桃源郷ものがたり/松居 直・文 蔡皋・絵/福音館書店/2002年
戦乱にあけくれ、不作で苦しい生活をよぎなくされた中国の晋の時代。
ある日、漁師が魚をたくさんとろうと、いままでいったことのない川上に舟をこいで川をさかのぼっていくと、いちどもきたことのない山奥にきていました。
きがつくと桃の林が、両岸にどこまでも続いているところへきていました。このさきになにがあるのか知りたいとなおも漕ぎ進んでいくと、山陰の洞穴からかすかな光がもれていました。
漁師が舟をおり、おそるおそる洞穴に入っていくと、よく耕された、畑や田んぼ、美しい池、そしてよく手入れされた家がみえました。
村人の話によると、秦という国があったころ、戦争をさけるため、先祖がこの土地へ逃れてきたということでした。
漁師が、秦以降の国の動きをはなすと、村人は驚くやら感心するやら、ためいきをついて聞き入ります。
漁師が、この村で何日か過ごし、家に帰ろうとすると、村人は「ここで見たり聞いたりしたことは、誰にも話さないでほしい」と頼みます。
漁師は家に帰る途中、あちこちに目印をつけておきます。家に戻った漁師が不思議なところへいってきたといううわさが、いつか広まっていきます。
うわさをききつけたおうさまが、家来に命じて、不思議な国に行く道を探させようとしますが、目印もなくなっていて、洞穴へ行く道はどうしてもみつかりませんでした。
中国の詩人、陶淵明の「桃花源記」にもとづいて再話された物語といいます。
桃源郷はありえない思うか、必ずあるはずと理想郷をおいもとめるか、どちらでしょうか。
それにしても、なぜ、世界から争いや憎しみがなくならないのでしょうか。
スリランカの昔話 ふしぎな銀の木/シビル・ウェッタシンハ:再話・絵 松岡享子 市川雅子・訳/福音館書店/2017年
今年の6月に発行されています。
ある日、王さまがふしぎな夢をみます。それは、地面がぱっくり割れると美しい銀の木が生え、銀の花が咲き、銀の実がなり、木のてっぺんで銀のオンドリが三度鳴くという夢でした。
王さまの命令で三人の王子は木を探しに旅立ちます。三本の分かれ道でわかれ、帰りにはここでまちあわせようとします。
一番上の王子は、バナナを食べて、頭の上に太い角が二本はえて、旅を断念します。二番目の王子は、ハスの咲いている池の水を飲んで、カエルになってしまいます。
末の王子は、ジャングルで瞑想している隠者から教えられ、昼も夜も巨大な毒ヘビが守っている洞窟にむかいます。
なんとか毒ヘビを退治し、次に会ったのは白い乙女、金の乙女、銀の乙女。
三人の乙女がいうとおり、殺すとそこにはえてきたのは銀の木でした。木はすぐに消えてしまいますが、三人の乙女は命をとりもどします。
殺すという怖い場面のあとで、すぐに生き返るというのが救いです。
三人の乙女と王さまのところへ帰る途中、前に会った隠者の助けをかりて、二人の王子をもとにもどしますが、先へ先へと急いだ二人は、王さまに告げ口します。
やがて王さまのところに帰った王子は、暗い地下牢に、三人の乙女は高い塔にとじ込まれてしまいます。
それからほどなくして王さまが病気になり、夢で見た銀の木をまことのこととせねばならぬでしょうという占い師のお告げが・・。
三人の王子がでてくると、上の二人は損な役割なのですが、一番上の王子は白の乙女と、二番目の王子は金の乙女と、末の王子は銀の乙女と結婚するという幸せな結末。
金、銀がでてくると銅がでてきてもおかしくないのですが、この話では白の乙女です。
そして、金よりも銀に重きがおかれているのも興味深いところです。
絵はカラフルでやさしい感じ。毒ヘビもこわくありません。でてくる人物の手の組み方も印象に残りました。
宇治拾遺ものがたり/川端義明/岩波少年文庫/1995年
子どもに語る日本の昔話①/稲田和子 筒井悦子/こぐま社/1995年
語りつぎたい日本の昔話 浦島太郎/小澤俊夫:監修・再話/小峰書店/2011年
昔話は、どこでどう伝えられてきたかはっきりしないものが多いが、「こぶとりじいさん」のルーツは比較的わかりやすいものでしょうか。
平安朝に成立したという「宇治拾遺物語」は、各地につたわった話をまとめているようなので、「こぶとりじいさん」は、それ以前から語りつがれてきたもの。
「子どもに語る」では、こぶが正直なじさにあるのは左。
「語りつぎたい」「宇治拾遺」では、こぶが右。
こぶがどちらにあるかは重要でないとはいえ、どこで入れ替わったのでしょう。
鬼が瘤をとる理由も、いわば担保にとるのと、瘤がいい声をだすからと、微妙なちがい。
鬼の集団も描き方はバラバラ。
「宇治拾遺」では、じいさんが、とても人間らしい描写が続き、その分やや長め。
じいさまが、前後にでかけるものばかりでなく、二人同時にでかける(こぶとり爺 日本昔話百選/稲田和子・稲田浩二・編/三省堂/2003年改訂新版)ものもあります。岩手県の昔話。
また珍しいものでは、鬼ではなくこびとが、こぶをとるというのが高知県のもの(ちゃあちゃんのむかしばなし/中脇初枝・再話 奈路道程・絵/福音館書店/2016年)。
かえるとカレーライス/長 新太:作・絵/福音館書店/1988年
かえるとカレーライスの取り合わせ?と思っていると、山が噴火。
これは大変とおもっていると、流れ出してきたのは、なんとカレーライス。
やまがカレーライスにおおわれ、いい匂いにさそわれたかえるは、どんんどんたべはじめます。、
どんどんたべて・・・。
長新太さんのこんな発想はどこからくるのでしょうか。凡人には理解できません。
えほんのいりぐち、2歳児向けとありますが、もっと大きくても楽しめます。
こどものとも年少版にわとりかあさん/木坂涼・文 高畠 純・絵/福音館書店/2016年
にわとりかあさんが、たまごをあっためて。
まだかしら まだみたい
まだかしら まだみたい
たまごが大きくなって
たまごがだんだん大きくなって
にわとりかあさんは、たまごの上
うまれたのは?
たまごがだんだんおおきくなるのが楽しい。
ひよこちゃん100ぴき。たしかに100ぴきいました。
継子と亡者/いまは昔むかしは今2 天の橋 地の橋/福音館書店/1991年
沖永良部島の昔話の再話。
むかしミークグワーという継子が、母親のいいつけで、穴のあいた徳利をもって、海の汐をくむに海へいくが、途中雨に会って岩穴で雨宿りをしていると、岩穴の奥からなにやら話し声。
ミークグワーが声をかけると「ハイ!」という返事。
「ホイ!」と声ををかけると「だれよ!」と呼びかけてくる。
名前をいうと、顔をだせという。
この世の者ではないと思ったミークグワーは、三人の前に徳利をさしだす。足をだせといわれると、今度は枯れ枝の木の杖をだすと、「たしかにミークグワーにちがいないな。これからわれわれのおともをしれ」といわれ、三人のおともをすることに。
途中、一番怖いものはなにかときくと、三人は真夜中に羽を三度たたいて歌う鳥がこわいという。
やがて三人は、村の病人がいる家にいき、病人の魂をぬきはじめる。まず右の目から、次に左の目から、おしまいに鼻から魂をぬき、ハナカ袋(財布)にいれて帰ります。
ハナカ袋をあずかったミークグワーは、途中桑の木の上で三度たたいて鶏の唄うまねをする。すると三人はかきけすようにいなくなります。
この三人が魂をぬきとったのは、姉さま。
ミークグワーが、姉さまに、三つの魂をいれると、もちろん姉さまはぱっちり目をあけ、やがてこの家の婿におさまります。
途中楽しい歌のかけあいがあり、実の息子がおなじようにでかけると、散々な目に合うというおわりです。
三人は、タイトルからすると亡者。顔を出せといわれて徳利、足をだせといわれると、枯れ枝の木の杖をだあたりは、「屋根がチーズでできた家」を思わせます。
継子がなぜ、母親に穴のあいた徳利をもたせられたのかには、とくにふれられていないので、想像するしかありません。とりたててふれることが必要ないということでしょう。
亡者と継子の会話のかけあいが楽しい話です。
宇治拾遺ものがたり/川端義明/岩波少年文庫/1995年初版
宇治拾遺物語の「鬼に会った修行者」。
荒れ寺に泊まった修行者。夜になると鬼どもがやってきて、お堂が狭いという。そこにいた修行者を見慣れない不動さんがいると思い、鬼は軒下におく。
この荒れ寺は大阪のあたり。
鬼が帰っていくと、修行者がいたところは野のまんなか。馬に乗った人に尋ねるとそこは、佐賀。
修行者がこの不思議な体験を会う人ごとに語る。
「こんなことが、いったい、まあ、あるものでしょうかね」。
不思議な体験を結ぶにはぴったりでしょうか。
わらしべ長者/いまは昔むかしは今2 天の橋 地の橋/福音館書店/1991年
わらしべ長者というと、貧乏な若者が次々に物々交換して長者になるというおなじみの話。
宇治拾遺物語にあるという「わらしべ長者」は、夢をみるという冒頭部から、これまでおなじみの「わらしべ長者」とは、ちがっています。
お寺に居座り続けた貧乏な若侍が、なんであれ手にあたったものを捨てずにもっていくことだと夢の人から追い立てられます。
若侍が、アブをわらしべでしばって歩いていると、興味を持ったかわいい若君から、所望され、アブをつけたわらしべをやると、みかんを三つもらうことに。
高貴のかたが、参詣の途中のどがかわくが、近く水がないのでこまっているので、男がみかんを三つともやると、お礼として、白い上等の布を三疋もらいます。
翌日には、みるみるうちに弱って、いまにも死にそうになる馬とあいます。まったく素晴らしい馬にみえましたが、馬は息を絶えてしまいます。
主人がなんとかしまつしろというのを、男は布一疋で、この馬をもらい受けます。
男が長谷寺の方角にむかって、馬を生き返らせてくれるように祈ると、馬は生き返ります。
男は馬を盗んだと疑われるのを恐れ、売ることにしますが、ちょうど田んぼととりかえるのは、どうだろうかと持ち掛けられます。
もちろんその話をうけた男ですが、田の半分は小作に出し、自家用の米を人に作らせるあたりは、当時の状況が反映されています。
フィンランドの「木のまたアンティ」、グリムの「三本の金の毛のある悪魔」、チェコの「三本の金の髪の毛」などは、おなじシチュエーション。
奄美大島の昔話という「炭焼き五郎の話」も、炭焼き夫婦の赤ん坊の予言からはじまる。
山で狩りをしていた殿さまが、お供の者とはぐれて、泊った先が炭焼き夫婦の小屋。
赤ん坊が生まれたとき、殿さまが、真夜中に聞いたのが、神さまらしい二人の話で、この子が殿さまの世継ぎになるというもの。
殿さまは炭焼きの子を世継ぎにするわけにはいかぬと、貧乏な夫婦から子どもをゆずってもらい、赤子を川に捨てるように家来に命ずる。
ところが家来は、あまりにもかわいそうだと、赤ん坊を筏にのせて川に流す。
この子が子どものいない漁師に助けられ、やがて殿さまの世継ぎになり、この国の殿さまになる。
神さまは「ここの炭焼きの赤子に、わしがイヤンハツ(矢の初)をさしたぞ」という。
「人間はよかれ悪しかれ、矢ん初さされたようになるもんだとさ」というのが結び。
予言された運命どおりになるというのは、いかにも昔話らしいが、日本では、こうしたタイプは珍しい。
外国のものは、もう少し長く、主人公が宿題!をお願いされて旅をすることになる後半につながる。
峠で一人の女にあい、声をかけると、ふりかえった女がのっぺらぼう。慌てて駆け下りてよなきそばやに入って、女のことを話すと、その蕎麦屋ものっぺらぼう。家に帰るとおばあさんまでがのっぺらぼうという話。
のっぺらぼうの対極にあるのが、目だらけの化け物。
山梨の昔話に、この目だらけの化け物がでたという話が、語り伝えられているという。
村のある男が、夜更けに橋のところを通りかかると、一人の女が子どもだいてるのにいきあう。女は男をよびよせて「子どもの足袋のひもがとけてこまるから、すまんけんど結んでおくんねえ」と頼まれ、子どもの着物の裾をひょいとめくると、その子の体中に目がいっぱい。
逃げ帰った男が境内にいた爺さまに声をかけ、目がいっぱいのこどものことを話すと、「目だらけの化け物って、いったいどんなものだね」と、爺さまが聞き直し、男が「とてもこわくて言葉ではいわんねえ」というと、爺さまは急に尻をまくりあげると、その爺さまの体中も目だらけで、その目がギョロっと男をにらんだから、男は腰を抜かし、気絶してしまいます。
化け物と怪物というのは微妙にちがっていて、外国の話で日本に紹介されているものには、化け物という概念がないように思います。
化け物の話があまり聞けないのは、語り手の方のほとんどが女の方というのと、子どもにもなじみがないというのもあるのでしょうか。
妖怪に比べ、化け物は昔風の存在でしょうか。
ぞうのマハギリ/ケシャブ・シャンカール・ピライ・再話 プラク・ビスワス・絵 みやちとしこ・訳/グランまま社/2002年
初版は1965年で、日本で発行されたのが2002年です。インドならではの昔話。
とても大きなゾウの象マハギリは、思い丸太や結婚式では花婿を花嫁の家に運んだり、お祭りでは飾りをつけて行列の先頭にたったりしていました。
ある村で、お祭りで旗を立てる柱を、森から運びだす仕事をマタギリにしてもらおうと、ゾウの持ち主からかりてきます。
森から運んできた柱をいよいよ穴にたてることになりますが、マタハリはゾウ使いにムチで叩かれても、ナイフで首を刺されても、穴に入れません。
苦しさで、マハギリが暴れると、村の人は、みんなちりじりに逃げ出します。
じつは、穴の中には子ネコがいたのです。それを見たマハギリが子ネコを、長い鼻で引っ張り上げます。
このことがあってから、マタギリは村の人達に大事にされ、こどもたちを背中にのせたりして、人気ものになります。
力持ちでやさしいゾウの繊細さがストレートにつたわってきますし、絵もゾウの存在感が抜群です。
木はいいなあ/ジャニス・メイ・ユードリー・作 マーク・シーモント・絵 西園寺 祥子・訳/偕成社/1976年
小さいころ木の上にのぼったことを思い出しました。
都会ではせまい土地に家が密集していて、個人では木をうえることなど思いもよりません。
この時期、落葉樹では落ち葉の掃除がかかせませんが、以前は、燃やすことができた落葉も、ゴミとしてださなければなりません。
1976年と40年以上も前に出版されていますが、地味ながら木のよさを改めて思い出させてくれる絵本です。
縦長で、カラーと白黒のページが交互に繰り返します。
木があって、ブランコができたら最高の遊び。
実がなって木だと最高のおやつ。
夏は木の木陰で涼み、お昼寝も。
嵐がきても、直接の被害を防止してくれます。
木とのつきあいは、長い年月が必要です。
子どもの頃、植えても、恵みを受けるのは何十年後。
長い年月を必要とする木ですから、温暖化を防ぐためにも大事にしたいものです。
引っ越しをきに、梅、柿、リンゴ、ビワ、無花果、桃、みかんなど植えましたが、いずれも10年未満で大きさはいまいち。
ふしぎなのり/安野 光雅・作 遠山啓・監修/福音館書店/1981年
”のり”というのは、くっつけるのりです。
のりにかぎらず、ちがったものがくっついて、ひとつになっているよ!と自分から考えてみてといっているようです。
洋服はファスナーがついて
動くおもゃはキャスターがついて
さらに色と形の組み合わせ
ことばと絵を組み合わせて
横の「にんじん」と縦のもじ「まっくろけの」をくっつけて「まっくろけのにんじん」
ブタと「ぺちゃんこの」をくっつけ「ぺちゃんこのブタ」
月と「まいごになった」をくっつけ「まいごになった月」
などなど、ことばあそびの楽しさも。
紙を三角、四角、三角形に切り取り、その組み合わせで自由に作り出す楽しさもあります。
2016年特製版として発行されています。
ひもほうちょうもつかわない 平野レミの サラダブック/和田唱・和田率 え/福音館書店/かがくのとも(初出1991年)
テレビのパフォーマンスで楽しませていただいている平野レミさんの名前をみて手に取りました。
火も包丁もつかわず、つかう道具といえば型抜きとハサミだけ。
サラダというのがミソでしょうか。
キュウリはまるかじり、マヨネーズや味噌で
レタス、キャベツはちぎって
型抜きで切りるとるのは、ハム、チーズ
ドレッシングもさまざま
わかめをきって、豆腐は手でつぶして
フルーツをいれて
楽しい料理づくりです。
今から27年前に発行された「かがくのとも」です。
絵本に名前をみてびっくり。経歴にはあまり興味がなかったのですが、シャソン歌手でもある平野さん。
お相手は絵本でもおなじみの和田誠さん。絵は、お子さんです。
食育にもいろいろありますが、まずは作って食べることが、第一歩でしょうか。
作ることがちっとも苦にならず、楽しめるというのも大事です。
やぎのブッキラボー3きょうだい/作:ポール・ガルドン 訳:青山 南/小峰書店/2005年
おなじみの「三びきのやぎのがらがらどん」です。
マーシャ・ブラウン・絵 瀬田貞二訳が、あまりにも定着しているので、比較されると分が悪い感じで、損をしているようです。
同じ話でも多数の本や絵本が出版されていますから、このノルウエーの昔話も、もっと多くてでていてもおかしくはないのですが・・・。
しかし、トロルがやぎを食べる場面で「そいつはむりだな わしがおまえを くっちまうからよ」
「おれにかてるか!」「やっときたか、くってやる!」など、軽妙なやりとりもあって捨てがたい魅力もあります。
ブッキラボーという名前も、なにかやぎの性格もしめしているようです。
絵のタッチもマーシャ・ブラウンとにていますが、トロルが落ちる川のなかに、びっくりしているなまずがいるのも愛嬌があります。
いつもは、同じものがあると、部分的なフレーズを借用することが多いのですが、少し変えてしまうと聞き手のイメージを損ないそうなので、やっぱり手はだせそうもありません。