どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

ガチョウ番のむすめ・・グリム

2024年11月07日 | 昔話あれこれ

 グリムの「ガチョウ番のむすめ」は、
 ある国の王女が、おつきの女性とふたりで、遠い国へ嫁ぎにいきます。が、途中でおつきの女性が、王女になりすましたので、王子から花嫁として迎えられ、一方、王女はガチョウ番として雇われます。
 王女は、真実を告げることができませんでしたが、やがて、国王の機転で、真実が明かになり、無事王子と結ばれるというややながめの話。

 

 ところで、あるお話会で、お輿入れの王女と同行する女性を”腰元”として話されていました。

 腰元というのはいかにも日本的。調べてみると、侍女や女官と訳されているものがあり、このほうが一般的ですが、語りやすさ、わかりやすさを考慮しで”腰元”と訳されたのでしょうか。

 グリムの場合は多くの翻訳本があり、文章も比較しやすいで、一つのテキストにこだわらなくてもよさそうです。

 タイトルも、「ガチョウ番の少女」としているものがありましたが、”むすめ”と”少女”も悩ましい表現です。


五つのちっちゃなカボチャちょうちん

2024年08月24日 | 昔話あれこれ

   三分間で語れるお話/地球をぐるっと77編/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳 出久根育・画/編書房/2005年

 

35秒ほどの指を使ったお話。

五つのちっちゃなカボチャちょうちん、木戸の上に座っていた。

一番目が言った。「暗くなってきた」

二番目が言った。「魔女たちがとんでいる」

三番目が言った。「かんけいない」

四番目が言った。「面白いことをしよう」

五番目が言った。「かけっこ、かけっこ、かけっこ」

ヒューと、風吹いた。

火がパッと消えた。

五つのちっちゃなカボチャちょうちん、ころげて消えちゃった。

 

文章ではなんとも味気ないのですが、指を使って、聞き手の反応をみながら、ゆっくり話したい。

火が消えたところで、ぱんと手を打つのがみそ。


泥棒と泥棒の名人・・インド

2024年08月18日 | 昔話あれこれ

   三分間で語れるお話/地球をぐるっと77編/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳 出久根育・画/編書房/2005年

 

 小話風の昔話。

 やせていて、うでっぷしは強くはないが、名人級の泥棒と、たくましいが、ただの泥棒のふたり。

 名人の泥棒は金持ちの家に忍び込み、一万ルピーを盗みました。ただの泥棒は、名人から盗もうと、名人が寝てしまうとポケットをさぐりますが、お金は一ルピーもみつかりませんでした。

 つぎの日も、名人はポケットを膨らませ、かえってきました。ただの泥棒は、名人の持ち物を隅々まで探りましたが、何も見つかりません。部屋の割れ目にも、屋根の裏にもお金は見つかりません。

 朝になると泥棒は、お金の隠し場所を知りたくて、思わず名人にたずねます。「泥棒の名人、あなたはお金を夜どこにかくしたのですか?」

 名人は、「泥棒には、手際のよさが必要なのだ。おまえさんがわしから盗もう押していたのは知っていた。それで、おまえさんが決して探そうとしないところに、金を隠したのさ」

 

 ここから、聞き手にどこにお金をかくしたのか考えさせるという話。

 少し長めのお話しのとちゅうに、こんな小話を はさんでいきたいもの。


芋虫のハーマン その① アメリカのキャンプ話

2024年08月13日 | 昔話あれこれ

   三分間で語れるお話/地球をぐるっと77編/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳 出久根育・画/編書房/2005年

 

お話し会で先輩の方が話してくれた楽しいお話。

両手を後ろに回して、前に出てくるたびに大きさが変わります。

これぐらいの大きさが、これぐらいの大きさになって・・。

「兄ちゃんを食っちまったんだ」

「姉ちゃんを食っちまったんだ」

「父ちゃんを食っちまったんだ」

「母ちゃんも食っちまったんだ」

なんてひどいことをしたんだ! と いわれると 答えは

「だって!おいらは芋虫だもの」

どうなる? 

はじめの おおきさの両手で

「家族みんなでおいらの腹ん中で暴れて 暴れて、どんどん暴れて・・ おいらやっちまったんだ、ゲップって」


くらーいくらーい家・・・アメリカ

2024年08月08日 | 昔話あれこれ

   五分間で語れるお話/もっときかせて!短いお話48編/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳/編書房/2009年

 

手や指を使って、ゆっくりと話る話。

くらーいくらーい家がありました。

そのくらーいくらい家の中に

くらーいくらい部屋がありました

そのくらーいくらい部屋の中に、くらーいくらい戸棚がありました

そのくらーいくらい戸棚の中に

くらーいくらい箱がありました

そのくらーいくらい箱の中に・・・

箱の中に入っていたのは?

 

(このあとは 自由に・・と)

小さい子に いろいろ 想像してもらう楽しみが ありそうです。


昔話のジェンダー

2024年06月29日 | 昔話あれこれ

 昔話のパターンも様々で、ひとくくりできませんが、人間が出てくるものでは、主人公は、どうしても男性が主人公のものが多い。

 もちろん女性が活躍するものもおおく、美しく賢い少女が 敵役を手玉に取るのは爽快。ただ若いというのが曲者で、今のイメージでいえば、おばあさんを別にすれば、20代以上というのはあまり例を見ない。

 外国のものでいえば、美しいというのも、女性は美しくなければという考えが見え隠れする。日本のものでは、「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがいました」とはじまって、それが当たり前とおもっていて、なぜ おばあさんが はじめにこないか 疑問がわく。そして働きに行くのがおじいさんで、おばあさんは川に洗濯に行くとなれば、性別役割分業が入り込む。

 ただ、もとは男性が主人公の昔話を、女性にかえた語りを聞く機会があったが、主人公が女性にかわっても違和感がないというのも面白い。昔話の成立期は、その時点の社会情勢が反映されていると思えば、ジェンダーフリーのご時世では、主人公が女性であってもおかしくない。昔話は、時代が変わっても柔軟に対応できるようになっているのかもしれない。

 いま昔話といっているものも、昔の原型がそのまま残っているかというと、昔話集として編集する過程で、方言が共通語におきかわったり、なんらかの要素がつけくわえられたりしている。最近面白いと思ったのは、絵本「エリック・カールのグリムどうわ」の「3本の金いろのひげ」。グリムでは「三本の毛のある悪魔」のタイトルが普通ですが、主人公が男から女に、髪をひげとして再話されています。女性といえば、どちらかというと、受け身な存在なのが、男女を逆転することで、いきいきとした”むすめ”になっていました。(18歳で女王になるという予言からはじまる)。


ソロモンのごとく

2022年06月13日 | 昔話あれこれ

       チベットの昔話/アルバート・L・シェルトン 西村正身・訳/青土社/2021年

 

 育ての母と実の母が、子どもの手を引きあい、どちらの本当の母なのか決める話は、日本でも大岡裁きの例がある。

 たいていは育ての親に旗が上がるが、この話では、ほんとうの母親が、息子を愛し、傷つけたりしては大変と、激しく引っ張らなかったので、王さまの裁定で、子どもは実の母親のもとへ。ただ、この話では、いきなり手をひっぱりあう場面になるので、子どもがどんなふうな状態におかれていたのかが不明である。

 このシチュエーションは、日本の昔話にもでてくる。

 古代イスラエルの名君ソロモンが2人の母親の子争いを裁くのも興味深い。ソロモン王の裁定は、剣で子どもを2つに裂いて、半分ずつ2人の女にわたしてやれというもの。
 一方の女は、ぜひとも半分ずつにしてほしい、という。他方の女は、それならば生きたまま相手の女にわたしてやってほしい、という。
 ここでソロモンの判定は、「この子を殺してはならない。生かしたまま他方の女に与えよ。その女がこの子の母である」。

 旧約聖書にでてくるというから、この手の起源はだいぶ昔。


三人の兄弟

2020年05月04日 | 昔話あれこれ

 三人の兄弟がでてくると、ほとんどが、末の子が主人公で、長男、次男が失敗しても末の子が成功するのが昔話です。

 そのあとは、末の子と上の二人の確執などが続きますが、ひっかかるのが上の二人が弟を殺そうとすること。兄弟がなぜ協力し合えないかと疑問がでますが、昔話では、単に事実関係を提示するだけで、道徳的な観点がふくまれていないと理解するしかありません。

 ところで、ときどき末の子の訳にひっかかるものがでてきます。

 「どろぼうの名人」(イギリスとアイルランドの昔話/石井桃子:訳・編/福音館文庫)では、末の子は、”家にいても役に立つことはあまりしたことがありません”という存在。ただジャックという名前があるので、ジャックという主語で物語が展開していきます。

 いっぽう、「金のガチョウ」(グリムの昔話/大塚勇三/福音館文庫)では、<ぬけさく>と呼ばれて、馬鹿にされ、からかわれ、粗末に扱われている存在。そしてはじめからおわりまで<ぬけさく>と訳されています。ところが同じ「金のガチョウ」(グリム童話集 下/岩波少年文庫)の佐々木田鶴子訳では、はじめに<とんま>とよばれていたとありますが、それ以降は<末息子>と訳されています。

 一つの例示ですが、語るとなると、<ぬけさく>を続けていくに抵抗があります。ほかにもこのような例があり どう表現するか悩みどころです。


昔話の類型・・ウラジミール・プロップ

2020年01月20日 | 昔話あれこれ

昔話の類型によくでてくるのはAT分類。ただこれは分類を手元においておかないと不便。

ロシアの昔話の研究をしていたウラジミール・プロップによる物語の構造を31に分類する方法がありました。いくつかの要素を選んで整理するというもの。

・物語の構造を以下の31に分類
 「留守もしくは閉じ込め」,「禁止」,「違反」,「捜索」,「密告」,「謀略」,「黙認」

 「加害または欠如」,「調停」,「主人公の同意」,「主人公の出発」

 「魔法の授与者に試される主人公(贈与者の第一機能)」,「主人公の反応」

 「魔法の手段の提供・獲得」,「主人公の移動」,「主人公と敵対者の闘争もしくは難題」

 「狙われる主人公」,「敵対者に対する勝利」,「発端の不幸または欠如の解消」

 「主人公の帰還」,「追跡される主人公」,「主人公の救出」

 「主人公が身分を隠して家に戻る」,「偽主人公の主張」,「主人公に難題が出される」

 「難題の実行」,「主人公が再確認される」,「偽主人公または敵対者の仮面がはがれる」

 「主人公の新たな変身」,「敵対者の処罰」,「結婚(もしくは即位のみ)」

 「桃太郎」の例では

 「加害または欠如」  ・鬼が村を荒らしている
 「主人公の出発」   ・鬼退治に出発
 「主人公の反応」   ・いぬ・さる・きじに団子をあげ家来にする
 「敵対者に対する勝利」・鬼退治に成功
 「主人公の帰還」   ・宝をもって帰還。
とわかりやすい。

・7つの行動領域

 登場人物が何をするかに注目して物語を分類するもの

 主人公からみた「敵対者(加害者)」,「贈与者」,「助力者」

 「王女(探し求められる者)とその父」、「派遣者(送り出す者)」

 「主人公」,「偽主人公」

 「桃太郎」の例では

 主人公・桃太郎

 敵対者・鬼が島の鬼

 贈与者・おじいさんとおばあさん(きびだんごをくれた)

 助力者・いぬ・さる・きじ

 研究者ではないので、あまりパターン化する必要もないが、頭の隅に置いておくと便利か?


”こびと”がでてくる話

2018年10月26日 | 昔話あれこれ

 ウクライナの「びんぼうこびと」は、すみつかれるとやっかいなこびと。
 こびとは幸せを運んでくれる存在であるとともに、やや やっかいな存在でもありそうです。

<北欧の昔話から(子どもに語る北欧の昔話/福井信子・湯沢朱実 編訳/こぐま社/2001年)>

・「屋敷こびと」(フィンランド)
  屋敷こびとは、三度も料理を食べさせてくれた料理人に、なんでもだしてくれる小さな小箱をプレゼントしてくれます。

・「トリレヴィップ」(デンマーク)
  名前をあてる話ですが、一晩でつむ二十本の糸を紡ぐと、大ぶろしきをひろげた娘のひとりごとがたいへんなことになります。
 娘は、屋敷のおくさまのところに呼ばれ、お屋敷で働くことになります。
 おくさまは、つむ二十本分の羊の毛をもってきて、明日まで糸をつむぐよういいつつけます。
 仕事はできそうにもありませんでしたが、赤いぼうしをかぶったこびとがやってきて、よめさんになってくれたら手伝ってやるといいます。

<グリムの昔話から(グリム童話集 上下/佐々木田鶴子・訳 出久根育・絵/岩波少年文庫/2007年)>
 白雪姫:七人のこびと
 命の水
 親指こぞう:親指くらいですから、こびとかな
 こびとのくつ屋:貧乏なくつやに幸せを運んでくれます
 金のガチョウ
 森の中の三人のこびと
 ルンペルシュティルツヒェン

<スイスの”こびと”たち(サンドリヨン/世界むかし話 フランス・スイス/八木田宣子・訳/ほるぷ出版/1979年)>

金持ちクラウスの話
 こびとたちは、たいへんな働き者。母親が病気の娘に、薬草を、純金にかわる食べ物をあげます。
 みどり色の外とう、小さなみどり色のぼうし、雪のように白い髪の毛、長い灰色のひげです。

キャサリーンと三人の小人
 ひとりぼっちの女の子が、こびとから火種をわけてもらいますが、どうしても火がつきません。もういちど火種をもらいますが、やっぱりうまくいきません。ところが次の日、起きてみるとピカピカ光る黄金の山がありました。

小人たちの歌声
 すばらしい歌声をくれたこびとですが、どこでうたうことをならったのか、たずねられた男が、根負けしてこびとの話をしてしまうと、男は美しい歌声を失ってしまいます。

小人のひみつ
 片目が見えない男に、こびとがおいしいお菓子をあげます。男は眠らされていたのでお菓子作りの秘密を知ることはできません。兄がでかけて、こびとの菓子作りの秘密をさぐろうとしますが?。

小人たちとぶどう酒のびん
 葡萄酒のびんをもっていた男が、こびとから「少し飲ませてくれ」といわれ、はじめはことわっていた男でしたが、熱心に欲しがったこびとに、葡萄酒をあたえます。こびとが飲みおわり、葡萄酒がのこっていないと思っていると、びんには葡萄酒がいっぱい。毎日飲んでも葡萄酒はなくなりません。
 しかし、おくさんから問われて、こびとのことを話すと、それからびんはからっぽになってしまいます。

 スイスのこびとは、ひみつを知られることが我慢できないようです。


<ルース・マニング=サンダーズの「こびとの本」から(世界の民話館1 こびとの本/ 西本鶏介・訳/TBSブリタニカ/1980年)>
          
 目にしたことがないものが多い。(グリムと重複するものを除く)

 フレデイとバイオリン:ノルウエー
 さわぎくの原っぱ:アイルランド
 いちごをつみにいった女の子:ドイツ
 小さいムクラ:アラビア
 びんの丘:アイルランド
 船長とこびと:デンマーク
 森の中の小さな男たち:ドイツ    
 はしばみ坊や:ウクライナ
 銀のすず;ドイツ
 ビリー・マクダニエルの冒険:アイルランド
 マイア物語:デンマーク
 もみの木:ドイツ 

                
 ”こびと”は小人と訳されているのもありますが、小人という表現はやや抵抗があります。

 ところで、意外と意識されていないのが、こびとの性別。

 女のこびとが存在しないという。しかし、こびとはかたちは「おとこ」であっても、男としての性を主張したり実現することがないという存在。

 日本の一寸法師や竹取物語のかぐや姫は、生まれは小さくても、結末などでは大きくなるが、外国のこびとは、”こび”とのままという違いは、どこからきているのかも興味深い。  


外国の人がとりあげた日本の昔話、日本の昔話の外国への紹介

2018年10月19日 | 昔話あれこれ

<外国の人がとりあげた日本の昔話>

 外国の人が、日本の昔話を取り上げるのは、どういう視点からか、興味があるところ。

・「三分間で語れるお話」(マーガレット・リード・マクドナルド 佐藤涼子・訳/星雲社/2005年初版)に、「長崎のネズミ」、「鈴の音」がありました。日本でよく知られているものではなく、はじめて目にするもの。

 どちらもきりなし話ということでとりあげられてますが、そういえば、外国の昔話で、きりなし話というのは目にしたことがありません。

 「長崎のネズミ」は、食べるものがなくなった長崎のネズミが、薩摩まで船で渡り、食べ物を手に入れようとすすんでいくが、途中であったのが、薩摩の船。
 この船にのっていたのが、薩摩のネズミ。薩摩のネズミも食べるものがなくなって、食べ物を手に入れようと長崎にいくところ。
 長崎にも薩摩にも食べるものがないことを知ったネズミが一匹、一匹海に身を投げ出します。
 すっかり悲観したネズミが一匹一匹が海に飛び込むようすを、やめてといわれるまで続けるという話。

 「三分間で語れるお話」には、「大阪のカエルと京都のカエル」と、こちらはおなじみの話も取り上げられています。

 この話、NHKテレビで石井桃子作”かえるのえんそく”と題して放送されていました(2015.6.1)。テレビだけあって照明や効果、小道具がうまくそろえられていました。


二ひきのかえる(ラング世界童話全集1 みどりいろの童話集/編訳 川端康成・野上彰/偕成社文庫/1977年初版)

 ラングの世界童話全集1にも「大阪のカエルと京都のカエル」があります。
 この話は、かえるにひっかけているので、”かえる”でないと面白さはでてきません。
  
        
・浦島太郎が「赤いカメ」と題して、再話されているのが(スーポーおじさんの 世界ふしぎ物語2 なだいなだ・訳 筑摩書房 1983年)。

 「浦島太郎」というのは「緑の島の子ども」という意味だとはじまります。
 出てくるカメは、赤いカメとされています。日本のもので、赤いカメと表現されているのは、なかったと思いますが・・。

 乙姫から、開けてはならないという金の小箱をもらうのは、おなじですが、箱に意味があって、誘惑に負けなければ、岸で待っているカメが、ふたたび竜宮につれもどすことができること。

 もういちど、乙姫にあうならば、何でもすると約束した浦島太郎でしたが、結局約束は守れず、おじいさんになったというのには説得力があります。

 死の女神が太郎をむかえにきて、あの世につれていったという結末は、外国の方らしい終わり方です。 

 

<日本の昔話の外国への紹介>


 「図説日本の昔話」(石井正巳/河出書房新社/2003年初版)には、明治以降のものが多いが、昔話を描いた絵がたくさんのっていて興味深い。なかには室町時代の「鼠の草紙」の絵も。 もう一つ興味があるのは、日本のものがどう外国に翻訳されていったのかということ。

 1885年には、英語版チリメン本に「舌切り雀」がダビッド・タムソンの訳で。

 アメリカの宣教師でヘボン式ローマ字の発明者ヘボンが英訳にした「瘤取り爺」が1886年に発行されています。

 また「文福茶釜」は1887年にジェイムス夫人が訳したものが発行されているという。

 いずれもアメリカが中心であるが、それがどういうルートで世界にひろがっていったのかも興味があるところ。

 鎖国をしていた江戸時代に唯一窓口となっていたオランダをつうじて外国で発行されたものはなかったのだろうか。   


昔話の登場人物は何歳か

2018年04月14日 | 昔話あれこれ

 ラジオのトークで、年齢が話題になり、昭和50年はじめの小説に50歳で老婆とあってびっくりしたとありました。
 おばあさんというのは、いくつぐらいか? これにも答えるのは難しく、どこかの国では「おばあさん」と呼ぶと、殺されるという冗談も。

 昔話のでだしは、「おじいさん」「おばあさん」「女の子」「若者」などなどですが、具体的な年齢がでてくる話はおおくありません。

 思い浮かぶのは「白雪姫」。お妃が鏡に向かって「世界中で、だれが一番うつくしいか」と問うと、7歳の白雪姫が一番美しいと答えるところ。
 もうひとつはグリムの「ラプンツェル」。12歳になったラプンツェルが、階段も入り口もない塔にとじこめられます。

 おじいさん、おばあさんというのも、平均年齢が低かったころは、50歳になったら立派な?おばあさんだったのでしょうが、今は、本当に若い年齢です。

 「賢い女の子」も昔話ではおなじみですが、いくつぐらいでしょうか。現代風にいうと小学生ぐらいでしょうか。中学生以上だと、成熟した女性になりそうです。

 彼、彼女が結ばれるロマンス。結婚年齢もおおむね20歳以上とイメージしていると、昔話のなかではもっと若そうです。

 昔話に具体的な年齢がでてこないのは、平均寿命がのびるのを予測して、時代がかわっても対応できるようにしていたのかも!。


昔話の科学

2018年04月07日 | 昔話あれこれ

 ラジオで楽しい考察がありました。

 「ヘンゼルとグレーテル」にでてくるお菓子の家が作れるか?

 家には柱と梁が必要ですが、千歳飴の10倍のものを用意すると3400㎏の荷重に耐えられるといいます。実際の千歳飴の太さは直径15ミリ、これが34㎏でペッチャンコ。これから計算したもの。
 甘いものでアリの被害が心配になりますが、アリはゴムの臭いが大嫌いで、輪ゴムを利用するとアリ対策に。

 「桃太郎」で、おばあさんが家に持ち帰る桃の大きさは、計算してみると200㎏の重さ。洗濯物と200㎏をもちあげるおばあさんは、怪力です。
 桃太郎は危機管理能力があって、切られる前に桃からでてくるという。桃を切るという表現がなかったか気になりました。

 以前「シンデレラ」で、シンデレラの足の大きさに合う靴の確率は、とんでもない数字に。よほど小さいか、とんでもない大きさというのもありました。

 「マメ子と魔物」にでてくるマメ子は豆から生まれた子。魔物は例えば200㎏の体重とすると、魔物をかまどにおしこむところでは、マメ子は、何万倍?もの大きさのものを押すことになります。

 現実的に考えるとがっかりですが・・・・。


絵描き話

2017年09月19日 | 昔話あれこれ

      明かりが消えたそのあとで/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳 出久根 育・画/編書房/2004年


 副題に「20のこわいお話」とあります。

 怖い話はともかく、興味をひかれたのは絵描き話「黒ネコの話」。

 まさしく絵をかきながらお話を展開するというもの。トミーとサリーの頭文字TとSではじまり、最後は黒ネコ。

 家を作りながら窓、煙突をかきながら。

 最後、黒ネコというのは少し苦しいおわり。

 保育園でやってみましたが、なんとかネコに見えたようでした。

 もうひとつオーバヘッド・プロジェクターをつかった「魔女のシチュー」。

 シチューに、コウモリの骨、トカゲのしっぽ、ネコの目などなど得体のしれないものをどんどんいれていきます。

 「魔女ひとり」(作:ローラ・ルーク 絵:S.D. シンドラー 訳:金原 瑞人/小峰書店/2004年初版)と同じシチュエーションです。

 お話にも、いろんな工夫があるというのが理解できました。

 絵本でおなじみの出久根 育さんの絵も楽しい。


昔話のなかの子育て

2017年06月06日 | 昔話あれこれ

 昔話で三人兄弟、三人姉妹がでてくると、たいていは末っ子が活躍します。

 三人目となると子育てもそれほど細かなことに目がいかず、ほっとかれるか逆に過保護になりそうですが、昔話の中ではじつに巧みな存在。ぼーっとしているようにみえても力も知恵もあります。

 それにしても兄弟がどのように育ってきたかがでてくる話にはであったことがありません。リアルな視点が徹底的にないのが昔話の特徴でしょうか。

 また、おおぜいの兄と妹がでてくると、妹が兄たちを助けますが、その逆はあまりみられません。

 もうひとつのパターンは、おじいさんおばあさんのところに、子どもができる話。

 それも桃や豆から子どもが生まれ、あっというまに大きくなるので子育ての心配はありません。
 そして、いずれも親孝行で?最後はみんなハッピーになります。

 親が働き、おじいさんがおばあさんが子育てというのはそれほどさかのぼらなくても見られた光景。保育園がなくても大家族の中で、役割分担をしてきた歴史があります。

 親は、子どものため?として、何かと押しつけがましくなりますが、その点おじいさんおばあさんは客観的に子育てができるので、つい前までのありかたは合理的であったのかもしれません。大家族制度の功罪は別として大家族だと子育ての継承も自然です。

 貧しいのが当たり前のおじいさんおばさんのところに、子どもが授かるのは象徴で、そこに希望を託していたのでしょう。そして希望がかなえられるのもお話の世界です。