おたんじょうびの2つのたまご/ジェニファー・K・マン・作 石井睦美・訳/光村教育図書/2018年初版
おたんじょうびの2つのたまご/ジェニファー・K・マン・作 石井睦美・訳/光村教育図書/2018年初版
ふしぎなはな/脚本・絵 藤田勝治/童心社/2009年(12画面)
ジャワの昔話よりとあります。あまり見たことのない描かれ方の人物と背景の絵。現地取材して描かれたのでしょうか。
がんこな王さまに、おぼうさんのキアイが意見すると、王さまは怒り、キアイを殺すように命じます。予期していたキアイは、お祈りをして王さまを待ちます。
おおぜいの兵隊がキアイを取り囲み、王さまが剣で切りかかると、海から大きな竜があらわれ暴れまわります。生きた心地もなかった王さまでしたが、風が収まると竜は消え、なにごともなっかたように、キアイの姿がありました。
「わたしは すべてが おもいどおりに なると おもっていたが、それは まちがっていたのだ。どうすればよいのでしょうか。」と、王さまがたずねると、キアイは、「むこうにみえる島。あそこに 真夜中に ほんの いっときしか さかない 花があります。その花をもちかえることができれば、王さまのこたえは みつかるでしょう」と、こたえます。
荒れ狂う波のなか幾日も幾日も船をこぎすすめ、やっと島に着くと、こんどはつぎつぎに魔物があらわれ、王さまを ののしります。それでも 花は見つからず、王さまはついに 動けなくなってしまいます。すると、かぐわしいかおりがただよいはじめ、ひかりのなかに 女神が現れます。
ここにでてくる花は 月下美人で、傲慢になっていた王さまは、「この花に誓って 民のための 王になろう」と改心し、立派な王さまになるという話。
この王さま、どれだけ横暴なのかが あまりでてこないでので、最後に反省するあたりがあまりにも さっぱりしすぎ。
インドネシアのジャワ島やバリ島でおこなわれるワヤン・クリとよばれる影絵芝居では、もうすこし長い芝居でしょうか。
火城/文・ツァイ カオ 絵・アオズ 訳・中由美子/童心社/2014年
五日間燃え続け、瓦礫の町になった中国の古都長沙。
最初から最後まで墨絵のように描かれたページが、何ページも続いています。
立ち並ぶ建物、大道芸をみつめる人々、賑わいのある商店。
一方この町には、難民や負傷兵が逃げ込んできました。飛行機の爆弾が落ちて、逃げ出そうとしたとき火の手があがりました。
なき声、さけび声、よびかう声、のろう声・・。
長い歴史を持つ古い町は焼け野原に・・・。
1938年の長沙火災では、人口50万の都市であった長沙は、火災により市街地のほとんどを焼失してしまいます。
鎮魂絵ともよべる風景が延々と続いています。火災なので赤が使われても不思議ではありませんが、黒で一貫しています。
日中戦争の中、日本軍に奪われる前に焼いてしまおうという中国側の焦土作戦による火災というのですが、ねらいについては他の説もあるようです。
戦争になれば、すべてが失われます。中国の作家というと、もっぱら日本の侵略を描くかと思うと、別の視点も提示してくれました。
日本・中国・韓国の絵本作家の協力で実現した平和絵本シリーズの一冊です。
おばけサーカス/佐野洋子/講談社/2011年
ある日、真っ赤な広場にサーカスがやってきました。
テントには、おばけサーカスとかいてあって、広場に集まった人の期待がひろがります。
夜になると、おばけの練習がはじまりました。
さいしょに、おばけの おばあさんが 二匹のねこにばけ、かろやかな ダンス
おじいさんおばけは くまの じてんしゃのり
おねえさんは ブランコ おにいさんは わかものにばけて バイオリンをひきます
おかあさんは シルクハットの中から ちいさなペロペロを なんびきもとりだすマジック
最後の仕上げは みんな 人間に ばけます。
ところが、夜が明けると 広場には なにも ありませんでした。広場に集まった人は、「あれは もしかしたら ほんとうの おばけだったのかなあ」と・・。
初版が1980年で2011年に復刊されたもの。
おばけのおとうさんが団長で、練習中に「ほどほどにな」「あんまり うまく きえないでくださいよ」「もうすこし ゆっくりやって くださいよ」「よろしい よろしい。おおいに よろしい」と、なんどもムチをピシリ ピシリ。
淡い絵で輪郭もぼんやりしています。
おばけらしくないおばけで、ほんとは 人間の前に 現れたくなかったのでしょう。サーカスの練習はなんのため? ちょっと不思議な絵本。
人間にばけると おとうさんが なさけないかおを するのですが、その理由が よくわかりませんでした。
おりょうりだいすき エプロンさん/脚本・いちかわけいこ 絵・ 市居みか/童心社/2015年(8画面)
歌といっしょに
にんじん たーまねぎ じゃーがいも お・に・く がでてきて
野菜をストトン ストトン ストトン どんどん きって
たまねぎ きると しくしく
全部煮込んで グツグツグツ
塩と胡椒も入れて
とってもいいにおい
カレーができたら ハフハフ ホッ ハフハフ ホッ
おなかが ポンポコリン
親しみやすい食材や鍋の描き方で、とってもおいしそうな カレーが 歌といっしょに できあがりです。
ままごとあそびが だいすきな 子に ぴったりかな?
これは どうしても 歌わなければ!
エプロンさんは なにもの?
・馬鹿が世をもつ(新版日本の民話57/埼玉の民話/根津 富夫編/未来社/1975年初版)
中国にも同様の話があるという「絵姿女房」。埼玉秩父版では「馬鹿が世をもつ」というタイトル。
恋しい女房のそばからちよっとの間も離れなくなった男。仕事もしないのにこまった女房が、自分の肖像画をもたせ、畑で仕事するようにする。
男は女房の絵を眺めながら、畑仕事していたが、そのうち風が吹いてきて、絵が飛んで行ってしまう。
この絵をひろった殿さま。絵の女があんまり美しくていい女だったので、家来につれてくるようにいいつける。
やがて女房を手に入れた殿さまだが、女房は、笑顔一つみせない。
ところがある日、しょうぼうの鳥おどりの踊り子になってでかけた男が踊りだすと、女房が笑い出す。
殿さまは、これまで笑ったことのない女房が笑うのをみて、自分がおどったらどのくらい喜ぶことかしらんと思って、男の着物をかりて踊りだすが、女房はちっとも笑わない。殿さまがますますはりきって踊っているところへ、殿さまよりもっとえらい殿さまがやってきて、殿さまを追い出してしまう。
男が殿さまのところに出かけていくところでは、地方によって、ほうろく売り、もも売り、栗売りをよそおってでかけていくなどさまざま。
最後のところでは殿様が家(城)に入れなくなるが、山形版では、登場する夫婦が、村にかえって、村人に能を教えて、それが黒川能の始まりなったというのがある。
他の地域の「絵姿女房」は、秩父版でいうと後半部。前半部もかなり長い。
秩父版の前半部では、主人公の「ぬけ」が、大旦那の自慢の娘と結婚するという夢をみる場面があり、原因不明の病気になった娘の病を治すというおまけまである。
この夢を見る場面、しゃね舟を折って、それを枕の下にしいて寝るといい夢がみられると昔からいわれていたのですが、このしゃね舟というのは、女の人のあれに似た舟というから想像にかたくない。
この秩父版では、話者の名前が記入されているが、前半部は別の話を合体させているようだ。ここにでてくるしょうぼうの鳥おどりっていうのは、どんな踊りか、気になる話。
・絵姿女房 新潟版(日本昔話記録4/新潟県南蒲原郡昔話集/柳田國男編 岩倉市郎採録/三省堂/2006年)
夢がもとでよめをもらうことになった一人のずべっこ(きかぬ気の小僧)。
正月の二日朝、大尽から「いい夢を見たら者があったら、買うてやろう」といわれて「金の盥で手水をつかう夢を見た」と、ずべっこが答えますが、どうしても売るのはイヤだとことわります。
ところがどうまちがったのか、大尽のよめごの部屋で眠ってしまったずべっこが、大尽の怒りをかって、よめごをつれていけといわれてしまいます。
このあとの展開は、ほかの話と同様でが、公方様によめごを連れていかれたずべっこが、花屋の格好でお屋敷にでかけていきます。
そして、公方様といれかわったずべっこが、正月二日の夢のように、金の盥で手水をあうことができるという結末です。
「ずべっこ」は、なじみがないので、どう表現したらいいか 気になります。
・かぶ焼き太郎(岩手のむかし話/岩手県小学校国語教育研究会編/日本標準/1976年)
タイトルではイメージできませんが、太郎はたきぎ取り。いつもカブを焼いて食っていたのでついたあだ名。いつもカブを焼くと山の神さまにもお供えしていました。そのご利益でしょうか、太郎のところへきれいな娘っ子がやって一緒になります。
よめっこがあまりきれいなので、仕事に行かなくなった太郎に、似顔絵をもたせます。
風でとばされた似顔絵をみた殿さまが、よめっこを連れて行ってしまいます。ところがよめっこは、殿さまの前では笑うことがなく、殿さまは困ってしまいます。
そこへ、たばこ売りのまねをした太郎があらわれます。太郎の姿をみたよめっこが、うんとよろこんで にこにこ笑ったのを見たとのさまも、たばこ売りの格好をします。
とのさまは城に入れず、太郎がお殿さまになる結末です。
太郎が仕事にいかない理由も笑えます。
「おまえをみていたいから、山さ行かねえ」「風っこが吹いて寒いから、山さ行かねえ」「きょうは、日が照って暑いから、山さ行かねえ」「今日は、雨に濡れるから、山さいかねえ」
これでは仕事にならないのは当然です。
黄色い星/文・カーメン・アグラー・ディーディ 絵・ヘンリー・ソレンセン 訳・那須田 淳/BL出版/2021年初版
第二次世界大戦で、ナチスに占領されたデンマークの宮殿にも鍵十字のナチスの旗がかかげられます。
デンマーク国王・クリスチャン10世国王は、兵士に命じて敵の旗をおろさせます。ナチスの将校がもういちど旗をおろすと、その兵士は銃で撃ち殺される運命にあることをつげます。すると国王は、「あなたはわたしを銃で撃ち殺すというのかね?明日旗を降ろす兵士は、このわたしだからな」と、こたえます。
その日から、ナチスの旗は、二度と宮殿にひるがえることはなかったという。
このあと、ナチスは、「すべてのユダヤ人は、黄色い星の印をどんなときでも見えるよう、自分の服にぬいつけなければならぬ!」という命令を下します。
ユダヤ人といっても同じデンマーク国民、ほかの国民とは、神さまへの信仰の方法が違うだけです。悩みぬいた国王は、星空をじっとみあげ、自分のとるべき行動をきめます。
「牛は群れのなかに、人は兄弟姉妹のなかに、星は星のなかに」
服の仕立て屋をよび、服が出来上がると、いつもように一人きりでコペンハーゲンの町に出かけました。
王さまの胸の印を見た人々も、すぐに自分たちがすべきことがわかり、おなじように黄色い星をつけたのです。
ユダヤ人以外が黄色い星をつけてはならないという命令でないことを逆手にとったものでした。
ナチスに占領された国々のなかで、デンマークにすんでいたユダヤ人たちの98%は生き延びることができたといいます。
国民から信頼され、ナチスに抵抗し人びとを守ったクリスチャン10世のさまざまな伝説にもとづいた絵本。危機のとき誇りを失わず断固として立ち向かえるのも、人々の支持があればこそ。ここには、本当に必要な国のリーダー像がありました。
岩手のむかし話/岩手県小学校国語教育研究会編/日本標準/1976年
山の中で暮らす五助とキク。
遊びにいったキクが、待っても待っても帰ってこないので、五助が探すにいくと、とちゅうにキクの下駄。
五助が山男のせいにちがいないと、山男のところにいくと、キクはそこで洗濯をしていました。
山男には勝てそうにないとみた五助に、山男は「あざみ姫の首をもってこないと、キクは返せない」という。あざみ姫の首というのは見たこともないし聞いたこともない五助は、家にもどってもなかなか眠れない。
そこへ、ぼろぼろの着物を着たおじいさんから、ひとばんとめてくれるよう頼まれ、おじいさんをとめた五助。五助が あざみ姫のことを話すと、おじいさんは、あざみ姫のことを知っていました。
おじいさんから教えられたように東の方にいくと、ウメの木で、うっとりすような声でさえずっていた小鳥をみつけます。そこにいたおばあさんから岩切丸という刀を借り、さらに東へ。
大きな沼からでてきたのは、神さま。鏡をもっていました。五助は、たのんでたのんで、ようやく鏡を借りることができました。
あざみ姫のいる御殿に近くなると、大きな岩が道をふさいでいます。岩切丸がほんとに岩を切れるか試してみると、ざくっと切れて大きな穴ができ、そこをくぐってさらにさきへ。
ずんずんいくと、大きな石がごろごろころがっていました。この石はあざみ姫ににらまれて、人が石になったものでした。
あざみ姫に睨まれ石になることを警戒した五郎は、歩くところを鏡にうつしながら うしろ向きに歩いていきます。すると御殿の二階に、足まで届く長い髪をしたきれいなおひめさまがいました。
これがあざみ姫かと近づいていくと、一本一本の髪がヘビになって、うねうねと五助の方に立ちあがってきました。
キクのことを考えると、こうしてはいられないとはらをきめた五助は、岩切丸をあざみ姫の首にたたきつけます。首がねっこから落ちると、真っ赤な血が、湯気のようにもやもやと出て、霧がかかったようになり、その霧が馬っこみたいになってぴょんととびあがります。
すると山一面に、きれいな花が咲き、御殿も人石も消えて、五助は馬っこといっしょに、山のなかにいました。
五助があざみ姫の首をもってかえると、山男は約束通り、キクをかえします。それから五助とキクは、しあわせに暮らします。
あざみ姫の髪の毛が一本一本ヘビになりますが、それ以外は正体不明のまま。そして、山男がなぜあざみ姫の首を欲しかったのも明らかにされていません。けれどもこまかいところにこだわらないのが昔話の世界です。
キクは五助の妹でしょうか。
うみへいった ちいさなカニカニ/作・クリス・ホートン 訳・木坂涼/BL出版/2019年
海のそばの、岩の窪みに暮らしてた、大きなカニカニと小さなカニカニが、はじめて 海へいく日。
チョコチョコチョコチョッ チャポチャポチャポ ぬるぬる ねばねば
「うみだ!」
ところが そのときおおきな なみが
ばっしゃーん!
つぎに
どばしゃーん!
そして
どっぱーん!
それでも にひきは ふかくふかく うみのそこへ。そこであったのは・・・?
軽妙な訳がなんとも 気持ちいい。
はじめの波に驚いて ちいさなカニカニが「ぼくたち、うみを いっぱい みたからね、もう いいかも」
すると「なんだよ しんぱいするなって。もうすこし うみに ちかづいてみようよ。きっと たのしいよ」と、大きなカニカニ。
ちいさなカニカニが「もしかしたら、ぼくは うみが にがてかもしれない。だから もう かえったほうが いいかもね」
「しんぱいするなって。ぼくが そばに いるんだからさ。あと ほんの すこし、こっちへおいでよ」と、大きなカニカニ。
ちいさなカニとおおきなカニは、親子?兄弟?
カニですみそうなところを、カニカニ。
擬音語も楽しい。
こわさをのりこえて海デビューの二匹。次は尻込みしないようですよ。
「ふるやのもり」は、日本の各地に同じような話があり、地域によってすこしずつ内容が異なっていますが、雨漏りを恐ろしい化け物と思ったオオカミと泥棒の話。
これと類似する外国の昔話。
・ふるやのもり(鳥取県の昔話)
一番こわいものは、ふるやのもりというおじいさんの話を、ウマを食べようとウマ小屋にひそんでいたオオカミとウマ小屋のウマを盗もうと屋根裏にかくれていたどろぼうが聞いていて、どんな化け物だとビクビクしているところに、雨漏りが泥棒の首にポタリとおちます。
それにびっくりした泥棒は足をふみはずして、オオカミの上に落ちてしまいます。オオカミはウマ小屋から飛び出し、どろぼうは必死にオオカミにしがみつき、オオカミは振り落とそうと走り続けます。
夜明けごろ、うまいぐあいに突き出ている木の枝を見つけたどろぼうは、その枝に飛びついて、そのまま高い枝にかくれてしまいます。 オオカミは背中にくっついていた物がとれて、ホッとひといきし、ふるやのもりを友だちの強いトラに退治してもらおうと、トラのところへ出かけていきおます。
話を聞いてトラも恐ろしくなりますが、いつもいばっている手前オオカミの前でそんな事は言えず、退治してやるとトラとオオカミは一緒に、ふるやのもりを探しに出かけます。
そして、高い木のてっペんに、なにやらしがみついてるのを発見したオオカミがそれを見て、ガタガタとふるえだします。
トラは、こわいのをガマンして、ほえながら木をゆさぶりると、泥棒が二匹の上に落ちてきます。どろぼうは地面に腰を打ちつけて大けがをし、オオカミは遠い山奥に逃げ、トラは海を渡って遠い国まで逃げて行って二度と帰ってこなかったというお話。
「ふるやのもり」を聞く機会も多いが、いつも思うのは子どもたちの受け止め方。
今の子どもは雨漏りと無縁の生活をしているだでしょうから、雨漏りの鬱陶しさがうまく伝わらないのではないかということ。 このお話は雨漏りの情景が浮かばないと面白さが伝わらないと思う。
・もうどの(鳥取のむかし話/鳥取県小学校国語教育研究会編/日本標準/1977年)
おなじ鳥取県の昔話ですが、”もうどの”というのは雨漏りのこと。タイトルからは想像できません。
・もるどの話(富山のむかし話/富山児童文学研究会編/日本標準/1978年)
”もるど”というのは雨漏りのこと。
ひとりぐらしのおばあさんのところに、トラとオオカミがやってきて、おばあさんが便所で話しているのを聞いて、そのまま逃げ帰ってしまいます。
・トラと干し柿(韓国)(アジアのわらいばなし/松岡享子・監訳 田中美保子・訳/東京書籍/1987年初版)
干し柿を化け物と思ったトラと泥棒の話。
おなかをすかしたトラが山をおりて、ある家にやってくると赤ん坊が泣きだします。
赤ん坊を泣きやませようと、クマやトラにつれていかれるよと家の女の人が声をかけるのを聞いていたトラ。トラという名前を聞いても赤ん坊は泣きやみません。しかし、女の人が干し柿をあたえると赤ん坊はすぐに泣きやみます。
これまで自分をこわがらない生き物にあったことがないトラは、ホシガキは何者だろうとすっかり怖くなってしまいます。
ちょうどそのとき、牛泥棒が屋根からトラを牛とまちがってトラの背中に落ちてきます。泥棒もトラと気がついて死ぬほどおどろく。トラは泥棒を振り落とそうと走り出し、泥棒も振り落とされまいとトラの背にしがみつく。夜明け頃、泥棒はちょうど手の届くところに木の枝がたれさがっているのに気がついてその枝に飛びつく。背中がかるくなったトラのほうも、ほっとして、安全な山のすみかへと走り帰ります。
「トラと干し柿」では、干し柿を赤ん坊に与えると泣き止みますが、赤ん坊が食べるというので離乳食のようにあたえたのでしょうか?。
・とらよりこわいほしがき(小沢清子・文 太田大八・絵/太平出版社/2003年)
韓国・朝鮮の民話第一集とあって、上記の「トラと干し柿」とほぼ同様です。
・馬のたまご(バングラデッシュの民話/アブル・ハシム・カーン・え ビプラダス・バルア・再話 たじま しんじ・訳/ほるぷ出版/1985年初版)
「馬のたまご」ってなんなのと思いながらみたら、「ふるやのもり」に似た話。
むすこから馬がほしいといわれた父親(ハンダという名前)は貧乏暮らしで、馬を買えるお金がないため、たまごだったらずっと安いだろうとおもって、馬のたまごをさがしにいきます。人々から笑われながらも探し続け、ずるがしこい男から買ったたまごは、白い色をぬったうり。
家に帰る途中、田んぼの中の小魚をつかまえようと、馬のたまごなるものを、道端において田んぼにはいっていきます。するとキツネが走ってきて、たまごをつぶしてしまいます。逃げていくキツネをみたハンダは、キツネがたまごから生まれたものと思ってそのあとを追っていくが、見失ってしまう。
ハンダは大きな家の納屋で一晩とまらせてもらう。真夜中その家のむすこがおしっこにいきたいから父親についてきてくれと頼むが、ねむりかけだった父親は面倒になって、「そとにはトラの何十倍もこわいおそろしいきりさめがいる」といいます。
トラはハンダを食べようと思ってあとをつけてきていたが、この話をきいて怖くなり逃げだします。このトラを馬の赤ん坊に違いないと思ったハンダは、トラとはおもわず、飛び乗ります。トラは一晩中走り続けますが、あたりがあかるくなって、ハンダがしがみついるのはトラと知ってびっくりし、バニヤンという木の下を通り過ぎる時に、枝にとびつきます。
サルにあったトラはゆうべのできごとをはなし、きりさめが一晩中とりついていたがどうやら助かったらしいと話す。サルはきりさめがみたくなり、バニヤンの木にのぼるが、ハンダからしっぽをギリギリとねじられ、「きりさめなんかじゃない、ギリギリマキだ」といってそこから逃げ出します。
今度は熊がでかけていきますが、ハンダがつくった穴に落ちてしまい、すっかりこわくなった熊も逃げ出します。
次にジャッカルがでかけていきますが、そこにいたのが人間だと知って、ハンダを食べようとします。しかしハンダは頭をつかってジャックルを追い払い無事に家に帰りつきます。
冒頭部でだまされて馬のたまごを買ったハンダが、今度は動物をうまくだます?(本人はだますつもりはありません)という二重構造になっていて、すれ違いが楽しめます。
ところで、バングラデシュは日本でどの程度知られているのでしょうか。世界で7番目に人口が多い国であり、2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層が国民の75%を超える約1億1800万人と推定されているとある。日本の装丁のしっかりした絵本とおなじといえないまでも、バングラデシュの子どもたちが絵本に親しむことができるか気になるところです。
「馬のたまご」は絵本ですが、木や花の描き方に特徴があります。特にバニヤンの木にびっくりです。
画家のアブル・ハシム・カーンは、陶芸を学び、これまでにデザインした本が多数あり、バングラデッシュ政府の憲法読本、教科書のデザインをされています。
・トーントイとトーンモーン(大人と子どものための世界のむかし話14 ビルマのむかし話/大野徹・編訳/偕成社/1991年初版)
子どもが夜泣きして、母親が「そんなに泣いたら、トラがきますよ」「なきやまないとクマがきますよ」といってなだめますが、いっこうに泣き止みません。
母親が「いうことをきかないならトーントイとトーンモーンをよびますよ。ほらもうあそこにきているわ」というと、子どもはぴたりと泣き止みます。
トーントイとトーンモーンは二人組の泥棒で、腕は名人級です。
牛小屋にいたトラが、その話を聞いて様子をうかがっていると、牛を盗みにやってきたのはトーントイとトーンモーン。暗闇の中でトラを牛と思い込んで縄をかけ、外に連れ出します。
月の明かりで、自分たちがつれてきたのは牛ではなくトラだったのにきづいたトーンモーンは逃げ出し、トーントイは、縄をミミイチジクの木の結びつけて、木の上によじのぼります。そこにはクマが。
・恐ろしいデポー(ビルマのむかしばなし/中村祐子他・訳/新読書社/1999年初版)
怖いものが「雨漏り」ではなく、デポー(にわか雨)です。 泥棒とトラが羊を盗もうとして、羊の番人が、デポーが怖いといっているのを聞いて、デポーがすごい怪物と思いこむ話。ほかにも猿や野兎が登場します。
「ふるやのもる」に類似する昔話は、アジアには多いのですが、ヨーロッパのものは読んだことがありません。この違いなども面白いところです。
すてきなテーブル/ピーター・レイノルズ 島津やよい・訳/新評論/2021年
おとうさんは おきにいりのソファーに腰掛け、大画面のテレビに夢中
おかあさんは スマホでチャット中
おにいちゃんは 自分の部屋にこもって タブレットでオンラインゲーム中
ヴァイオレットは たくさんおしゃべりして 笑いあったり お祝いをしたり うれしいことも いやなことも わかちあった テーブルにすわり ひとりで食事
ところが 思い出が詰まったテーぶるが だんだん ちぢんでいって しまいには てのひらに すっぽり おさまるほどになり まばたき したとたん 消えてしまいます。
バラバラになった家族の絆を取り戻すため、ヴァイオレットは とっておきの作戦に挑戦します。あたらしいテーブルを つくることです。
おとうさんといしょにDIYの番組を見て
おかあさんには、SNSで ともだちにテーブルの作り方を きいてもらい
おにいちゃんには タブレットで 設計図の 書き方を調べてもらい
みんなで いっしょに テーブルを つくることを 提案したのです。
みんなが一緒になって テーブルをつくっている会話が聞こえてきそうです。
今日的なテーマで、これまでなかったのが不思議なくらい。
バイオレットちゃんの家族、また語り合う場所ができたのですが、一歩間違えるとすれ違いが拡大していく危うさもはらんでいる 今の社会状況です。
歩きながら、そして電車にのるとほぼ全員スマホで沈黙というのも珍しくありません。少し距離を置く時間も必要です。
そもそもオリンピック/アーサー・ビナード・作 スズキコージ・絵/玉川大学出版部/2020年
予定では2020年だったオリンピック開催年の2月発行。コロナ過で一年遅れで無観客開催となったオリンピック、パラリンピックでした。
「風の ワタシは おぼえている。そもそも なん十万ねんも まえ イキモノが はしりだした。「ヒト」という イキモノ ほら、なかなか いいはしりだろう?」
風が語り手になって、前半は古代オリンピックを駆け足で。そして「ヒトのやることは そもそも いつか おわる」と 皮肉たっぷり。
後半は広島生まれのオダミキオの生い立ちをふりかえります。
感想では織田幹雄のことを知らない人もいて逆にびっくりでした。三段跳びでは1928年の織田幹雄、1932年ロスアンゼルス大会の南部忠平、1936年ベルリン大会で田島直人が金と、日本のお家芸とよばれた時期があったというのは、いまでは想像もつかない。
オダミキオは、1924年のパリ大会には船の上、川っぷち(セーヌ川?)では自転車で練習し、1928年のアムステルダム大会へはシベリア鉄道で停車の合間に練習し、何日もかけて現地入り。この年、三段跳びで金メダル。鉄道の汽車の中で、知らないヒトたちとしゃべって しゃべって しゃべって 気がつくと知り合いになっていたというおおらかさ。
三段跳びで一番大切なのは風で、風とともに跳べるかどうかで記録がきまるという。
「ワタシと ピョォォォン! がんばった じぶんが スルッと おちて・・ピョドォォォン! かちたい きもちが スルッと おちて・・ ドピョォォォンで ニッポンも おちて ドッズン!」
風といっしょに跳ぶというのはどんな感じでしょうか。追い風、向かい風で記録が変わる競技。風が走りまわるようすは、スズキコージさんならではです。
ただこの時期、1928には張作霖爆殺事件、1929年には世界恐慌、満州事変もはじまり、1930年は昭和恐慌と、日本の政治・経済は危険な時期。
おばあさんとマンガス/脚本 イチンノロブ・ガンバトール 絵・バーサンスレン・ボロルマー 訳・津田紀子/童心社/2020年/12画面
マンガスといえばモンゴルのキャラクター。マンガスが登場する絵本などはみたことがなかったので、はじめて。それもモンゴルの方がえがかれていますから、イメージがわきました。
ストーリーはいたってシンプルで、「さるかに合戦」風です。
昔、おばあさんが広い草原で大事に子牛の面倒を見ていましたが、ある日、子牛はマンガスにたべられてしまいます。マンガスは、おばあさんに「子牛なら、さっき くっちまったわい。おまえも食べたいが、いまは はらが いっぱいだ。夜ごはんに くってやろう」といいました。
おばあさんが ぶるぶる 震えながら、家に向かって走っていると、であったのは、針と、ハサミ、石。
針は、「牛乳を入れて しっかりこねた おいしい おかし」、ハサミは「あまい はちみついりの おいしい おかし」、石は「あぶらであげた おいしい おかし」をつくってくれるようおばあさんに頼みました。
おばあさんが作ってくれたお菓子を おなかいっぱい 食べた針、ハサミ、石は、やがてやってきたマンガスと対決します。
なにしろ針、ハサミ、石は 人間ほどの大きさですから、あっというまにマンガスを撃退してしまいます。
以前、インドネシアの影絵芝居という絵本にふれたことがありますが、日本の紙芝居とは形式が異なるようで、紙芝居はどうも日本独自のもののようです。
同じ昔話でも、地域や伝承者によって細かい点で異なっており、これに再話を含めると、さらに多い。
「三枚のお札」も
・小僧さんがでかける目的が、栗拾いだったり、山菜取り、花を摘むなどさまざま。
・札も、和尚がくれたり、便所の神様がくれる二通りある。
・そして、最後の場面もさまざま。
豆にばけた鬼婆を、和尚が食べてしまう。
和尚は小さくなった鬼婆を壺に閉じ込め、お経で封印してしまう。
鬼婆を小さな虫に化けさせ潰してしまう。
和尚の機転で小僧が鶏のマネをすると、鬼婆は夜明けを恐れて山に逃げ帰っていく、など。
こうしてみると伝承者の方が楽しんで工夫したかのようにも思える。
・三枚のお札(日本の昔話5 ねずみのもちつき/おざわとしお・再話 赤羽末吉・画/福音館書店/1995年初版)
小僧さんが、冬木を山にとりにいくというもの。冬木というのは耳慣れないが仏様におそなえするものという。
小僧さんが逃げ出すとき、針の山、火の山、川がでてくる。
最後は、鬼ばさが、井戸の中に飛び込んで閉じ込められてしまいます。
ここででてくる鬼ばさの髪にむかでやとかげがいて、小僧さんが真っ赤な火ばしで追うと、鬼ばさはうまそうに食べてしまう怖い場面があります。
・三枚のおふだと鬼ばんば(山形のむかし話/山形とんと昔の会・山形県国語教育研究会編/日本標準/1978年)
鬼ばんばと小僧さんのとのやり取り。
「うんこ出たくなった」(小僧)「囲炉裏にしろ」(鬼ばんば)「火の神からしかられる」(小僧)
「うんこ出たくなった」(小僧)「囲炉裏にしろ」(鬼ばんば)「火の神からしかられる」(小僧)「んだら、庭さたれっ」(鬼ばんば)「土の神からしかられる」(小僧)
火の神、土の神からでてくるというのは、あまりみられません。
小僧さんは、和尚さまのところで地蔵に化けます。そして鬼ばんばは、囲炉裏にあぶさっていたクリがはねて顔にあたり驚いて逃げ帰っていく結末。
鬼ばんばが逃げていくときの捨てセリフに真実味があります。「おら、たいていのことなら先さきのことがわかるけんど、このクリだけは、わかんねえかった。ああ、人間にはかなわねえ」
・三省堂版(日本昔話百選/稲田浩二・稲田和子/2003年改訂新版)では、和尚さまがとめるのもきかず、小僧が栗ひろいにでかけます。
小僧がでかけるときに和尚が「困ったときに仕え」と三枚の札をくれる。
栗ひろいにいった小僧は鬼ばばあにだまされ、あぶなく食べられそうになり、便所に身をひそめて、すきを見て逃げ出そうとしますが、腰になわをまかれているので逃げられません。
ここで和尚からもらった札をつかって便所から逃げ出すが、すぐに追いつかれ、もう一枚の札をつかって砂山を出現させるが、またすぐに追いつかれ、もう一枚の札で川を出現させて、ようやく寺までたどり着きます。
追いかけてきた鬼ばばあは、和尚と化けくらべをすることになり、小さくなったときに和尚から食べられてしまいます。
・こぞうと鬼ばば(宮城のむかし話/「宮城のむかし話」刊行委員会編/日本標準/1978年)
出だしは豆腐を買いに行き、鬼ばばにつれられて山へ行きます。
類似の話に出てこない「入道坊主」がでてきます。逃げ出すところで入道坊主と ばんばの掛け合い。
「通しぇろ、この坊主」「通しぇね、このばんば」
「通しぇろ、この坊主」「通しぇね、このばんば」
ばんばが、入道坊主を振り切って、小僧を追いかけますが、どのようにして勝ったのがでてこないので、想像するしかありません。
和尚さんが、鬼ばばを、豆、さらにご丁寧に、納豆にばけさせ、焼いていた餅につけて食べてしまいます。
「スッタンタン、スッタンタン、おぎーてスーボリつら)見ろ」
「スッタンタン、スッタンタン(こぞうさんの名前)、おぎーてスーボリつら(鬼ばば)見ろ」というのも、ほかに見られません。
・三枚のお札(岩手のむかし話/岩手県小学校国語教育研究会編/日本標準/1976年)
ほかの地域よりややみじかめ。
大人でも手に余してしまうわらしが主人公で、類似の例にはあったことがありません。
はじめから鬼退治にいき、赤鬼、青鬼が恐ろしくなり逃げ出します。和尚さんからもらったお札で、クギ山、バラ山、海を出して和尚さんのいる寺に逃げ込んで助かり、それからは、とってもええこぞうになります。
・こぞうと鬼ばば(世界民話の旅9 日本の民話/浜田廣介著/さ.え.ら書房/1970年初版)
浜田廣介著は、途中の風景を楽しみながら列車にのっている感じになっている。
豆にばけた鬼婆を、和尚が食べてしまう場面、豆を炉であぶり、火ばしで豆をはさんで、息をふきかけ、たたみの上でさましてから食べる。おまけに和尚の歯がまだ丈夫で、噛み砕くところまで。
そのほかのところでも、大分ふくらんでいて、語るには、ほかのものの倍以上の時間を要するので頭がいたいところであるが、すてがたい味のある話にできあがっている。
・三枚のお札(新潟のむかし話新潟県小学校図書館協議会編日本標準1976年)
でだしは、小僧さんが和尚さんから遊びにいってもいいといわれ、山姥の家に。
結末もさっぱりして、小僧さんが米俵にかくれ、おしょうさまがお経を読んでいると、山んばが、あきらめて帰っていきます。
・さきたま出版会版(語り書き埼玉のむかしばなし/小沢重雄ぶん・北島新平え/1988年)
子どもが山に遊びにでかけていって、かくれんぼ遊びをしているときに、山姥につかまり食べられそうになります。
山姥が寝ているときに便所に行かせてくださいと頼み込み、その便所の神様が三枚の札をくれ、この札で山、川、海を出現させて、なんとか助かるところでお話は終わる。
三省堂版は、秋田県、さきたま出版会版では、埼玉県入間地方のお話になっているが、小沢重雄ぶんとなっていることからどれだけ原型が保たれているのか疑問なところもあるが、各地で同じような話があるところに、埼玉版として語れるのも楽しい。
・1981年ユネスコ・アジア文化センターとアジアの国々が協力して出版されたアジアの昔話に、日本の「三枚のお札」が載っていました。(アジア地域共同出版計画会議・企画 ユネスコ・アジア文化センター・編 福音館書店)
絵本も多くあります。
火と山と川のおふだ/大江ちさと・文 太田大八・絵/トモ企画/1989年初版
大江さんの再話。こぞうさんが、和尚さんから「ほどけさまにあげる はぎの花おってこいや」といわれ、山に出かけます。
おにばばにおわれた、こぞうさんが、一枚目のお札で火を、二枚目のお札で山を、三枚目のおふだで川をだします。タイトルどうりなのでわかりやすい。
最後、和尚さんのところへおにばばがやってきますが、他の話と違うのは、こぞうさんをつづらのなかに入れてふたをし、天井にぶらさげるところ。おにばばが、天井にはしごでのぼると、はしごがこわれ、はしごの下敷きになったおにばばが、土間に落ちて、骨だけがのこります。
方言が昔話を彩っています。
「山おぐには なにがいるかわがんねえ。おそろしいこどにおうだら、このふだをなげろ。せえば、きいつけていってこいや」(和尚)
「ばばさ、おれ べんじょ いぎとうなった」「かまわねえ、そごにすれ」
「たまげた」が「たんまげた」
おにばばが山をのぼるのは「わっしわっし」です。
”いっつくむかしが とっさけた ながとの ながぶち ぶらーんとさがった”は、結びの言葉。
絵もほんとに、昔話風です。
あおい玉 あかい玉 しろい玉/絵:太田 大八 再話:稲田 和子/童話館出版/2006年
この絵本も太田大八さんの絵を楽しめますが、ほかのものにはでてこないやせっぽちの便所の神さまがでてきます。
この再話では、札のかわりに、玉がでてきます。
しろい玉はイバラの山、あおい玉は湖、あかい玉は火事と、でてくるものと、玉のイメージが一致しています。
おばばが、みみずやむかでを囲炉裏で焼いて、「うめえ、うめえ」といったり、ながーい、舌で、小僧の頭をペナーンペナーーンとなめたりする怖ーい場面があります。
便所で小僧がばばあに「まだ、まあだ。いま、黄金のまっさかり」とこたえるのも妙に真に迫っています。
”イチゴぶらーんとさがった、なべのしたカリカリ”が結び。
たべられたやまんば/作:松谷 みよ子 絵:瀬川 康男/フレーベル館/2002年
題名だけではわかりませんでしたが、「三枚のお札」でした。お札で、川、砂山がでてきます。
絵は人物の髪、建物の屋根、柱、木や笹の線が特徴的で、全部塗りつぶしていないのが、いい味をだしています。
やまんばが納豆にばけたところを、和尚さんが餅にくるんで食べてしまい、”はい ごちそうさま”と、人をくった結び。
アルフィー/作・デイラ・ヒーダー 訳・石津ちひろ/絵本塾出版/2020年
ニアの六歳の誕生日に、家にやってきたカメのアルフィー。アルフィーも六歳。
ニアは嬉しくて、アルフィーに、くねくねダンスをおしえたり、プレゼントしたり、変な格好をしてみせたり、歌を聞かせたり、ともだちの話をしたりしますが、反応はありません。
そのうちニアはアルフィーのことを考えなくなりました。そして、七歳の誕生日の朝、アルフィーがいなくなりました。
このさきはアルフィーの視線。
ニアは いいにおいがするから、そばにいると ほっとするし、いつも笑わせてくれたのでニアを喜ばせたいと、プレゼントを探しに出かけます。
イヌのトビーにおしえてもらい、はじめて外にでました。落ち葉、砂場の中にはなにもありません。そのうちチラチラ雪。
探すのに夢中であちこちいきますが、ニアにぴったりなのは なかなかみつかりません。
ようやく さかなにおしえてもらい、池の底でみつけた誕生日プレゼントは・・・・。
ニアはカメが無反応とおもっていたのですが、カメのアルフィーは、ニアがしてくれる全てのことに喜び、ニアを特別な女の子だなって おもっていたのです。
すれ違いと思っても、すぐに結論をだすのではなく、忍耐強く時間をかけれ分かり合えることもあります。ただ正直言って、なぜカメ?という疑問が残りました。