語りつぐ人びと アフリカの民話/守野庸雄 中島久・訳/福音館文庫/2004年初版
スワヒリというとケニアの話でしょうか。
アフリカの昔話にでてくる名前は、同じようですんなりとはいかないようです。
プワグとプワグジの二人連れは文無しでおなかをすかせていました、
この二人が木陰で昼寝をしている人に目がとまります。そばにはロバが。
プワグはロバを盗んで市場にいきます。
のこったプワグジは、ロバの代わりに綱をくくりつけておきます。
ロバの持ち主が目をさますと、ロバをつないでおいた綱には人間が。
プワグジは、おふくろがかんかんになってロバになるように呪いをかけられ、やっとおふくろの怒りがとけて、もとの人間になったとわけを話します。
綱をといてもらったプワグジは、市場にでかけ、プワグとロバを売ったお金をわけあいます。
何日かたって、ロバの持ち主が市場に行ってみると、自分のロバをみつけます。ロバには印をつけておいたのです。
ロバの持ち主は、ロバの耳元でささやきます。
「おい。おまえ、またおふくろさんを怒らせてしまったな。だが今日は一文でいいといわれても、お前を買い取ってやんねぇからそう思え」
おれおれ詐欺で、大金をだしてしまった話がよくありますが、電話などがあったとき、冷静に対応できるか心配なところもあります。
昔から、騙しのテクニックはつきないようです。
子どもに贈る昔ばなし1/再話・沖縄昔ばなし大学再話コース 小澤俊夫・編・監修/小澤昔ばなし研究所
沖縄昔ばなし大学再話コースといいますから、沖縄の話がベースになっているようですが、舞台は唐です。
唐の王さまが病気になり、金持ちの医者があつまってきても、みとおしをたてることもできず、直せる見込みもありません。
貧乏な医者はあいてにされませんでしたが、家臣のすすめで、王さまの脈をとってみると、人のきもを飲ませないとわかります。
貧乏な医者が、どうしようと頭をかかえて横になっていると、妹がそのようすをみて、医者にたずねます。
医者がこれまでのいきさつを話すと、妹は医者の留守のとき、「自分のきもをとって、王さまの病気をなおすように」と書置きをのこして、みずから命をたってしまいます。
医者は妹のきもから薬をつくって、王さまの病気を直しますが・・・。
王さまが事情をしって、妹を城内に手厚くほうむると、ほうむったところから木がはえてきます。
お茶の葉のようだと家臣が葉をつんで、乾燥させてからもみ、茶碗にいれて王さまにさしあげると「これはこれは。これほどのお茶はめったにないだろう」とほめます。
ここから最初にお茶を飲むときは、茶碗をささげて飲むようになったという。
兄思いの妹といえば、とおりがいいのですが、なぜそこまでしたのかは一切でてきません。
でてくるのは兄と妹だけ。親もでてきません。
舞台が唐になっているのは、人のきもをつかうというのでクッションをおいたのでしょうか。
ノアのはこ船/ピーター・スピア・絵 松川真弓・訳/評論社/1986年初版
今、コスモスの見ごろ。何もしないのですが種が落ちて毎年咲いて楽しませてくれます。
ところで、誰もが知っている?「ノアの方舟」がどう描かれているのかと思って借りてきました。
文は一ページのみ。
あとは全部絵ですから、想像するだけ。
船に乗れない動物たちは、洪水に沈んでいきます。
荒れ狂う海。
波間にだたよう方舟。
船の中の細かな描写。
やがて、岩に乗り上げた船。
喜んで船をおりるいきいきした動物たち。
動物たちが全部いなくなった船のなかは雑然としています。
想像力を働かせないと読み解くことは難しそうです。
しかし、動物を探す楽しみもあります。
だいすき、でも、でもね/二宮由紀子・作 市井美香・絵/文研出版/2012年初版
人生片思いの連続。
好きと思っても、その人はだれかを。
こんな仕事をしてみたいおもっても実現しない。
何かをやってみたいと思っても、うまくいかず。
まいちゃんは、こねこのバニラがだいすき。
でも、こねこは、つよく抱きしめるまいちゃんより、青いクッションがだいすき。
青いクッションは、べたべたよだれをたらすこねこより、こねこの毛をすいとってくれる、掃除機がだいすき。
掃除機は、毛だらけの青いクッションより、清潔な廊下の床がだいすき。
・・・・・・
ゴキブリがでてくるのは愛嬌。
クレヨン風の絵にあたたかみがあります。
どもに贈る昔ばなし14/再話・昔ばなし大学再話研究会 小澤俊夫・編・監修/小澤昔ばなし研究所
お母さんと二人暮らしの太郎。
母親は、太郎の誕生日にあんころもちを三つつくってあげます。
太郎が三つ目のあんころもちを食べようとすると、あんころもちは、ころころころがって山の中の穴に。
太郎が追いかけてゆくと穴の中には鬼が。
あんころもちは鬼の大将が食べて、うまかったので太郎に作り方を聞きます。
鬼どもが大将の口もとについていたあんこをとって、大きなすりこ木のさきっぽにつけて、するばちでくるくるすると、あんこがむくむくいっぱいでてきます。
おなかがいっぱいになった鬼のすきをみて、逃げかけたところで、太郎は、すりこ木をもっていこうと思い、すりこ木を持ち出します。
家に帰った太郎が、すりこ木で米びつをくるくるかきまわすと、米びつはお米でいっぱいになります。
すりこ木をくるくるまわすと、食べものがどんどんでてくるという楽しい話。
あんころもちを作ったり、太郎が鬼から逃げ出す場面もリズミカルです。
最後、母親は、奇跡のすりこ木を殿様に届け、殿様は正直さに感心し、一生食べても困らない米を二人にあげるのですが、最後はなくてもよさそうです・・・。
ハイリブの石 モンゴル民話集/松田忠徳・訳/富士書院/1988年初版
10月でも夜になるとマイナス30度までさがることもあるという厳しい風土のなか、凍てつく冬の夜長をゲルのなかで、ウリゲルチやトーリツとよばれる民話や叙事詩の語り手に耳を傾ける風景がうかんできそうな話。
聞き手の側も、語り手と一体化し、区切りのたびに「オーハイ(なるほど)」とか「ザー(それで)」と会いづつをうつさまがつたわってきます。
あるときトラの子がウシの子にであい、一緒にくらすことに。
トラの子は小さな鈴をひろい、だれかがウシの子をだまそうとしたら、鈴をならすようにいいます。
トラが鈴の音をききつけて、ウシの子のところにいってみると、アオバエがとまったのでとウシの子がいいます。
また鈴の音がきこえたので、トラの子がいってみると、ウシの子はあつかったので、頭をふっただけといいます。
なにやらイソップの話を思い浮かべる出だし。
また鈴の音がきこえますが、トラの子が相当の時間をおいてからウシの子のところにいってみる、ウシの子は骨になっていました。
嘆き悲しんだトラの子は、それからなにもたべずに、ともだちのそばで死ぬことに。
「ザー(それで)」と合づちがでそうなところ。
トラの子とウシの子が死んだ墓の上には,二本のよくしげった木がはえます。
やがて、太陽がのぼりはじめると、木の葉の茂みの中から二人の男の子がとびおり、草の上であそびはじめます。
羊をおってきた遊牧民が、木の葉から地面にとびおりる男の子をみかけ、ふしぎなこともあるものだと話あいます。
この話が、妻から子、となりの家、さらにとなりの家とうわさが広がり、二人の子は王さまのところにつれていかれることになります。
「ザー(それで)」
アルタン・クとムングン・クと名前がつけられた二人は、王さまのそばで、家畜の世話をつづけます。
10年たって、りっぱなわかものに成長したふたりでしたがアルタン・クは、戦にでかけ、ムングン・クは、東方のハルガイルド王国の10番目の娘をさらってくるようにめいじられます。
ムングン・クが旅しているとき、羊の世話をしている老人にであい、杖をてにいれます。
馬をなくして難儀している老人に、お金をあげると、この老人からは羊の骨を。
住むところもない老人にお金をあげると、消し炭をてにいれます。
やがてたどりついたハルガイルドで、美しい娘をみつけますが、オユンというむすめは、王さまより、ムングン・クと暮らしたいと言います。
「ザー(それで)」
やがてハルガイルドの兵士から逃れた二人でしたが、こんどはムングン・クの王さまの役人におわれることになります。そしてムングン・クは、王さまの兵士に殺されてしまいます。
「ザー(それで)」がまだまだ続く話です。短い話では合づつは難しい。
モンゴルにかぎらず、外国にはながい話が多いように思いますが、日本では、それほど長い話がないようです。こうした違いはどこからきているのでしょうか。
久し振りの芝居で、3時間を超えるのは最近ではめずらしい。
宝暦に郡上でおこった年貢の検見取りに反対する農民の一揆。
江戸時代の飢饉をしらべてみると、4大飢饉というのがありました。
寛永の大飢饉(寛永19年(1642年)-寛永20年(1643年))
全国(特に東日本日本海側の被害が大)
全国的な異常気象(大雨、洪水、旱魃、霜、虫害)
享保の大飢饉(享保17年(1732年))
中国・四国・九州地方の西日本各地、特に瀬戸内海沿岸
冷夏と虫害
天明の大飢饉(天明2年(1782年)-天明7年(1787年))
全国(特に東北地方)
浅間山、アイスランドのラキ火山等の噴火とエルニーニョ現象による冷害
天保の大飢饉(天保4年(1833年)-天保10年(1839年))
全国(特に東北、陸奥国・出羽国)
大雨、洪水と、それに伴う冷夏(稲刈りの時期に雪が降ったという記録がある)
郡上一揆は飢饉が直接の引き金になったわけではないのですが、調べてみると興味深いことばかり。
舞台をみていると、どうしても語りについてのいろいろ思いがめぐることになります。
ストーリーテリングはほとんどがボランテアで行われ、芝居と比較するのは無理があるのですが、役者は発声から舞踊などを専門的に長い期間をかけて築き上げます。
30m後方の一番遠くの席からみていても、役者さんの声ははっきりときこえてきます。
腹式呼吸のせいでしょうか。
芝居をつくりあげる過程では、演出家と役者のやりとり、大道具や小道具、照明、音楽など専門家の参画があって集団的に練り上げられていきます。
これと比較すると、語りは集団的に練り上げられているでしょうか。
一つの話について、さまざまな角度から分析されているでしょうか。
個人を主としても、なにかもっと補うことが考えられてもよさそうです。
はりねずみのルーチカ/かんのゆうこ・文 北見葉胡・絵/講談社/2015年初版
どうぶつやようせいやふしぎないきものたちが暮らすフェリエの国。
この森にすむはりねずみのルーチカはもぐらのソルや、妖精のノッコたちと仲良しです。
ある日三人は、ジャムにするために赤すぐりの実を取りに森へ出かけますが、「そらうお」が、あめをつれてきて雨がふりだします。
三人が森をぬけると、そこにはルビーのように輝く赤すぐりが。
赤すぐりをもって、小川にそってあるいていると、てんとうむしのニコが流されてきます。
ニコを助けてくれたのは、ひとりの小さな少年、
どこからきたのと聞いても少年はうつむいたまま。
ルーチカは、少年をかんげいするパーテーをみんなに提案します。
やがてみんなで、ケーキや料理をつくると、部屋には、おいしそうなにおいが・・。
少年は笛をふいて
楽しいパーテイが夜通しつづきます。
魚が雨をつれてきたり、きのこのような花がさいていたり、ねずみ?が読書したりと不思議な森です。
見知らぬ少年を気持ちよく歓迎し、みんなで仲良くパーテイーの準備。大事件がおきるわけではありませんが、ほっこりしたやさしさがある絵本です。
いたずらは愛、いたずらは夢、いたずらは永遠 やりだしたらもう、やめられない
まちがいは自由、さかだちは自由、しらんぷりは自由
なぞなぞがあり、おまじないがあり、不思議な学校が。
(前がき この本は から)
深遠なことでくだらないことをいうひとたちのために
夜、よその家の玄関のベルをならすひとたちのために
積木あそびだの 原子核あそびをしている
おしゃべ屋さんや じょうだんずきのひとたちのために
そして顔にちょっと 笑みがうかべさえしたり
それでまんぞくな ひとのために
おもわずにこっとしてしまう短い文。
わんぱく学校も楽しい。
ありがとう、すみませんは ぜったいいってはいけません
ごはんのときは ぺちゃくちゃしゃべり
くちゃくちゃ音をたてて たべなさい
顔も 首も耳もよおく 毛穴のなかまで まっくろにしなくちゃいけません
みずをしゅっしゅっ どろをぴしゃぴしゃ しみをぺたぺた ばしゃばしゃ
ちらかしたものは かたずけないこと なにもかも めちゃくちゃなとこに なげなさい
ひとをいらいらさせること
いかりくるって じだんだふんだり ぶうぶういったり きいきいったり
ののしったり ちからまかせにたたいたり
旅すると一万日かかる とおいとおい フーレ・ズーレ国に わんぱっく子を そだてる学校がある。
いちばんの やんちゃ坊主が 先生にほめられる。
子どもに贈る昔ばなし14/再話・昔ばなし大学再話研究会 小澤俊夫・編・監修/小澤昔ばなし研究所
副題に、幼い子のための昔ばなしとあります。
したがって、それほど長い話ではないのですが、最後のオチがきいています。
かえるとへびとむかでがお寺参りをして、話をしているうちに、寄り合いをしようということになりました。ごはんだけではさびしいので、お酒を一杯ということになって誰かが酒屋にいって酒をかってくることになりました。
かえるは「わしは、ひとあしひとあしとびあがらないと帰ってこられない。ぴょんぴょんはねているうちに、酒瓶をおとして割るかもしれない。せっかく買ってきた酒をこぼしてしまうかもしれないので、行けない」とことわります。
へびは「わしはまっすぐな道でもあっちこっちに曲がり、こっちに曲がりまっすぐ行くことができない。にょろにょろしないといけないから、時間が倍かかる。日が暮れてしまって、寄り合いどころではなくなるから、かんべんしてくれ」とことわります。
そこで、こんどはむかでのばんなのですが、かえるとへびがいくらまっても、むかでは帰ってきません。
だいぶたってから、「どっこいしょ」という声がしたので、かえるとへびは玄関にでてみます。
ところが、一升瓶はからっぽです。
なぜかというと・・・・。
むかでは、百本の足にぞうりをはくのに、時間をとられ、これからでかけるところだったのです。
むかでが、ぞうりをはくかどうかは問題ではありません。このあたりが昔ばなしでしょうか。
ハイリブの石 モンゴル民話集/松田忠徳・訳/富士書院/1988年初版
相撲をテーマにした「ねずみのすもう」は、掛け声が楽しくいつも楽しめる昔話ですが、相撲がでてくるのは意外にすくないようです。
モンゴル相撲の話が、この「バリーンのりきし」です。
モンゴルバリーン地方のひつじつかいのおばあさんのひとり息子。
小さいころから大の相撲好きで、ひとりで相撲をして遊んでいた息子は、やがてお祭りのとき腕比べの大会で優勝をし、バリーンのりきしとよなれるようになります。
このバリーンの力士は三年続けて優勝するのですが、ウジュムチンのとのさまのの50歳の誕生日のおいわいに派遣され、なにがなんでも相撲大会で優勝するよう厳命されます。
ウジュムチンのとのさまは、大分汚い手をつかいますが、バリーンの力士はここでも優勝します。
ウジュムチンのとのさまは、さらに難題をだします。
けたはずれに大きな赤い猛牛をつれてこいというのですが・・・
ここもなんとか切り抜けたバリーンのりきしでしたが、今度は二頭ののらくだが突進してきます。
ここもきりぬけるのですが、ウジュムチンのとのさまは、百人の鉄砲隊をだして、バリーンのりきしをうちころしてしまいます。
一方、バリーンのとのさまは、おかかえりきしが、殺されたことをしっても、たかがひつじついかいひとりぐらいで、ウジュムチンのとのさまとけんかするのはわりにあわないと、うやむやに。
権力者の面子のためだけに利用された少し悲しい話です。しかしモンゴルの草原に、今も語りつたえられているのは、こうした権力者への批判が横たわっているようです。
モンゴル相撲は、土俵の俵がなく、ひじから先とひざから下は地面についても良いといいます。
試合時間も長く、専用のシャツを着て行うようです。
この話の中に、手の甲につけるチョトゲ、かわぐつがでてきます。
手が地面についてもいいため、はたきを気にしなくてもよい、突っ張りはないというのも特徴のようです。
日本の相撲が国際化するのはうれしいのですが、ひさしく日本人力士の優勝がないというのはさびしいところ。
国技というのにとらわれず、いっそもっと国際化して全世界にひろめたらとも思う。
はこぶ/鎌田歩・作絵/教育画劇/2014年初版
「はこぶ」をテーマに古代から現代まで。
はじめは手をつかって、その次には道具をつかって
やがて馬や牛
車が登場し、このくるまも木から、鉄
動力も使うようになって、車の登場
移動のために道やトンネルをつくって
飛行機が空を飛び、海ではコンテナ船が
最後は宇宙ステーションに荷物をはこびます。
トンネルをほるところに、恐竜がさりげなくかかれているのですが、この恐竜はどうなったのかきになりました。
便利になることは、なにかも失われていくのかも・・・・。
ぞうがでてきたり、たんぽぽの種がとんでいたりもします。
でも、どうして運んだか謎のものもありますね。
古代の人が大きな石をどうやって運んだのでしょうか。
子どもに贈る昔ばなし14/再話・昔ばなし大学再話研究会 小澤俊夫・編・監修/小澤昔ばなし研究所
貸し便所という商売を考えた持念さん。
8月の八幡さまのお祭りに人が集まることを見越して、小屋を建て、一回三文の立札。
ところがそれをみた町の人が、もっとりっぱな便所をつくったので、人は立派な便所の方へいって、持念さんの便所はだれもきません。
持念さん、三文の銭をもってどこかにいなくなります。
すると、いつのまにか持念さんの便所はのとのとのとと人がやってくるようになります。
持念さんの女房がいそがしく銭とりをしていると、持念さんがぱっかりぱっかり帰ってきます。
なんと持念さんが、立派な便所にずっと入っていたので、人の流れがかわったのでした。
”のとのとのと”とか”ぱっかりぱっかり”は山形弁なのでしょうか。
落語のような話です。
ハイリブの石 モンゴル民話集/松田忠徳・訳/富士書院/1988年初版
大金持ちと働くことは村一番で倹約家の貧乏人。
二人を結ぶのは、大金持ちのところで長く働きながら、ご飯をこげつかせてしまい追い出されたホルチャ。
米や粟、麦、豆のはいった袋が、大金持ちの家から空を飛んで、貧乏な男の家に引っ越しする?という楽しい話です。
自分以外のものにはケチな大金持ちが、だんだん貧乏になるという結末。
はじめ読んだときは、どんな展開になるか想像できませんでしたが、結末は簡単で、ちょっぴり皮肉をまじえています。
シンプルですが、話の筋が明確です。
モンゴルというとゲルを思い浮かべますが、ゲルの中で語られているのを想像すると、なにかほんわかします。
このあしだあれ?/ネイチャー&サイエンス・編/河出書房新社/2015年初版
動物園にいっても、動物の足をみることがでませんが、実物大の足裏に興味津々。
ゾウの足に驚いて、芸術的なヤモリの足裏は色もカラフル。
寒さをものともしないユキウサギやシロクマの足裏は、毛がいっぱいで寒さにも耐えられるようにできているんですね、
ダチョウの足は二本指。
とにかくすごいの一言。
写真絵本のさまざな切り口にあらためて、乾杯でしょうか。