布団を頭からかぶり、おののき震えていた。朝になると、タヌキの死体が、あっちこっちに、ちらばっていた。

 この合戦で、総大将六右衛門は死んでしまい、金長もそのときの傷がもとで、間もなく死んでしまった。あとに残ったタヌキたちが話し合って、なかよく暮らそうと約束したので、それからは、タヌキの世界も平和になったんだと。

 

 金長タヌキは、1994年スタジオジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」に、六代目として登場する。


泥棒と泥棒の名人・・インド

2024年08月18日 | 昔話あれこれ

   三分間で語れるお話/地球をぐるっと77編/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳 出久根育・画/編書房/2005年

 

 小話風の昔話。

 やせていて、うでっぷしは強くはないが、名人級の泥棒と、たくましいが、ただの泥棒のふたり。

 名人の泥棒は金持ちの家に忍び込み、一万ルピーを盗みました。ただの泥棒は、名人から盗もうと、名人が寝てしまうとポケットをさぐりますが、お金は一ルピーもみつかりませんでした。

 つぎの日も、名人はポケットを膨らませ、かえってきました。ただの泥棒は、名人の持ち物を隅々まで探りましたが、何も見つかりません。部屋の割れ目にも、屋根の裏にもお金は見つかりません。

 朝になると泥棒は、お金の隠し場所を知りたくて、思わず名人にたずねます。「泥棒の名人、あなたはお金を夜どこにかくしたのですか?」

 名人は、「泥棒には、手際のよさが必要なのだ。おまえさんがわしから盗もう押していたのは知っていた。それで、おまえさんが決して探そうとしないところに、金を隠したのさ」

 

 ここから、聞き手にどこにお金をかくしたのか考えさせるという話。

 少し長めのお話しのとちゅうに、こんな小話を はさんでいきたいもの。


ホジャのピクニック・・トルコ

2024年08月17日 | 昔話(中近東)

    天からふってきたお金/アリス・ケルジー・文 岡村和子・訳/岩波書店/1964年

 

 ホジャが大事にしているヒツジをみて、アメフットが、「ざんねんですなあ。あすは、この世の終わりだというのに、こんなヒツジを役にたてないでしまうとは!」「だから、いまのうちに、このヒツジを蒸し焼きにして、食べてしまえば、世の終わりがきても、むだにしないですむというものです。」

 ホジャは、しんじられませんでしたが、町中の連中も、「いまのうちに、やいてくってしまうのがいちばん」と、いかにもかなしそうなかおをしていうので、一大決心をします。あすの朝、「川岸で、ヒツジの肉をたらふくたべよう」。

 友人をたくさん招待し、いよいよ焚火で準備。友人たちは、肉を焼いているうちにひと泳ぎしようと、着物を脱ぎ捨て、川で泳いでいました。

 ホジャは、「いまにも、この世の終わりくるかもしれん。たった今かもしれんし、一時間後かもしれん。この世の終わり・・・この世の終わりだ」と、独り言。

 ホジャが、なげきかなしんでいるのを耳にすると、泳いでいる連中もすこしばかりはずかしくなりました。ほんとのことを話そうと意見が一致しました。そうすれば、みんなでわらって、たのしいピクニックができるというものです。ところがどうしたことでしょうか、おいしいそうなやき肉のかおりにまじって、あまりかんじのよくない、きみょうなにおいがただよいはじめました。はらぺこだったみんなは、おおあわてで岸にはいあがり、ホジャのところへかけつけ、じぶんたちの服を着ようとしました。すると、草の上に服なんて、一枚もありません。服は、全部、焚火の上にのせられて、ぶすぶす燃えていたのです。みんなは、口をあんぐりあけ。ホジャを見たり、くすぶっている着物やくつのほうを、うらめしげにながれるばかりです。

 ホジャは、にっこりわらって、「わしは、このあたりを、きれいさっぱりそうじしておこうとおもって、片づけたんだが、もうすぐ、この世の終わりがくるんなら、こんなものじゃまだってことに気がついたもんで、燃やしたわけさ。」。

 

 みんなは、ホジャをだましたつもりでしたが、ホジャは ちゃんと仕返しをしました。だが、ホジャの大事なヒツジがどうなったかは不明です。