どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

ありがたいこってす!

2012年10月30日 | 私家版

 「ありがたいこってす!」(マーゴット・ツェマック・作 渡辺茂男・訳 童話館出版 1994年初版)という絵本。楽しい話で、語ってみたいと思い、すこし整理してみました。あくまでボランティア用としてのものです。

 

 むかし ある小さな村に、貧しい不幸な男が、母親と おかみさんと 6人の子どもたちといっしょに、一部屋しかない小さな家に住んでいた。

 家のなかが あんまり 狭いので、男と おかみさんは 言い争いばかり していた。子どもたちは こどもたちで、がたがた うるさくて 喧嘩ばかり。

 冬になると、昼間は寒いし 夜は長いし、暮らしは ますます みじめになった。

 小さな家は、わめき声と 喧嘩騒ぎで われんばかりだ。 

 ある日、この貧しい不幸な男は、とうとう 我慢できなくなって、なにかいい知恵は ないものかと ラビ(ユダヤの法律博士、先生)のところに いった。

 「ラビさま」と 男は わめいた。「いろんなことが うまく いかなくなって、ひどくなるばかりでがす。わしらあ ひどく 貧しいもんで、おふくろと。かみさんと がきが6人と この おれが、みんないっしょに ちっぽけな小屋に すんでいるんでがす。その狭くて うるせえことときたら! ラビさま たすけてくだせえ。おっしゃるとおりに いたしますだ」

 ラビは ひげをしごいて かんがえて、しばらくたって こう いった.

 「おまえは 動物を飼っているかね。にわとりの1羽か 2羽でも?」

 「へえ」と 男はいった。「おんどりが一羽、それから ガチョウが一羽 おりますんで」

 「それは けっこう」と ラビは いった。「では 家に帰り、おんどりと ガチョウを なかにいれて、いっしょに 暮らしなされ」

 「おっしゃるとおりに いたしますだ」と 男はいったものの すこしばかり 驚いた。

 貧しい不幸な男は、いそいで 家に帰り、とり小屋から おんどりと ガチョウを連れてきて、自分の家の中に入れた。 

 小さな家の暮らしは、まえより ひどくなって、これまでの 喧嘩さわぎと わめき声に くわえて、ぐわぁぐわぁ、こけこっこう。スープのなかには とりの はね。

 一週間たつと、貧しい不幸な男は もう 一刻も がまんならんと、また ラビに 知恵をかりにいった。

 「ラビさま」と 男は わめいた。「ひでえことに なりましたでがす。喧嘩騒ぎに わめき声、ぐわぁぐわぁ、こけこっこう。スープの中にゃあ とりのはね。こんな ひでえことは ねえでがす。ラビさま たすけてくだせえ。おねがいだ」

 ラビは 男のいうことをきいて、かんがえて、しばらくたって いった.

 「もしや おまえは、やぎかっておらんかね?」

 「へい おりますとも。たしかに おいぼれやぎが 一匹。やくたたずでがすよ」

 「でかした」と ラビはいった。「では 家に帰り、おいぼれヤギを なかにいれて いっしょに暮らしなされ」

 「とんでもおない! ラビさま じょうだんは やめてくれ!」と 男はわめいた。

 「いやいや、おまえは 私のいうとおりに するがいい」と、ラビはいった。

 貧しい不幸な男は、あたまをたれて とぼとぼと 家にかえり、おいぼれヤギを なかにいれた。

 小さな家の暮らしは、もっともっと ひどくなって、喧嘩さわぎに ぐわぁぐわぁ、こけこっこう、ヤギが暴れて、つので おしたり つついたり。

 三日たつと、貧しい不幸な男は もう 一刻も がまんならんと、また ラビに 知恵をかりにいった。

 「ラビさま、たすけてくだせえ!」と 男は 悲鳴を上げた。

 「こんどは、ヤギが暴れまわって まるで 悪い夢を みているようでがす」

 ラビは 男のいうことをきいて、かんがえて、しばらくたって いった.

 「きくのもむだだとおもうがの。もしや おまえは、牛を飼っておらんかね?若い牛でも おいぼれ牛でもかまわんよ」

 「へえ たしかに 牛が 一頭 おりますでがす」と 哀れな男は おそるおそる いった。

 「では 家に帰り」と ラビはいった。「牛を なかに いれなされ」

 「とんでもおない、そんな むちゃな!」と 男はわめいた。

 「すぐ そうするのじゃ」と、ラビはいった。

 貧しい不幸な男は、鉛を飲んだような気持になって、よろよろと 家に帰り、牛をなかにいれた。ラビは 正気のさたとは思えねえな?と 男は思った。

 小さな家の暮らしは、まえより くらべものにならないほど ひどくなって、喧嘩さわぎは ひきもきらず、おんどりとガチョウは つつきあい、ヤギは暴れる、牛はなんでも ふんづける。

 一日たつと、あわれな男は こんな不幸が あっていいものか、とおもった。とうとう 堪忍袋の緒が切れて、ラビに 助けてくれと たのみにいった。

 「ラビさま」と 男はさけんだ。「たすけてくれ すくってくれ。この世の終わりだ! 牛は なんでも ふんづける。もう 息をする すきまもねえ。地獄に おちたようでがんす!」

 ラビは 男のいうことをきいて かんがえて、しばらくたって、こう いった。

 「家にお帰り あわれな男よ。そして、動物たちを、外に出しなされ」

 「だしますとも だしますとも たったいま」と 男はいった。

 貧しい不幸な男は、いそいで 家に帰り、牛と ヤギと ガチョウと おんどりを 家の外に 追い出した。

  その夜、あわれな男と 家族のものは、ひとり残らず ぐっすりと 休むことができた。こけこっこうもなければ、ぐわぁぐわぁもなし。すきまも タップリあって 息もらくらく つけた。

 次の日、男は ラビのところへ はしっていった。

  「ラビさま」と 男は 大きな声で いった。

 「おまえさまは おれのくらしを らくにしてくださった。家のなかには、家族のものが いるだけで、しずかで ゆったりで 平和なもんでさあ・・・・・・ありがたいこってす!」


「十二のつきのおくりもの」「森はいきている」

2012年10月25日 | 昔話(外国)

・十二のつきのおくりもの(おはなしのろうそく2/東京子ども図書館/1973年)

 スロバキアの昔話で、12月頃の定番の昔話。

 ままむすめが冬の日にスミレをつんでくるようにいわれ、森へ出かけます。十二のつきの精にあい、三月の精に助けられスミレを手に入れ、さらにイチゴは六月、リンゴは九月の精に助けられ、おのおのを手に入れるという物語。

 
 この物語では季節感覚が重要な要素で、季節が逆転するという面白さを味わってもらいたいもの。クリスマスのケーキにイチゴはかかせませんが、露地ものの旬は5月。りんごは秋ですが、いまは いつでもでまわっていますから季節感が乏しくなっています。

   12のつきのおくりもの/内田莉莎子・再話 丸木俊・画/福音館書店/2006年特製版1971年初出

 華やかな民族衣装、すみれをみて おどろく母親と娘、暗い冬の風景、12のつきの精がかこむ 赤い焚火など、丸木俊さんの素朴な感じの絵が、おはなしの世界を表現しています。

 おはなしのろうそく2とおなじ内田さんの再話です。絵本では、母親が”やもめ”と表現されていますが、「ろうそく」では”女”となっています。


 

 この話を素材にした児童劇「森はいきている」(森はいきている/サムイル・マルシャーク・作 湯浅 芳子・訳/岩波少年文庫/2000年新版)は、大みそかを中心として話が展開するので、冬に上演されるようである。
 1954年に俳優座ではじめて上演され、その後、劇団「仲間」でこれまで20000回以上上演されています。私も20代のころと、子どもが小さいころの2回見た記憶があります。ストーリーはほとんど忘れても音楽が印象に残っています。

 昔話をいろいろ読んでいるうちに「十二のつきのおくりもの」にであい、「森はいきている」を思い出しました。
 
 語りは一人の語り手と複数の聞き手との関係ですが、演劇は複数の作り手(俳優、舞台装置、小道具、照明、音楽など)と複数の観客。
 演劇の場合はいつでも、どこでもというわけにもいかず、上演するのは大変さが伴います。
 
 昔話が素材となっているとはいえ、作者のマルシャークが、さまざまな人物(とくに女王)や動物を登場させ大人でも楽しめるものになっていますが、多分湯浅芳子訳が絶妙であることも大きいようです。
     

 ところで、中国にも同様の話がありました。(十二か月/世界むかし話 中国/なたぎりすすむ・訳/ほるぷ社/1979年初版)

 冬の季節に花を探しに森に出かけたまま娘が、12の月の精にあって花を手に入れます。
 性悪のおっかさんの実の娘が、冬にキュウリや、リンゴがあると高く売れる!だろうとでかけていくが、雪のしたにほうむられてしまうというお話。
 商売に結びつけるというのが、いかにも中国らしい。

 この話では、でだしとおわりのことばも面白い。

 冒頭では、「一年は何か月か知っているか」と、聞き手に問いかけ、「毎年年越しの時には、この話をするのがここでの習わしでな」と話をはじめ、「この話がほんとうかどうかはわからないけれど、こういうよい年よりと、しっかりした娘がいることだけはたしかだよ」という終わりです。


昔話のおわり・・ノルウエーの昔話

2012年10月23日 | 昔話(北欧)

          ノルウエーの昔話/大塚勇三訳/福音館書店/2003年初版

 

 「三びきのやぎのがらがらどん」は、山にふとろうと登っていくやぎが、途中トロルを撃退し、山でふとるという話ですが、最後はふとるのをやめないでいるならまだそこにいるという結末。

 「青い山の三人のお姫さま」では、主人公とお姫さまの結婚式で、みんなが酔いつぶれていなかったら、まだまだ座り込んでお祝いし続けている。

 「隣の母さんの娘に結婚をもうしこみたかった若者」も、若者とお姫さまの結婚式で、この結婚式がまだまだ続いているかもしれず、急いでいけばうまく間に合って花婿と乾杯し、花嫁さんとダンスを踊れるかもしれない。

 「海の底の臼」では、臼が、今も塩を挽きだし続けている。


 「体に心臓がない大男」でも、結婚式のお祝いの宴会が長く続いたが、それが終えていないとするとまだまだ続いている。

 「草むらのお人形」では、もし死んでいなかったらいまでもまだ生きているよ。

 いずれも現在進行形で終っていますが、余韻が続き、話の世界にひたることができそうです。             


トロルのでてくる昔話

2012年10月22日 | 昔話(北欧)

 北欧の昔話のトロルは、こわい存在として登場しますが、どこか憎めない損な役割ばかり。頭がいくつもあったり、心臓がどこか別のところにあったり、おばあさんだったりと、これがトロルといえないところが面白い。話のなかでどのように恐ろしいのか具体的な描写はほとんどないまま、主人公の知恵で死ぬだけでなく、宝物を奪われたりします。



トロルとうでくらべをした少年(子どもに語る北欧の昔話/こぐま社/2005年)

 ・体が大きく気味の悪いすがた。おかみさんがいます(トロルは男か?)
 ・主人公のラッセにだまされ自分のおなかを切り開いて死んでしまいます。
 ・宝物ももっていかれます

リヌスとシグニ(子どもに語る北欧の昔話/こぐま社/2005年)

 ・大きなトロル女が2人
 ・命のたまごをわられ二人とも死んでしまいます
 ・金や宝物ももっていかれます

屋敷こびと(子どもに語る北欧の昔話/こぐま社/2005年)

 ・身勝手な召使い頭をこらしめるちいさなちいさなトロル

森でトロルに出あった男の子たち(ノルウエーの昔話/福音館書店/2003年)

 ・頭がアカマツの木のてっぺんに届くおおきさ
 ・三人で目玉をひとつもっているだけで、その目玉を額に開いている穴に順繰りにはめてあるく。
 ・おかみさんも三人でひとり
 ・金、銀を桶いっぱいにもっていかれてしまいます

体に心臓のない大男(ノルウエーの昔話/福音館書店/2003年)

 ・心臓が、体とは別のところにもっている大男
 ・心臓の卵をつぶされて死んでしまいます

ふたりの娘(ノルウエーの昔話/福音館書店/2003年)

 ・トロルのばあさんと娘(トロルには娘もいるのか!)
 ・このお話ではめずらしく死なない

青い山の三人のお姫さま(ノルウエーの昔話/福音館書店/2003年)

 ・頭が三つと六つ、九つあるトロル
 ・頭を切られて死んでしまいます


「屋根がチーズでできた家」・・スエーデン、「三びきのやぎのがらがらどん」・・ノルウエー

2012年10月20日 | 昔話(北欧)

 話が魅力的であるかどうかは脇役の存在がかかせません。

 「屋根がチーズでできた家」(スウェエーデン)(子どもに語る北欧の昔話/こぐま社/2005年初版)は、子どもを食べるトロル女が脇役であるが、このトロルの側からすると、主人公の兄さんに散々だまされたうえに、最後にはかまどに押し込められて焼け死に、さらに宝物ももっていかれる損な役どころ。

 「三びきのやぎのがらがらどん」(ノルウエーの昔話/絵本/マーシャ・ブラウン絵 瀬田貞二訳/福音館書店/1965年初版)では、めだまがさらのようで鼻はひかきぼうのようにつきでた気味の悪い大きなトロルが登場します。

 トロルは、やぎを食べようと思って、反対におおきいやぎのがらがらどんにばらばらにされてしまいます。ここではやぎを食べようとするのでやむをえない結末でしょうか?
 (”がらがらどん”は岩波少年文庫版では”ブルーセ”と訳されています。)

 二つの本では、どこか少しぬけたところのある感じがあって憎めないトロルがいて、はじめて話の魅力が伝わってくるようです。

 お話には、鬼や天狗、魔法使い、妖精といった脇役が登場しますが、トロルは北欧の話に限られています
 北欧の物語を読んでみると、さまざまなトロルが描かれているので、日本語に訳さないほうが雰囲気がつたわってくる言葉です。    
       

 親から子、孫と親しまれている「三びきのやぎのがらがらどん」の作者、マーシャ・ブラウンが2015年4月28日(96歳)に亡くなりました。
 ずーっと愛される本を残していくことは、作者冥利につきるのかもしれません。


昔話のおしまいのことば

2012年10月16日 | 昔話あれこれ

 昔話では「どんとはれ」など、おしまいの言葉が各地方それぞれで特色があり、少し抜き出しただけでも相当数になり、同じようでもあって地方語のニュアンスを加味するとこの数はさらに増えます。
 同じ地域であっても語り手の方によるちがいもあります。
 
             <語りつぎたい日本の昔話3/桃太郎/小峰書店/2011年>
 上記からおしまいのことばをぬきだしてみました。

・どんべんからこ、ねけど、・いちごぶらーんとさがった
・えんつこもんつこ、さけた、・とっぴんぱらりん
・とっぴんぱらりの、ぷ、・とんぴんからりん、ねけど
・いちごさけもうした、・まっこうひとむかし
・どっとはらい(どっとはりゃ)、・とんびすかんこなえけど
・どんべ、すかんこ、なえけど、・そひこのげえな
・こんで、どんどはれえ、・どっちばれ、・どんぴんからりん、すっからりん
         
            <日本の昔話5/ねずみのもちつき/福音館書店/1995年>
・とっぴんぱらりの、さんしょの実、・いきがさけもうした
・どんどはれ、・どんぴん、からりんこ、なえけど
・うりや、うんぶんだりょん、・まんまんえんちこ、さげえすた(ちしゃまった)
・そうろぺったりかいのくそ、かいてくうたら、うまかった
・よんちこ、さげすた、・そればっかり
・いきがぽーんとさけた、・どーびん
・そうりに、・むかしこっぽり、とびのくそ、べっちゃり
・いちごぶらーんとさがった、・とっちばれ、・とーびんと

            <日本昔話百選/稲田浩二・稲田和子・編著/三省堂/1971年>
 上記と重複するものをのぞいて・・。
・もすこしぱちりん 米ん団子三つ(大分)
・こんで いんつこもんつこ さげだ(宮城)
・いちが栄えもうした(福島)
・どんびんさんすけ 猿まなぐ、さあるのけっつさ、ごんぼうやいて、ぶっつけろ(山形)
・こんで、いちごさかえした(宮城)
・これっきりこれっきり、どんどはらえ(岩手)
・これきって、とっぴんぱらりのふう(秋田)
・これで昔のたねくさり(京都)
・そんだけ  そんな話、そんだけ(京都)
・それで昔こっぽりごんぼの葉だ(鳥取)
・こおっぽり(鳥取)
・むかしこっぽり、とびのくそ、びんろろう(岡山)
・昔こっぽり、じゃじゃの目(鳥取)
・もうすべったり、鍋の蓋(山口)
・そひこのげえな(鹿児島)

 藤田浩子さんの「かたれやまんば」のなかで、「三枚のお札」の結びは”おしまい”。しかし、人を食ったようなおわりかたが、角川書店版(日本の民話7 妖怪と人間/瀬川拓男・松谷みよ子・編/1982年)。
 三枚のお札は、和尚さんが、やまんばを豆に化けさせ、お餅にはさんで食べてしまいますが、結びのことばは”ごちそうさま”。思わず笑ってしまいました。

 瀬田貞二再話の「彦一ばなし」は「もうしもうしこめのだんご」(さて さて、きょうの おはなしは・・・/福音館書店/2017年)。

 語り手であれ、再話の方であれ、あの手この手です。

      <朝日町の昔話集3/朝日町人材養成事業「あさひまち」F21」・編/2000年>

 朝日町を検索してみたら、リンゴとワインの里がキャッチフレーズの朝日町のHPがありました。

 平成9年、10年に昔話の採話が行われているのですが、昔話の原型を知ることができる本です。

 今、ふれることができるのは、なにかしら手がはいっているもの。余分といってはおこられそうですが、原点を考える上では貴重な本でしょうか。図書館でしかみられないものですが、もっと気軽にみられたらとも思います。

 昔話の結びもユニークなものがありました。

 どんびんさんすけさるまなぐ さるこの金玉、笹葉さつつんで、ほれみやげ(笠地蔵)

 どんびんさんすけほらの貝、ぼほーんぼほん(屁ったれ嫁)

 どんびんさんすけさるまなぐ さるのまなぐさけがはえて、けんけんけぬぎでぬいだれば、めんめんめっこになりました。さるのちんちんひんもえで、ささぱさくるんでおみやげだ(西と東の力くらべ)

 話によっては、この結びも微妙に変わっていて楽しい。


 一方外国のものでは、日本のように短いものはすくないようです。

・矢川澄子訳の「ねずの木 そのまわりにもグリムのお話いろいろ」の結びは少し長いが面白い。
 「お話はこれでおしまい、あすこにねずみが走ってますよ。どなたか、つかまえて、大きな毛皮ずきんでもおつくりなさいましよ。」(ヘンゼルとグレーテル)

・「いや、きょうはもうおしまいだ。さあ、寝なさい! 寝ないと、屋根裏部屋からおばけがくるぞ」とおわるのは、オーストリアの「小づちよ! 出番だ」(世界のむかし話3 オーストリア いちばん美しい花嫁 小峰書店)。

・アラビアンナイト(子どもに語るアラビアンナイト/西尾哲夫・訳 茨木啓子・訳/こぐま社/2011年)では、「これはまた、別のお話です」と、期待をもたせる終わりかたをします。

・イタリア(イタリアの昔話/剣持弘子・編訳/三弥井書店/1993年)
 みんな、指を入れてごらん わたしは爪をいれるから(勇敢なフランチェスキーノ)
 上を向いて、下をむいてごらん、私のはなしは、これでおしまい(トロットリーナと狼)
 葉っぱは狭く、道は広い、私が話をしたんだから、こんどはあんたちがしておくれ(ブゲッティーノと鬼)

 トスカーナ地方の話とあり、語り手の方のお名前と採話の日付があります。


オーストラリアの先住民アボリジナルの昔話「大きな大きなカエル」&絵本「おおきなカエル ティダリク」

2012年10月14日 | 昔話(オセアニア)

         オーストラリア先住民アポリジニの昔話/池田まき子/新読書社

 

 2004年のシドニーオリンピック開会式のとき、オーストラリアの先住民アポリジニのことをはじめて知りました。この話はアポリジニの昔話で大きなカエルが地上の水という水を飲みほしてしまい、それを返してほしい動物があの手この手を使うという話。

 登場するのはすべて動物。テレビや動物園でさまざまな動物に接する機会もあってか、日本にいない動物が話にでてきても違和感がありません。

 カンガルー、大とかげ、ダチョウ、エリマキトカゲ、笑いカワセミ、ウォンバット(コアラと近い親戚関係にあるが、その習性となるとかなり違っている。30Kg程度)などオーストラリアの動物が登場して楽しませてくれます。
                  
 大分あとから絵本が福音館書店から出ているのを知りました。題が似ているなと思って手に取ってみたら、アボリジニ・ガナイ族のお話、加藤チャコ再話 絵とありました。

 この絵本は、話のリズムと昔話のことばづかいが心地よく響いてきます。部分的にぬきだしてみると
  「みず どこじゃあ みずどこじゃあ、もっと みず どこじゃあ」
  「それいけ! ゴロゴロ とつげき! ゴロゴロ」
  「そりゃあ そりゃあ おこっていた」
  「はあっはっはっはっ ほおっほっほっほほおおお」
など繰り返しが効果的。
 さらに、方言をうまく使っているのもこの本の特長でしょうか。

 たとえば、動物たちから水をわけてくれと言われてティダリクは
 「やんだ」
 どうしたら水をわけてくれるか動物が相談する場面で、ウォンバットが
 「わらわせたら どうだべ、きっと みずが はらからふきだすんでねえかの」
 しめくくりには
 「そんなら いつも わらっていれば いいんだべな」

 など、木下順二風のリズムと「民話」の方言がうまくかみあって、楽しい絵本になっています。

 絵では、動物がとっておきの芸をひろうする場面が秀逸。多分語るだけでは、この楽しさをつたえることが難しいのでは・・・。

 語ることと絵本の違いを考えさせてくれます。
          
 アポリジニの人々は、砂漠地帯で水がすくなく、家はつくらず、岩穴などを利用していたようです。さらに編みかごの形は2万年前!から同じ作り方という。(2015.5.30テレビ・・どこのテレビ局か忘れました)

おおきなカエル ティダリク  

       おおきなカエル ティダリク/加藤チャコ再話 絵/福音館書店/2000年初版

 アポリジニの人々が市民権をみとめられたのは1967年で、今から50年前。それまでは立法の対象としない、国勢調査の対象にしないなどの憲法だったといいます。

 ところで「アボリジニ」という表現ですが、これには差別的な響きが強いうえ、言語集団が分かれていたオーストラリア先住民の多様性への配慮から、近年のオーストラリアでは呼称としてほとんど使われなくなったといいます。代わりに現在ではアボリジナル、アボリジナル・ピープル、アボリジナル・オーストラリアンまたはオーストラリア先住民という表現が一般化しつつあるということです。


長男が活躍する昔話

2012年10月11日 | 昔話(日本)

 昔話では兄弟や姉妹がでてくると末っ子が活躍するのが相場。

 日本では家族制度のもとで、長子相続があたりまえの時期が長く、次男、三男はやっかいものとして見られたことを考えると、昔話に長男が活躍するものがもっとあってもおかしくないが、読んでみてもあまりに少ない感じがする。
 
 こうした中で長男が活躍する話。

 一つは、偕成社からでている(秋田県の民話(県別ふるさとの民話)/日本児童文学者協会編/1987年5刷)の中にある「三人兄弟」。


 三人の兄弟を旅に出し一番立派になった者を跡取りするという父親。次男は大工、三男は商人になるが、長男は「ばんば」のところで木挽きして働く。「ばんば」でもらったこわれた笠をもらって家に帰るが、この笠の知恵で家を相続するというもの。
 
 もう一つは小峰書店の(語りつぎたい日本の昔話3(桃太郎)/つきぬとっくり、鍋、反物/小澤昔ばなし大学再話研究会/2011年)の「つきぬとっくり、鍋、反物」。

 三人兄弟を旅にだすところまでは、前者と同じ。前者とまったく同じように次男は大工、三男は商人となるが、長男は父親からもらったお金をみすぼらしいお社(神社?)4つに寄付し、家に帰るときにこの四つのお社から宝物をさずかり、家を相続するというもの。


日本の昔話の「殿さまのこども」「女の子」

2012年10月10日 | いろいろ

 外国の昔話も多く翻訳され、日本の昔話との違いも分かりやすくなっています。
 
 あまり多く読んだわけではないので、断定的にはいえませんが、外国には、王さま、王女、王子がでてきてハッピーエンドに終わるという話が目立つますが、日本の昔話では殿さまはでてきても、殿さまの子どもがほとんどでてきません。
 出てくるのは長者、庄屋といったところ。逆に外国では長者といった存在があまり出てこないのが不思議。

 昔話が成立する過程には社会的背景が反映していますが、「殿さま」は雲の上の存在で、話として成立しにくかったものでしょうか。

 外国の「王さま」も、さほど身近なものではないような感じもしますが??
 
 また、日本の昔話に登場する女性は、おばあさんやよめであって、若い女性は少ない感じです。
 
 外国のものでは「かしこいモリー/イギリスの昔話」「かえるの王様/ドイツの昔話」「がちょう番の娘/ドイツの昔話」「赤ずきん/ドイツの昔話」などの例をあげるまでもなく、若い女の子(小学生程度のイメージか?)が知恵を働かせ、難問を解決していくお話が多い。

 若い男の場合、お寺の小僧さんなどが登場しますが、このちがいは、日本の子どもや女性のおかれた状況を反映しているのかも。


おしまい

2012年10月08日 | 昔話(日本)

      おしまい/小峰書店/語りつぎたい日本の昔話6/小澤昔ばなし大学再話研究会


 おばあさんが川に洗たくにいって、ながれてきた箪笥をひろいあげ、そのなかにあった着物を数えるにあたって、「お」をつけて数えることにし、「おいちまい」「おにまい」「おさんまい」と数えていって、四枚目の「おしまい」で、話がおわるというもの。
 聞くと何ということはないのですが、最後のオチが生きています。

 やや強引なところがあります。
 
 おはなし講座に参加して一年目はほかの方のお話をもっぱら聞くだけであったものを、とにかくおぼえてみようと短いおはなしを覚えてみました。

 人の前で話すと、覚えたとおもっても、内容を忘れたり、途中を飛ばしてみたりとさんざんな状態。

 短い内容であっても、先入観があるせいか、なかなか覚えられず。講師から5年続けるようにいわれているが、どうなりますことやら・・・・。   


「りこうなシカ」「ジャッカルがはじめて人間を見たとき」・・インドネシア

2012年10月06日 | 昔話(東南アジア)

 アラビアンナイトの世界がイスラムであれば、やはりインドネシアが忘れられない。

 東南アジアにはタイやミャンマ-(英語表記のみでビルマ語での国名は以前のままビルマ)のような仏教国とならんで世界で一番多いイスラム教徒をかかえるインドネシアがある。
 イスラムといえば中近東を思い浮かべるが、インドネシアではアラブ地域のように宗教が政治的にはあまり表面化していないようにみえる。
 

りこうなシカ(インドネシア)(こどもに語るアジアの昔話/こぐま社/1997年初版)


 トラに食べられそうになったシカが、人間を食べるほうが腹いっぱいになるとうまく誘導し、トラは結局猟師にしとめられます。
 次にシカはワニに食べられそうになりますが、この危機もうまく脱します。
 頭のいいことを自慢したいシカは、次にカタツムリと競争しますが、カタツムリの作戦にひかかってカタツムリの勝ちを認めことになります。

 全体が3つのまとまりで構成され、トラと人間のやりとりでは、小さい子、老人、猟師と三人が登場します。自分が利口なことを自慢していたシカがカタツムリと競争し負けを認めるという部分は、登場する動物の違いはありますが、ほかの昔話にもあります。


ジャッカルがはじめて人間を見たとき(子どもに贈る昔ばなし8 つぶむかし/小澤俊夫監修/小澤昔ばなし研究所/2008年初版)


 小澤俊夫氏が主宰している東京・横浜昔ばなし大学再話コースの方が再話したものであるが、トラが猟師にし止められるところでおわっています。

 こぐま社版が1997年で、東京・横浜昔ばなし大学再話コースのものが2008年に発行されているので、多分グループで議論しながら再話したのでしょうが、その過程で当然こぐま社版も念頭にあったはずなので、どんな議論があったか興味のあるところです。

 ところで、「りこうなシカ」の方は、大分時間をかけて覚えたもので、これから機会をみて語ってみたいと思っていたのですが、「ジャッカルがはじめて人間を見たとき」をみて、少し軌道修正が必要かなと思ったところ。
 もう少し早く知っていたらと、汗がどっとでてきた感じ(笑)  


見えない布

2012年10月05日 | 昔話(日本)

     見えない布/小峰書店/語りつぎたい日本の昔話5/小澤昔ばなし大学再話研究会


 年貢で苦しむ村人のために、ひとりの若者が七色に光る美しい布を殿様に売りつけ、その金で村の年貢を払うという「はだかの王様」に近いお話。

人間の虚栄心を逆手にとる話であるが、われわれも、どこかで虚栄心に振り回されていないだろうか。

「はだかの王様」は、ふたりのペテン師が王様を、「見えない布」は若者が殿様を手玉にとるが、はだかの王様にでてくるペテン師は自分たちのためだが、一方は村人のためというひろがりを感じさせられる話。

 「むかし、殿さまのとりあげる年貢は、とってもきびしかったそうです」というところから始まるお話は、聞き手に子どもを考えると意味あいを伝えるのに苦労しそうなところ。

 だからといって、税金としてもぴんとこないのでは・・・。       


空飛ぶじゅうたん

2012年10月03日 | 昔話(中近東)

    空とぶじゅうたん/子どもに語るアラビアンナイト/こぐま社/2011年初版
    

 アラビアンナイト。題名だけは聞いたことがあるという話は多いが、これもその一つ。

 一番めずらしい宝をもちかえった者を王女の花婿にするという王さまの考えで、三人の王子が旅に出まする。
 一番上のフセイン(どこかで聞いた名前)はビスナガル(インド)にでかけ空飛ぶじゅうたんを、二番目のアリーはシーラーズ(イラン南西部)で自分が見たいものを思うものを見ることができる望遠鏡を、三番目のアフメッドはサマルカンド(ウズベキスタン シルクロードを代表するオアシス都市)で重い病気をなおすリンゴを手に入れる。

 三人の兄弟がでてくると上の二人が悪玉で、末が善玉という話が多いが、このお話では三人とも同じように描かれ、結末も王女と結婚するのは二番目で、一番目は神に仕える道を選び、末のアフメッドは別の道を選ぶことに。悪玉が一人もでてこない ほっとする話。

 三人がでかける町をウイキペデイアで調べると、今はそれほど注目されていないが、歴史の香りがする町ばかり。

 「空飛ぶじゅうたん」や「どこでも見える望遠鏡」など「ドラえもん」の世界。「ドラえもん」もこんなお話がベースにあったかも。


    空とぶじゅうたん/マーシャ・ブラウン再話・絵 松岡享子訳/アリス館/2008年初版

 マーシャ・ブラウンの再話ですが、末の王子のアフメッドがアーマッド、王さまのめいヌールンナハール(朝のひかり)がノア・アルニハ(夜明けのひかり)、王子フセインがビーシャンガーに旅するというあたりが異なっているほか、王子たちが旅した都の豪華さや、王女の魅力にもくわしい。

 微妙な表現のちがいも参考になります。


アラビアンナイト

2012年10月02日 | 昔話(中近東)

        こぐま社/子どもに語るアラビアンナイト/2011年
        岩波書店/岩波少年文庫/アラビアン・ナイト/2001年新版
        講談社/青い鳥文庫 新編アラビアンナイト/2002年

 

 昔話や童話を読みはじめてから何十年ぶりかでアラビアンナイトを読んでみました。たしか中学生のころ読んだ記憶がありますが、1875年(明治8年)には日本でも翻訳されているというアラビアンナイトの雄大で奇想天外な面白さにあらためて引き込まれました。

 遠くに旅するという話はほかにも多くあるが、あくまで抽象的な世界にとどまっているのにたいし、アラビアンナイトでは、イラン、イラクや中国、インド、エジプトなど具体的な地名がでてきて大人にとっては壮大なイメージがわいてくる。

 「アリババと40人の盗賊」で話の後半に登場するモリジアナは、奴隷、使用人、召使という異なった訳があるが、奴隷制度は日本ではなじみがなく、こうしたことから召使などと訳されているという理解がなりたちそうである。

 原文に近いということでいえば、多分奴隷という表現になりそうであるが、大人が読む分には奴隷という表現のほうが、最後に息子の嫁になるいう結末に劇的な効果を生みそうだ。

 表題の訳が「アリババと、召し使いのモルジアナに殺された四十人の盗賊」、「アリ・ババと四十人の盗賊」、「アリ=ババと四十人の盗賊」といくつかにわかれている。

 アラビアンナイトには、「アラジンと魔法のランプ」「バグダットのゆうれい屋敷」など魔神、魔法使いといった登場人物がでてくる。

 日本では、妖精や精霊、魔女といったほかの国の話にでてくるものになじみが少ないが、昔にくらべで情報が多いなかで、世界のさまざまな国の昔話も受け入れが容易になっているのかもしれない。

 ついでに訳のことでいうと、絵本や語るというのを目的として出版されているものは、内容が大分簡略化されているので、一度は原文に近い訳を読んでおきたい。             


はだかの王様

2012年10月01日 | 創作(外国)

 はだかの王さまは、さまざま場面で比喩としてつかわれています。いうまでもなくアンデルセンの童話で、「皇帝の新しい服」というタイトル。

 スペインの古い伝承をアンデルセンが翻案したものであり、元の話で王様が裸であると指摘するのは黒人であったといいます。

 小さいころ読んでもらった記憶があり、何十年?ぶりかで読み直してみました。語ろうと思っているのですが、本によって微妙なちがいがあって聞き手にどんなイメージがあたえられるのか考えさせられました。
 
 手元にあるのは1970年発行の小学館のものですが、翻案されたものです。
 絵本も参考にしたいと思っていくつか見てみたのですが、すこしずつ違いがあるのがわかりました。

 絵本ではイメージがつたわりますが、語る場合、王様はどうとらえられるでしょうか。

 この王様は何歳ぐらいで、人々は幸せだったのでしょうか。おしゃれに夢中になれる王様ですから、治世にはあまり問題がなかったのでしょう。

 裸という先入観があったのですが、王さまが下着をつけている絵本があって、こんな描き方もあるのかと思いました。 


・小学館 アンデルセンの絵本 2004年7月初版 文・角野栄子 絵・こみね ゆら
     スマートな王様が下着で行列 王らしくおわりまで行列を続けます。

・偕成社 世界のどうわ アンデルセン童話 1987年11月初版 訳・木村由利子 絵・イブ・タルレ 
     王様はふとりぎみ 裸で行列 とにかくこの行列を続けます。

・小学館 世界の童話 アンデルセンの童話 1970年3月重版 文・後藤楢根 絵・鈴木寿雄
     王様はふとりぎみ 裸で行列 はずかしくなって行列をやめておしろにかえります。