もしも魔法が使えたら・・戦争孤児11人の記憶/星野光世/講談社/2017年
日本で歴史の証言として、後世に残すべきものがきちんと記録されているだろうか。
戦争孤児もその一つ。
政府は1946年の帝国議会で、戦争孤児の総数を「3千名前後」と答弁したが、48年の調査で孤児は12万人以上いたことがわかったという。病死などとされたその他8万人余りも内訳は不明で、実質的には大半が戦争孤児だと私は考えています。しかもこの調査は、養子になった孤児や沖縄県の孤児、路上にいた浮浪児は含まれていません。実数は、さらに多かったと思います(戦争孤児の会代表 金田茉莉さん)
戦前、戦後、空襲などで親が死んでしまった後、子どもたちはどのように生きてきたのでしょうか。ここには悲惨な思い出が記録されていました。
・著者は昭和8年生まれ、東京大空襲で両親と兄妹の4人を亡くします。著者は学童疎開で命は助かりますが、残されたのは11歳の著者と8歳の妹、4歳の弟だけでした。
・空腹で、お店からトマトを盗んでにげ、アメリカ兵と若い日本女性がのるジープでひかれ即死。
・施設に入って学校に通わせるという話が持ち上がると、「野良犬を学校に入れるな!」「浮浪児を学校に入れるな!」「あんなバイキンの塊と遺書では、地元の子どもがダメになる!」と、猛反対。やっと学校へいくと、教室はなく、物置を整理した特別教室。黒板にはこどもたちがいたずらした「浮浪児 犬小屋」の文字が。
・上野駅でごろ寝。上野駅の地下道は大勢の孤児でいっぱいで、最後にうめくような声で「母ちゃん、母ちゃん」と呼びながら、毎日のように死んでいく。
・東京大空襲でひとりになり、伯母の家で、お腹をこわしておもらして、雪の夜に氷の張っているバケツの冷たい水をかけられ、親と一緒に死んでくれればよかったのに といわれたこと。
・馬小屋で馬と泣きながら寝ていた弟。その後、弟は家出をして行方不明。妹も黙って親戚の家を出て行方不明。
・両親が亡くなり、兄弟も離れ離れ。別の親戚にあずけられていた弟は、うどんのような回虫を吐いて死んだ。浮浪児になったわたしは「狩り込み」につかまって、山奥に棄てられた。山奥に棄ててきたのは都の職員。
親戚の家で暮らすことになった戦争孤児は、十分な教育を受けさせてもらえなかっただけでなく、虐待にちかい扱いも多かったようです。親戚の家もギリギリの生活で、厄介者がやってきたということだったのかもしれません。
ここで記録されているのは11人だけです。12万人以上の孤児には、飢餓や凍死で死んでいったものがいたのでしょうが、こうしたおおくの多くの孤児たちの声はもう聞こえません。
当時の生存者も高齢になっていますが、父母の名前など自身の出自を知ることもできない方も多いようです。
こうした記録が、民間団体や個人にゆだねられているのはきわめて残念です。