いま住んでいる家の庭には、スズメ、カラス、ハト、セキレイ、ヒヨドリ、ムクドリ、そして夏にはツバメの姿もみられます。
2年前までは、都内に住んでいましたが、シジュウカラ、メジロ、オナガなども見ることができました。
自然環境は今のほうが恵まれていると思いますが、それにしては今のほうが目につく種類が少ないのも面白いことです。
都内では、ツバメは空中を飛んでいるところしかみたことがありませんでしたが、今のところに引っ越してきて、はじめて地面に降りているツバメをみたことも。
ところで、宮沢賢治の童話にでてくる鳥を手持ちの本のなかからあげると次のような例があります。
「よだかの星」--------(よだか、ひばり、かわせみ、はちすずめ、たか)
「からすの北斗七星」-----(からす)
「毒もみの好きな署長さん」ーー(もず)
「虔十公園林」--------(ひばり)
「貝の火」----------(ひばり、すずめ、かけす、うぐいす、ふくろう)
「鳥をとるやなぎ」------(もず)
「北守将軍と三人兄弟の医者」ー(がん)
「車」------------(すずめ)
「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」ーー(ひばり、とき)
「チュウーリップの幻術」ーーー(ひばり)
「十力の金剛石」-------(はちすずめ)
上記はいずれも岩崎書店/フォア文庫/のなかの「よだかの星」、「オツベルと象」、「注文の多い料理店」、「風の又三郎」から
でもまだまだありますね
「銀河鉄道の夜」-------(つる、さぎ、がん)
「グスコーブドリの伝記」ーーー(やまばと)
「セロ弾きのゴーシュ」----(かっこう)
「風の又三郎」--------(たか)
「土神と狐」---------(かっこう、もず、めじろ、たか)
宮沢賢治の作品にでてくる鳥をひろってみたのは、<宮沢賢治 鳥の世界/国松俊英著・薮内正幸絵/小学館/1996年初版>を読んだのがきっかけ。
著者の書かれたものだけではなく、自分で読んで確認してみました。
「十力の金剛石」にでてくるハチドリは日本に生息していない鳥ということ。
著者は、それでは賢治はどうしてハチドリを知ったかということをたどり、現在の国立博物館の標本にたどりつきます。
はじめて標本のハチドリに出会った賢治が美しい色彩の羽がきらきら輝いている鳥に感動する様子を想像した著者の思いが伝わってきます。
フクロウでは、花巻農学校の教師をしていたとき、教え子がフクロウをみたと聞いた賢治が、教え子に場所を案内してもらい、そこに行くが、そこでは見ることができなくて、その後、56回にわたってそこにでかけ、とうとう目的を達したという手紙を紹介しています。
夜中の2時にも出かけて行ったという賢治が、漆黒の闇のなかでじっとうずくまっていた様子も浮かんできます。
<宮沢賢治 鳥の世界>には、カッコウ、ヒバリ、ムクドリ、トキ、ガン、ライチョウのほか「銀河鉄道の夜」に出てくる鳥たちにもふれられており、鳥のことだけでも宮沢賢治の世界が大きく広がり、読む楽しさも深まります。
鳴いてはねるひばり/子どもに語るグリムの昔話1/佐々梨代・野村ひろし・訳/こぐま社/1990年初版
ひばりのほか、鳩、怪鳥グライフ?がでてきます。題名からはあまりイメージできませんが、重層的な内容の話。
三人の娘におみやげを買うことにした男が、末の娘からは鳴いてはねるひばりをたのまれるが、ひばりの代償にライオンのところに娘をやることに。
このライオン、魔法をかけられた王子で、夜だけ人間の姿になります。結婚したふたりは、昼と夜が逆転した生活をおくりますが、姉の結婚式に出席したときに、光が王子にあたって、鳩になり、七年間とびまわることになります。
七年後、太陽、月、風にたすけられ王子を救うことになる末娘が、こんどは龍だった王女に王子をさらわれて、王女から王子をとりもどすまでの長い道のり。
王子は、ライオンにかえられたり、鳩になったり、王女にさらわれたりと忙しい。末娘はなんども見捨てられることになるが、あきらめず王子をとりもどすことになる。
山場が何度もあらわれて、話すことができたら楽しいだろうなと思わせる。
30分はかかりそうですが、こんな長い?ものでも、短期間に覚える方もいらっしゃるようで、なにかコツがあるのでしょうか。
はじめのことばを置き換えてみると語ることにも同じことがいえそうです。(訳はネットから)
芸事や稽古事を始めようとする人で「下手なうちは人に隠しておこう。こっそりと稽古をして、うまくなってから人前に出て披露するのが恥をかかなくていい」などと言う人がよくいるが、こんなことを言う人はけっしてどんな芸も身につけることは出来ないものだ。
むしろ、まだ下手なうちからうまい人の中に混じって、まわりからけなされたり笑われたりしても、それを恥とはせずに、平気で受け流すようにしないといけない。そうして、怠けず自己流にならずに、長年の間稽古に励んでいるなら、たとえ生まれつきの才能がなくても、才能があるのに怠けている人よりも早く上達できるものだ。そして、そういう人が最後には能力を飛躍的に伸ばして、誰もが認める第一人者となるのである。
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江戸の子どもの絵本/叢の会編/2019年
江戸時代中期頃の上方絵本と江戸で出版された草又紙から、桃太郎、かちかち山(兎大手柄)、金太郎(きんときおさなだち)、寺子短歌の四編が、木版刷りの絵とともに紹介されています。
「桃太郎」(桃がながれてくる場面) 水の流れと人の果報は、さりとは知れぬものじゃ
(犬、猿がおともする場面) 猿:さるとは難所(鬼と対面する場面) 犬:をらが旦那の腕にどうして勝つことはなるまい
「きんときおさなだち(金太郎)」
(熊とちからくらべ) なんと、熊どの、力はもふそれきりか。精出して引け引け
「桃太郎」「きんときおさなだち(金太郎)」は、講談調でしょうか。
「寺子短歌」は、人生訓のようでもあり、笑い話風でもありました。
巖谷小波の「桃太郎」、浜田広介の「かちかち山」も資料として収録されています。
オットー 戦火をくぐったテディベア/トミー・ウンゲラー・作 鏡哲生・訳/評論社/2004年初版
何回か読み直すとそのたびに味がでてくる大人の絵本です。
ユダヤ人のデビットの誕生日プレゼントとしておくられたくまのぬいぐるみがデビットとその両親が強制収容所に送られるのを目撃。
デビットと仲良しだったオットーの父が軍隊に召集され前線へ。戦争の中でアメリカ兵にひろわれたオットーが兵隊を銃弾から救います。
戦争がおわって平和な生活にもどったオットーは、不良少年のグループに引きちぎられ、片目にされゴミ箱へ。
骨董屋の店先に並べられたオットーが何年もたってから再会したのがオットー。
やがてデビットとも再会し三人で平凡だけれど平和な人生をおくります。
平和ということを淡々と語ってくれる。
こりない政治家が戦争への道を走り出そうとする今、多くの人に読んでほしい一冊。
わたしのワンピース/にしまきかやこ:文・絵/こぐま社/1969年初版
息のながい絵本。手元にあるのは1998年発行のものですが、この時点で104刷発行されています。現在でも人気のようです。
まっしろなきれがそらからおちてきて、ワンピースをつくったうさぎさんが、散歩にでかけます。
お花畑を散歩すると、花模様のワンピースに。
雨がふったあとのワンピースは、水玉模様。
小鳥が草の実を食べに来ると、ワンピースは小鳥の模様。
にあうかしらときくと、にあうにあう の声。
三角形のワンピースが、とってもチャーミングです。
・やせたメンドリ(子どもに語るイタリアの昔話/剣持弘子訳・再話 平田美恵子再話協力/こぐま社/2003年初版)
山に太るために出かけたメンドリが行く途中でキツネにあい、食べられそうになりますが、夏のあいだにたまごを生んで生まれた子ども大勢つれてかえることを約束します。
十二のひなをつれて帰る途中、粟の穂をひなにくわえさせますが、一番ちいさいひなだけは粟をくわえることができません。しかし粟の穂をとちゅうで食べたキツネのしっぽと言って、一番小さなひなは、であったキツネをたべるためにあけてあるというと、キツネが逃げ出すという話。
・ひょうたんが行く(子どもに語るアジアの昔話2/松岡享子訳/こぐま社/1997年第3刷)
ネパールの昔話で「やせたメンドリ」と同じような話ですが、もう少し複雑な構成になっています。
嫁に行った娘にあうためにでかけた女が途中、キツネ、トラ,サルに食べられそうになりますが、ふとって味がよくなって帰ると約束します。
娘のところから帰る途中にキツネ、トラ,サルにであうが、ひょうたんをうまく利用してこの危機を脱します。
国が異なっても同じような話は、かならずしもどこかの国の話が伝わっていくということではなさそうである。
これまで読んだ本ではネパールの昔話をまとめたものにはであっていない。英語などに翻訳されていれば、目にする機会も増えると思うが、ネパール語からの直接翻訳となるとさまざまな制約がありそうである。
おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん/長谷川義史/BL出版/2000年初版
長いタイトルが示すように5歳の子が自分のルーツをたどっていきます。
石器時代から最後は猿まで。ほぼ2頭身の子とネコの組み合わせがかわいらしい。
時代をさかのぼるに、”ひい””ひい””ひい”が続くので読み聞かせは大変で多分途中で息切れしそう。
書いたのなら数えられるだろうと数え始めましたが、500回を超えるところでギブアップでした。
世界では20%の人が栄養が十分ではなく、1%の人が死にそうで、17%の人はきれいで安全な水を飲めないという(「世界がもし100人の村だったら」/池田香代子再話 C.ダグラス・スミス対訳/マガジンハウス)。
世界中の子どもたちが絵本を楽しめる状況になってほしいと思いますが、それは、われわれ大人の責任。