どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

六文のあめ・・愛媛

2024年09月11日 | 昔話(中国・四国)

     愛媛のむかし話/愛媛県教育研究協議会国語委員会編/日本標準/1975年

 

 全国各地に同じような話がありますが、一番まとまっていると思わせる話でした。

 

 収入の良かった千石船で働いていた婿どんがなくなり、子ども二人をかかえ、一文駄菓子の飴や金平糖を売ってはつつましく暮らしてた嫁はん。子どもをかわいがってちょいちょい飴をまけてやるのでよく売れていた。

 ある夜中のこと、白い着物を着たおなごの人が、あかんぼうをだいてきて、「一文のあめ、つかわさい」という。駄菓子屋のかみさんは、「こんな夜中に一文ぐらいのあめどうするんじゃろう」と思ったが、気持ちよくあげたら、その人は、あかんぼうにピッチャクッチャ、ピッチャクッチャなめさせていたと思うと、しらん間に帰ってしまった。

 つぎの晩も、つぎの晩も、「一文のあめ、つかわさい」とくる。五日目の晩になって、「今晩こそ、ように見よらんと気がもめる」と、やってきた女の人に、「あんた、ちちがでんのだろ。子どもにねぶらすなら一文では足らんだろ」と、あめをようけ包んであげたら、「ありがとう、ありがとう」というて、すーっといなくなった。

 かみさんは、「かわいそうに、あの人はあかんぼうをつれたゆうれじゃ」と気をもみよった。六日目の真夜中に、また すーっとあらわれ、あめを包んであげたら、「もうこれでお金がなくなった」といって、すーっといなくなった。しっかりもののかみさんが、「こらついていってみなくちゃならん」と、ゆうれいの後をついていくと、お寺のおはかの中で、っぼーっと消えてしまった。すると、新しい墓石の盛り土の下から、「ホンガー、ホンガー、ホンガー」とあかんぼうの泣き声がきこえてきた。あわてて盛り土をのけて、棺桶のふたをとってみたら、白い着物をきた、いつものおなごのひとが、泣きよるあかんぼうをだいたままでいた。

 かみさんは、「むごいことじゃ」思うて、死んでいるおなごの人に手を合わせ、「二人育てるも三人育てるのも同じじゃ。わたしがこの子を育てあげるから安心して成仏しなはれ」というて、あかんぼうを引き取った。

 つれかえったあかんぼうをみて、子どもたちも、「おんぶしてやろう」という。二人兄弟が三人になって、それからっずーと仲良く暮らしたという。


おとら岩・・愛媛

2024年09月08日 | 昔話(中国・四国)

     愛媛のむかし話/愛媛県教育研究協議会国語委員会編/日本標準/1975年

 

 貝やヒジキ、ワカメをとって暮らしていたおとらばあさん。

 きょうも海へ行くと、おおきな岩の上に、今まで見たこともない大きな大きなタコが寝ていた。おとらさんよろこんで、タコをかごにいれようと思ったが、とてもはいりきらん。それで足一本だけでもと、鎌で切って町へ売りにいくと、いつもの二倍のお金をもうけた。

 つぎの日も、タコのおった岩にいくと、やっぱりタコはねとった。おとらさん、そろっと二本目の足を切って、また町へ売りにいった。

 つぎの日も、つぎの日もタコの足を切り取って、とうとう八日目に、八本目の足になったとき、タコはぐいとおきて、「この足はおまえにやれん」と、八本目の足でおとらさんをぐるぐる巻きにして、海へ引きずり込んでしまった。それでタコが寝ていた岩を「おとら岩」というようになったんじゃと。

 

 過ぎたるは猶及ばざるが如しか?


大うその皮・・愛媛

2024年09月05日 | 昔話(中国・四国)

      愛媛のむかし話/愛媛県教育研究協議会国語委員会編/日本標準/1975年

 

 船旅で一緒になった人がそれぞれ自慢話をはじめます。

 下関の人は、周囲12㎞の大きなケヤキの木があるといいました。

 粟井の人は、12キロもある牛がいる。

 すると大阪の人が、まわりが12キロある太鼓を作ったという。

 ほかのもんが、「そんな大きな太鼓をどんな木で作った」かたずねると、大阪の人は。下関のケヤキの木でつくったという。
 「太鼓の皮は、どこにあった?」ときくと、粟井の牛の皮を張ったという。
 「皮は、なんで張った?」ときくと 大阪の人はいった。
 「三人のいう、大うその皮を張りつけてつくったんよ。わかったろうが」

 

 嘘もほほえましいものだったら、笑えるのですが・・・・

 


阿波タヌキ合戦・・徳島

2024年08月19日 | 昔話(中国・四国)

      徳島のむかし話/徳島県教育会編/日本標準/1978年

 

 徳島にはタヌキ合戦が似合いそう。

 小松島に、あまり繁盛していない和屋という染物屋があった。ある日、店のもんが、タヌキの穴をみつけ、けむりでいぶし出して、タヌキ汁にして食おうと騒いでいた。しかし、店主の茂右衛門は、優しい人で、苦しがっているタヌキをたすけ、毎日えさをやっていた。タヌキはご恩返しをしたいと、小僧さんに化け店で働くようになった。小僧さんの手にかかると、いまでみたことのないようなみごとな染物があがるようになり、店の客も増え、繁盛するようになった。このタヌキは金長ダヌキというタヌキ。

 金長ダヌキはうらないいまでやって、これがなんとまあ、よくあたったので、遠くからでもわざわざ訪ねてくるようになり、茂右衛門は、庭に正一位の旗をたててやったそうな。

 とろろが、タヌキの世界にもいろいろあって、総大将といってタヌキのなかでいちばんりっぱなタヌキのところで修業しないと、正一位は名乗れなかった。それで金長は、津田の総大将六右衛門ダヌキのところへ、修業にでかけた。
 六右衛門ダヌキは、精出して修業した金長に、「むすめ、鹿ノ子のむこになり、総大将のあとつぎになってくれ。」というが、金長は、「大和屋の主人は命の恩人、大和屋へ帰る。」と、断った。これまで、なんでも思い通りにしてきた総大将六右衛門は、若い金長ごときに断られたとあって、ひどく腹をたて、夜討ちはかった。金長は、命からがら小松島に逃げ帰った。
 ところで、鹿ノ子姫は、そのご三日三晩嘆き悲しみ、とうとう自殺してしまった。六右衛門は、鹿ノ子姫の髪を切り、それをうばに持たせて、金長のところまで届けさせた。このひどいしうちに怒った金長は、津田の六右衛門をせめた。阿波のタヌキどもは、若くて力のある金長と総大将六右衛門の二つに分かれて、津田のあたり一帯を戦場として、一大合戦をくりひろげた。これが阿波のタヌキ合戦ちゅうんだと。六百ものタヌキが、夜通し戦ったので、村の人たちは寝るに眠られず、布団を頭からかぶり、おののき震えていた。朝になると、タヌキの死体が、あっちこっちに、ちらばっていた。

 この合戦で、総大将六右衛門は死んでしまい、金長もそのときの傷がもとで、間もなく死んでしまった。あとに残ったタヌキたちが話し合って、なかよく暮らそうと約束したので、それからは、タヌキの世界も平和になったんだと。

 

 金長タヌキは、1994年スタジオジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」に、六代目として登場する。


千三つじいさんのゆいごん・・徳島

2024年08月16日 | 昔話(中国・四国)

     徳島のむかし話/徳島県教育会編/日本標準/1978年

 

 むかし、千のことを言ったら、そのうち三つぐらいがほんまで、あとの九百九十七まで、うそばっかしという、うそつきじいさんがいて、近所の人も、親戚、家の者まで、このおじいさんのいうことは信用しなかった。

 このおじいさんも、とうとうときがきて、死に際になった。おじいさんは、「今までうそばかりついてすまなんだ。けれど、死に際にいっておく。これはほんまじゃ。わしが死んだ十年たったその日に、この部屋の床の下をほってみてくれや。壺が出てきて、なかに宝物が入っている。みんなでわけてくれや」と言った。

 みんなは、なんぼうそつきじいさんでも、死ぬときにはやっぱりほんまをいうもんじゃと、みなこれだけは信用した。
 さて、十年たった命日に、みんなが集まり、床の下をほってみると、たしかに壺が出てきた。「やっぱり、これだけはほんまじゃった。」と、壺をあけてみると・・・。

 

 嘘も方便、人間関係の潤滑油にもなりますが、今のご時世、危うい嘘が多くありすぎ・・。


耳なし芳一・・山口

2024年05月28日 | 昔話(中国・四国)

      山口のむかし話/山口県小学校国語教育研究会国語部会/日本標準/1973年

 

 むかし、琵琶をひくことがじょうずな目の見えない芳一という若い坊さんがいました。得意にしたのは平家物語を語ることでした。

 ある夏の夕暮れ、あちこちにまねかれ、琵琶をひいてつかれきって寺にもどり、うたたねをはじめました。しばらくうとうとしていると、庭先のほうに、人の気配がしました。芳一が聞き耳をたてると、「琵琶をひくのが、上手と聞いて、高貴な方がぜひ聞きたいとおおせられるので、わたしについてきてほしい。」と、低い声。せっかくなのでうけることにした芳一は、武士らしき男に連れられて、屋敷の廊下伝いにいくと、そこは大広間のようでした。まわりには、たくさんの人がいるらしく、小声でささやきかわす話声が聞こえてきました。そこで芳一は、上品な女の人の要望で壇ノ浦の合戦を語りました。

 芳一の語りは、壇ノ浦の合戦をうかびあがせてみせるようでした。芳一は、一心に琵琶をかきならし、声もかすれんばかりに、熱情をこめて語り続けました。人々の間からは、かなしみをこらえきれずに、涙に声をつまらせて、はげしく泣く人まででてくるほどでした。

 語り終わると、年老いた女の人が、芳一の耳のそばに身を寄せてきて、ささやくように話しかけました。「また、あしたの晩も、きておくれ、けれどもこよいのことは、だれにもいう出ないぞ。七日七夜、人にいうてはならぬぞ。」

 芳一は、つぎの日も、むかえの武士にさそわれ、前の晩とまったく同じように、心をこめて、琵琶をかきならし、声をはりあげて語りました。しかし、夜がふけるまで語り続けるので、いくら若い男とはいえ、身はくたくたにつかれはててしまいました。

 三日目の朝、仲間の坊さんが、芳一のようすが、いつもとちがうことに気づきました。腫れぼったい目、青白い顔、病人のような芳一をみて、坊さんたちは、目をなはさいように注意しました。夕暮れ時になると、しとしと小雨がふるなか、琵琶をもってでかける芳一のあとをおいかけた坊さんは、驚くような光景を目にしました。芳一は平家一門のお墓の前に正座して、雨にずぶぬれになりながら、一心に琵琶をかきならし平家物語を語っているのでした。壇ノ浦のおわりの場面が近づくと、平家一門のお墓の上に、赤い火が浮かび、青い火がふうッとながれ、ゆれうごいていました。

 芳一が平家の亡霊に取りつかれていると思った坊さんは、急いで寺にかえり、見たことをおしょうさんに話しました。おしょうさんは、つぎの朝、芳一をまるはだかにし、筆にすみをたっぷりつけて、ありがたい経文を、頭に先から足の下まで、ぎっしりと書きつらねていきました。そして、だれがきても返事をしないようにいいます。

 さてその夜も芳一を連れ出そうとする使いの武士がやってきますが、芳一の姿は見えません。だが、暗闇のなかに、耳がうかんでいるのがみえ、二つの耳をちぎり取ってしまいました。やがて法事からかえってきたおしょうさんは、白い着物を、真っ赤な血でべっとりぬらした芳一を見て、耳だけに経文をかくのを忘れていたことに気づき、芳一の耳の傷口の手当てをしてやりました。

 それからも芳一は琵琶の名手として人々から愛され、いつのまにか「耳なし芳一」とよばれるようになりました。

 

 小泉八雲の怪談で広く知られるようになったこの話、山口にふさわしい昔話です。夏の夜に語ると雰囲気がでそうです。


えんこう・・広島

2024年05月17日 | 昔話(中国・四国)

      広島のむかし話/広島県小学校図書館協議会編/日本標準/1974年

 

 ”えんこう”とききなれない存在。えんこう川のほとりのおじいさん、おばあさんの二人暮らしのまずしい家にあらわれるので、もしかするとカッパなのかも。何者であるのかは最後までわかりません。

 夏の夜、おばあさんが夜中に目をさまし、流しに水をくみにいくと、格子のすきまから、毛むくじゃらの長い手がのびていました。びっくりしてみていると、手は流しの棚にあったイワシの残りをつかむと、すっと手をひいて、それっきり手をだしませんでした。おじいさんは、話に聞いていたきもをくうという”えんこう”のことを思い出しました。その夜、恐ろしくて眠れなかったおじいさんとおばあさんは、朝になってすぐ流しの格子のすきまに、竹のわったのをうちつけました。しかし、わり竹は役に立たず、毛むくじゃらの手がのびてきました。

 子どもがいない老夫婦は、「わしらの子ども」と思い、三日目にイワシのはらわたを流しに置いておきました。その夜、はらわたはなくなっていました。老夫婦は、それから毎晩、流しにはらわたをおきました。するとその夏には、えんこう川で泳ぐ子どもの事故はありませんでした。それだけでなく、おじいさんが魚つりにでかけると、かかる魚がみなタイでした。そのタイは、味がいいので大評判になりました。

 毛むくじゃらの手がでてくるのは夏の夜だけで、ふたりは秋になると、つぎの夏のことを考えるのでした。魚が高く売れ、冬にはつれないはずの魚も、おじいさんの釣竿にはかかりました。こうしておじいさんとおばあさんは、八十に手がとどくようになっても、病気ひとつせず、元気で働きつづけました。

 いつのまにか流し台がくさりはじめ、えんこうがけがでもしたら大変と、おじいさんは長しのふちに、真鍮をはめておきました。そしていつものようにイワシのはらわたもおいておきました。ところがえんこうは、それからはいつまでたってもあらわれませんでした。

 

 (話し手のまとめ)おそろしいものを作るのが人間なので、流し台の真鍮が、ピカッピカッと光るのがおそろしくて、えんこうは あらわれんじゃったのだろう。

 

 人間が作り出した食品にふくまれる添加物、農薬など、長い間蓄積されると人間に悪い影響を及ぼすのでは?
 人間が作り出した究極のおそろしいものは核爆弾か?


おきくがんぎ・・広島

2024年05月07日 | 昔話(中国・四国)

      広島のむかし話/広島県小学校図書館協議会編/日本標準/1974年

 

 ”がんぎ”は、海辺に石が段になっているところ。

 おきくというむすめが、海でなくなった大二郎という若い漁師をまちつづける話。

 荒れた海で行方不明になった大二郎を心配して、おきくは、毎日のように岩の上に立って海を見ていました。しばらくして大二郎の死体が浜辺に流れ着きました。泣き叫ぶおきくをみて、浜の人々はおきくをなぐさめました。

 やがて丘の上に大二郎のお墓がぽつんとたてられました。おきくは毎日お墓に線香をたててやり、海辺の岩の上に立って、ぼんやりと海を眺めていました。

 ある日のこと、おきくの姿が村から見えなくなりました。浜の人々はあたりをさがしまわりましたが、おきくの姿はみあたりませんでした。それから七日ほどして、おきくの死体が海辺に流れてきました。おきくは、岩の上から身を投げて、大二郎のあとをおったのです。

 それから、夜、風のふく日には「大二郎さーん。大二郎さーん」とよぶおきくの声が岩の上からきこえるといううわさがしきりにたちました。また、風の強い夜、がんぎをのぼるぬれた草履の足音がバタバタとするのです。また船も、どうしたことか、前にすすまぬようになるそうです。それからこの浜辺には、若い男の死体が流れつくようになりました。

 それから、この岩のことを、だれいうともなく、「おきくがんぎ」というようになりました。

 

 ふたりが、どうしてひかれあったかはでてきません。めずらしい悲恋物語です。


だかと龍の駒・・鳥取

2024年01月22日 | 昔話(中国・四国)

       子どもに贈る昔ばなし18/小澤俊夫・監修/小澤昔ばなし研究所/2022年

 

 いわばシンデレラストーリなのですが、朝日長者のきろ松という男の子が、夕日長者の娘の婿になるという話なので、枠は はみでています。

 きろ松が長者の家をでることになったのは、長者の後妻が病気になり、後妻の病気を治すためには、きろ松の生き胆をのませないとなおらないといわれたこと。長者は妻と、きろ松のいずれれとるか思い悩みますが、妻の病気をなおすことを選びました。そして男衆が芝居見物といつわって、きろ松を駕篭に乗せ生き胆をとろうと山へ行きますが、かわいそうと思った男衆が、きろ松を逃がし、かわりに猿の肝をとって男衆はもどりました。

 きろ松が山の中を歩いていくと、新しい墓がありました。きろ松が墓を通り過ぎようとすると、あたりは急に日が暮れたようになり、すすむことも、もどることもできなくなりました。きろ松がこの墓のそばで寝ていると、墓石がぐらぐら動き出しました。そして、白い着物を着た人が墓から出てきて、「きろ松か、きろ松か」という。この人は母親で、「わたしが死んだばかりに、おまえがこんな苦労をするんだね。この『紅』という扇を持っていきなさい。この扇で『衣服大小龍の駒』といって、天にむかってまねけば、みごとな馬が着物や大小の刀を背負って降りてくる。寒いときは、着るものを、腹がすけば食べるものをさずけてくれるだろう。これさえもっていればもう苦労することもなかろう」といって、いなくなりました。

 やがて、きろ松は夕日長者のところで馬の世話をはじめます。名前をたずねられると、「だか」とでも呼んでくださいといい、それで、きろ松は「だかやだかや」とよばれるようになりました。何年かたって、そこで大きな遷宮が行われることになり、めったいにない遷宮というので、みな、われもわれもとお参りにでかけていきました。留守番することになったのは、だかと、この家の娘でした。

 だかが、ちょっとお参りしようかという気になり、『衣服大小龍の駒』といって、紅の扇で天にむかってまねくと、みごとな馬がりっぱな着物や大小の刀を背負って降りてきました。だかは、その着物を着て、大小の刀を差し、龍の背中にまたがると、遷宮にでかけていきました。

 遷宮からもどった人たちは、くちぐちにりっぱな人をみることができたと、うわさしました。一方、長者の娘は、とたんに具合がわるくなってしまいました。占い師が「下ばたらきの者が好きになって、そのための恋わずいにちがいない」といいます。長者は、下ばたらきの若い者をよんで座敷にあがらせ、娘が杯を差し出したものを婿にしようとしますが、娘は障子をぴしゃりとしめてしまいます。だかは、そこにいませんでした。だかをよんで、娘をもう一度呼ぶと、娘は、まっすぐだかのところへいって、杯を差し出します。長者が、おまえがもっている婿入りのごしらえでは、うちの婿にはなれんぞ」というと、だかは、紅の扇で、りっぱな婿入りのしたくをしました。

 

 繰り返しが昔話の特徴ですが、ずいぶんとさっぱりした展開。干支の龍が出てきますが、『衣服大小龍の駒』は わかりやすい。


大つごもり長者・・山口

2023年12月31日 | 昔話(中国・四国)

       子どもに贈る昔ばなし19/小澤俊夫・監修/小澤昔ばなし研究所/2023年

 

 この時期、定番の「笠地蔵」の話です。

 大みそかに、笠を売りに出かけたおじいさんが、雪の中で寒そうにたっているお地蔵様に、笠をかぶせて上げると、正月の朝、お地蔵さまからたくさんのお返し?をいただく話。

 歩くたびに地蔵さまがいて、12の笠をかぶせてあげると、売り物がなくなって、家にかえることにしましたが、ほかの話にはでてこない おばあさんが出てきます。はらがひっているというおばあさんに、あわめしのべんとうをわたしてあげると、小さい袋をもらいます。それは、たからぶくろといって、おばあさんは まだ使ったことがないという袋でした。

 正月の朝、軒下には、つきたてのお餅。おじいさんとおばあさんが雨戸をあけてみると、笠をかぶった地蔵様が、雪の中を、静かにかえっていくところでした。「ありがたや」と、ひざまづいておがんだじいさんのふところから、みょうな袋が、落ちました。ふたりで袋を開けてみると、たまげたことに、ぴかぴか光る小判が、一枚はいっていました。これまで小判をみたことがないというおばあさんが、いっぺんしめた袋の口をあけてみると、こんどは小判が二枚になっていました。なにやら気味が悪いのですぐに口をしめますが、どうしても気になるので、またあけてみると小判は四枚になっていました。袋をもらったおばあさんをさがしますが、どうしても見つけることができず、じいさんとばあさんは、ありがたいことじゃといって喜び、大金持ちになって、それからも幸せにくらしたという。

 

 笠地蔵にでてくるおばあさんは、手ぶらで帰ってきたおじいさんを、あたたかくむかえる、なんともできた人。ついつい非難する凡人とは大違いです。また類似の話では、地蔵様が一か所にたっているのがおおいのですが、この話では離れ離れにたっています。

 倍々で増えていく小判は、袋にはいらないので、どうしたのやら!


竜王ばあさま・・山口

2023年12月28日 | 昔話(中国・四国)

     子どもに贈る昔ばなし19/小澤俊夫・監修/小澤昔ばなし研究所/2023年

 

 竜宮といえばお土産が気になりますが・・。

 

 竜宮城の乙姫さまの赤ん坊がなかなか生まれず、村でたよりにされていたお産婆さんが、いつものようにお産を助けてあげました。男の子でした。

 ばあさまは乙姫さまが元気になるまで、そのまま竜宮城でふたりの世話をしてすごしました。日がたち、乙姫さまも元気になり、やっと家に帰れる日がくると、竜王は、お礼のしるしに、ばあさまの前に金、銀、珊瑚を山のようにつみあげました。ばあさまは、これらを断り、日照りのときに雨を降らせてくれるようにお願いしました。

 つぎの年、日照りが続くと、村人たちはばあさまのいうとおり、丘の上に祭壇を作って竜王を祭り、村中総出で、豊年踊りを踊りながら、雨ごいをしました。すると、たちまち空がくもって、大雨がふり、かれていた川はごうごうと流れだし、みるみるうちに田んぼや畑に水がゆきわたりました。それからは、日照りのときも水の心配がなくなり、おばあさんは、だれいうことなく「竜王ばあさま」とよばれることになりました。

 

 産婆さんや産屋がでてくるのも昔話だけになるのかも。


山んば・・香川

2023年01月27日 | 昔話(中国・四国)

     香川のむかし話/香川小学校教育研究会国語部会・香川県国語教育研究会編/日本標準/1977年)

 

 長次郎は、馬に塩を積んで、山をこえて、となりの村へ運ぶのが商売。

 ある日、山ごえの道を歩いていると、山んばがでてきて、塩をひとくちなめさせてくれんかという。長次郎は、塩はやれないというが、山んばに、馬も塩も全部食べるといわれ、ひとくちだけ塩をなめさせる。

 長次郎が山道をのぼっていくと、いったんは、消えた山んばがまたでてきて塩を一口なめさせやという。

 馬も食うといわれ、何度も塩をやった長次郎だったが、しまいには、馬もバリバリ食われてしまう。

 長次郎が、木のかげから様子を見ていると、山んばは、人のおらんおんぼろ寺のなかで、風呂桶のなかでグウグウたかいびき。長次郎は、風呂場にいって風呂桶のふたをして、おおきい石をのせ、そこらへんの木を、火どこに投げ入れ、火をつけてしまう。

 やがて、山んばが、「馬も塩も、かえすけん、こらえてくれ」と泣き叫ぶが、長次郎は、「何ぬかすんな。食べたもんが、もとにもどるか」と、なおも どんどこ焚き続けたので、やがて、風呂のなかは静かになる。夜が明けて、ふたを開けてみると、風呂の底に、灰がすこしあっただけ。

 そうろう。

 

 全国に分布する昔話で、馬または牛が運んでいるものもいろいろ。「食べたもんが、もとにもどるか」という切り返しは、もっとも。


こぞうとカメ・・香川

2023年01月24日 | 昔話(中国・四国)

    香川のむかし話/香川県小学校教育研究会国語部会・香川県国語教育研究会/日本標準/1977年

 

 法事によばれていったある寺のこぞうが、とちゅうで子どもにいじめられていたカメをみて、離してやれと子どもらに言うが聞き入れない。こぞうさんは、法事の帰りに銭をやる約束をして、カメを海へ帰してやる。

 ここまでくると「浦島太郎」かと、思いきや、ある日あらわれたカメにつれられていったのは大きいお屋敷。そこでごちそうになり、お土産にもらったのが、一本の筆。

 しばらく大事にしていた筆で、鬼をかいて、本堂の柱に貼っておいた。すると、泥棒が本堂にちかづくと、その鬼がとびついていくので、その寺には、信心な人ばかりがお参りするようになり、寺は、銭やお米をたくさんもらって、こぞうも一生安楽に暮らすことができたという。

 

 カメは、けっこい(きれいな)むすめになって、こぞうさんの前にあらわれます。男に「きれい」という言葉は使うことがなさそうですから、「きれい」は、女性の形容詞になりジェンダー視点からいうと問題ありか?。これが「けっこい」というと、印象が全く異なります。


くさがくしのうど・・愛媛

2023年01月20日 | 昔話(中国・四国)

       愛媛のむかし話/愛媛県教育研究協議会国語委員会編/日本標準/1975年

 

 死人を丁寧にほおむってあげると・・。

 

 むかし、西浦に働き者の清八という漁師がおった。ある日、海がしけちょるのに沖に出たが、波が高くなり風も強くなって、うど(ほら穴)に逃げ込もうと船をこいだが、いっこうに前に進まない。船の後ろを見ると、大きなコモ俵が引っ掛かっていた。コモをとりのけようと俵をほどくと、なんとまあ、中みは死人じゃった。

 「どないなわけかわからんが、なんともあわれな姿よ。これじゃあ、うかぶせもあるまいに。われ、いったいどこもんぞ」と死人に話かけ、崖の棚場にかつぎあげ、寄り木(打ち寄せられた木)を集めて火そうにしてやったんじゃ。

 それから三月ほどして、テングサ取りの時期が来た。この年は、とのさまの江戸のぼりの年で、おさめもんのテングサの割り当てが、いつもの年より五割もよぶんにきた。 ところがテングサのつきが悪く、漁に出てもなかなかわりあてぶんが取れない。おさめもんがおさめられないと、来年は漁をさせてもらえない。

 その日も、漁をしていたが、ちょっとしかとれず、岩かげに船を寄せて、休んでいると、だれかが「清八、清八」と呼ぶ。よくみると しょうりょうせん(死んだ人のたましいを送る船)に乗った男が手招きをしていた。あがらうことができんような気がして、船をこぎながらついていくと、大きなほら穴のなかに消えてしまった。船を寄せてみると、ほら穴のおくに、小さなほら穴がつづいている。そのほら穴にはいってみると、そこは浜になっていて、テングサが山積みになっていた。

 夢をみるような気がしたが、夢中になって、テングサを船に積み込み、おおいそぎでほら穴の外にこぎだすと、ちょうど待ち構えたように潮がみちて、ほら穴の口が、ぴしゃりとふさがってしまった。

 浦の人が、きゅうに大漁するようになった清八のことをふしぎがって、きづかれないようにあとをつけていくと、清八がほら穴の中へはいっていく。そのほら穴にはテングサなどはえたことがないのをしっているので、みんな安心して見ていた。ほら穴のなかにまたほら穴があるのは誰も知らなかった。でてきた清八の船のテングサの山をみて、みんなはタヌキにばかされたとように思うたんじゃ。そして、てんでにほら穴のなかを調べてみたが、なにひとつみつからなかった。

 それから後、清八のとってくるうどのことを「くさがくしのうど」というようになったんと。

 

 しょうりょうせんというのはこの地方独自のものでしょうか、はじめてききました。とのさまの江戸のぼりは参勤交代、おさめもんは年貢のことですが、こんな表現もはじめて。江戸時代に語られた話でしょうか。類似の話が多い昔話の中で、ちょっとめずらしい展開です。


福助さんのノゾキメガネ・・愛媛

2023年01月11日 | 昔話(中国・四国)

      愛媛のむかし話/愛媛県教育研究協議会国語委員会編/日本標準/1975年

 

 福助は、ぼろ買いが商売で、毎日あっちこっちの村を歩き回っていた。よめが怠け者で、福助がいなくなると、たちのよくない人たちと遊んでばかりいた。よめさんをみていた村の人のうわさを聞いた福助が一計を考えだし、よめさんにまじめになってもらおうと、「商売でとなりの村への峠で、カラス天狗にであって、ひょっとしたことから竹づつのノゾキメガネを手に入れた。遠いところがよく見えるので、おまえが何をしているかのぞいてみれば、お前が、たちのよくない人とあそんでいるところが見えた。」というと、よめは、びっくりぎょうてん。それからは家の仕事をよくするようになった。

 福助のメガネは魔法のメガネ、なんでもかんでもよくみえると大評判になった。

 ある日、庄屋に使われている佐吉から、いつもぼろばかり着せている娘のために、お嬢さんの晴れ着をとったが、娘は、そんなもの着てもうれしくないというので、もとにもどそうとおもったが、どうしたらいいかわからず、納戸の長持ちの中に入れた。ノゾキメガネのちからで、うまくおさめてほしいという。

 庄屋から、なくなった晴れ着をさがしてほしいと相談された福助は、ノゾキメガネであっちこっち見まわして「うん、その着物は納戸の長持ちの中にある」といって、うまくとりなおします。

 次に持ち込まれたのは、ノゾキメガネの評判を聞いた殿さまからの相談。将軍からいただいた刀をだれかに盗まれ、このままでは、殿さまは切腹、お家はとりつぶしと、おおごとになっていました。

 家老がむかえにきて、作りごとでしたともいわれず、早かごに乗せられ城に向かった福助は、とちゅうかごから抜け出し、林のなかに走りこみました。福助は、このやぶのなかで三人の侍が、「将軍家拝領の刀はここにかくした。ウフフッ。これでお城はとりつぶしじゃ」と話しているのを聞きます。

 福助は、お家騒動にまきこまれのはごめんと、あちこちにげまわっているうち、どうしたことか、もとにおったご家老さまのいる場所についてしまいます。そのまま城にいくと、このノゾキメガネは三回しか願いがかないません。刀が見つかりましたら、これからは、じっと座っていても、暮らしがたつようにしてくださいとお願いし、ノゾキメガネで海や山のほうをみまわしてから、刀の隠し場所を、力を込めていいました。

 それからのち、福助さんは、じっとすわっていても、くらせるようになったという。

 

 ぼろ買いが商売になるのはとてもエコ。魔法のメガネの効力は三回だけと、これからも面倒にまきこまれるのを心配した福助さんの知恵が生きている話です。