ゼラルダと人喰い鬼/トミー・ウンゲラー;作・絵 田村 隆一 麻生 九美・訳/評論社/1977年
どなたかがウンゲラーが亡くなったことについてふれられていたので、この絵本を借りてきました。亡くなられたのは、この2月9日。
トミー・ウンゲラー(1931年11月28日 – 2019年2月9日)は、フランスの方で、1998年に国際アンデルセン賞画家賞も受賞されています。
トミー・ウンゲラーの絵本は日本で20冊以上出版されていますが、読んだものは「すてきな三にんぐみ」「オットー ― 戦火をくぐったテディベア」の2冊のみ。
ひとりぼっちの人喰い鬼は、朝ごはんに子どもを食べるのが大好き。
毎日やってくる人食い鬼をおそれ、町の人々は、子どもをかくしてしまいます。学校もからっぽで先生はやることがなくなってしまいます。
子どもがすっかり姿を消したので、人食い鬼はなまぬるいキャベツ、つめたいジャガイモで我慢しなくてはならずいらいら。
一方、町からとおくはなれていた谷間の森の開拓地に住むひとりのお百姓が、ひとり娘のゼラルダとくらしていました。
一年に一度お百姓さんは、農場の作物を売りに町にいっていましたが、体調をくずし、かわりにゼラルダが市場にでかけました。
人食い鬼はゼラルダのにおいをかぎつけ、あとは岩から、とびかかるだけでしたが、あんまりあせって道のまんなかにどしーんと落ちて、気絶してのびてしまいます。
町から遠くはなれた開拓地に住んでいたゼラルダは、人食い鬼の怖さも知らず、近くの小川から水をくんできて、気絶した人食い鬼の顔をふいてやります。
人食い鬼がはらぺこだとうめきをあげたので、ゼラルダは人食い鬼がおなかがぺこぺこで死にそうなんだと思っって、料理にかかります。
ゼラルダは料理が大好きで、六つになるまでに、煮たり焼いたりあげたり蒸したりできました。
作物を売りに出かけたので材料は豊富。できあがったのは、オランダガラシのクリーム・スープ、マスのんせいケイバーそえ、カタツムリのニンニク・バター漬け、トリとブタの丸焼き。
すっかり元気になった人食い鬼は、生まれてはじめての料理の味に、食べたかった子どものことはすっかり忘れてしまいます。
そして、ゼラルダは、城で料理をつくってくれさえしたら、たっぷり黄金をあげるという人食い鬼のさそいにのって、お城にむかいます。お父さんも城にやってきて、この辺で最高の材料を調達です。
ゼラルダは、はじめての材料でためしたり、ぜいたくにまぜあわせたり、次々と新しい料理法をあみだし、作って作って作りまくります。
また、宴会をひらいて、近くの人食い鬼をもてなします。おいしい料理を食べた鬼は、子どもを食べることなんてしっかり忘れ、ゼラルダから料理もまなびます。
それから何年かたって、美しい女性になったゼラルダは、髭をそった人食い鬼と結婚し、子どもをたくさんうむのですが・・・。
ストーリーは、人食い鬼も改心して めでたしめでたしなのですが、絵には大分しかけがります。
最初のページでは、子どもが檻に入れられ、血のついたナイフを持つ人食い鬼。
こどもをかくまうため穴を掘るおばあさん。
ゼラルダが料理本をよんでいるそばで、黒猫がのぞき、そのしっぽがミルクカップにはいっているのは?
トリとブタの丸焼き、おいしそうではあるのですが、妙にリアルです。
最後のぺージで、幸せそうな家族の子どもが一人が背中にナイフとフォークを持って食べようとしているのですが、これは?
トルーシー・トルトルとトラ/ヘレン・スティーヴンズ・作 ふしみ みさを・訳/BL出版/2016年
「トルーシー・トルトル」と「トラ」。語呂合わせ?
トルーシー・トルトルはとてもしっかりした女の子。いつも大泥棒のパパに「どろぼうはダメ」といいますが、パパはわっははっとわらうだけ。
ある日、パパとトルーシーは動物園にいきます。
「もし泥棒したら、飼育係さんに頼んで、トラにおしおきもらうからね!」
でも、パパは、トルーシーがうしろむいているあいだ、ペンギンからは魚、あかちゃんからガラガラ、ヘビからたまご、おばあさんから帽子、飼育係さんから鍵を一本、ゾウからはおやつのカップケーキを盗みました。
パパをじろっとみていたのはトラ。
トルーシーは、パパが盗んだものを、ふくろからだして、もちぬしにかえしにいきますが、これはわたしのじゃないよといわれてしまいます。どうも持ち主と一致しません。
最後に残った鍵を、持ち主がとおったらわかるように、鍵をフックにかけて、トラの檻にかけておきます。
するとトラは、にーっかとわらい、鍵で檻をあけ・・・。
大泥棒が、あかちゃんのガラガらを盗んでどうするのと、突っ込みたくなりますが、でも盗みは盗み。
主役はトルーシーで、パパは引き立て役。トラもパパの更生を見事にやりとげます。
動物園は、人間が動物をみるところとおもっていると、じつは、動物が人間を観察しているところかも。
コミカルで、楽しい気分になれる絵本です。
スラムにひびくバイオリン/スーザン・フッド・作 サリー・ワーン・コンポート・絵 中家多恵子・訳/汐文社/2017年
パラグアイのカテウラのゴミ処理場で、悪臭の中、資源回収する人々。少年少女たちは路地でたむろし、生活の不平不満をこぼし、喧嘩もたえません。
ある日、「バイオリン、ギター、チェロをおしえます」というポスターをみたアーダのおばあさんがかってに申し込みます。
アーダのおばあさんは歌うのがすきで、父親も歌を歌い楽器の音を聞き分けることができました。アーダも楽器の音に聞き耳をあてるようになっていたのです。
ポスターをだしたのは、ファビオ・チャペス。
チャベスは環境技術者として、廃棄物の危険な山で働くガンチェロ(ゴミを分別する係)に安全に作業する技術を教えにきていました。
音楽家でもあったチャベスは子どもたちがトラブルに巻き込まれないように音楽の指導をすることを思いつきます。
最初にレッスンに集まった子供は10人。
ところが用意したのは3本のギターと2丁のバイオリン。これでは練習しようにも楽器が足りません。
家より高価なバイオリンは到底無理です。
チャペスはアルゼンチンで自分たちでつくった楽器を演奏しているレ・リュチエというバンドのことを思い出し、ゴミの山のなか使えそうなものを選び出し、楽器を手作りすることを思いつき、ガンチェロで大工でもあるニコラス・ゴメスに助けをもとめます。
ゴメスはゴミの山から穴のあいたドラム缶を見つけ、古いレントゲン写真で穴を防ぐことを考え、オイル用のドラム缶はチェロに、水道管はフルートに、木枠の箱の板がギターのさおにかえます。そしてバイオリンは古いペンキ缶、アルミニウムの天板、フォーク、木枠の箱の板でつくったのです。
部屋はありませんから、練習は猛暑、土砂降りの雨でも外で練習です。
途中、レッスンをやめていく子も出ましたがアーダはやめずに、家でも練習です。
時間がたつにつれて、耳ざわり音が、正しい音へ。そしてカテウラには、これまでになかった空気が流れ、アーダのバイオリンの音色、ベービのチェロの調べに聞き入るようになります。
やがて学校で、カテウラで、首都のアスンシオンでのコンサートにも出演し、このふうがわりなオーケストラのうわさが国中に広まっていきます。それだけでなく外国からも声がかかるようなります。
夢と希望にあふれたサクセスストーリーです。
副題に「ゴミを楽器に変えたリサイクル・オーケストラ」とあります。オーケストラが街の空気をかえるさきには希望があります。そして、指導者の熱意とともに、なによりも、自分の可能性を信じた子どもたちの思いが伝わってきます。
ハリウッドと鎌倉の大仏もえがかれていますので、日本にもきたのかも!
子どもたちの出生証明書もなく、法律的は存在していなかったというあとがきも、この国の子どものおかれた状況をしめしています。
シンドバッドと怪物の島/作・絵:ルドミラ・ゼーマン:作・絵脇 明子・訳/岩波書店/2002年
船が猿の大集団に襲われ、小舟にのって逃げ出したシンドバッドがついたのは、人間の骨が足の踏み場もないほど転がっている岸。
あらわれたのは火の玉のような目、池のような口の怪物で、大きな鉤爪の手でつかまれて、竹でできた鳥かごに押し込まれてしまいます。
あわや食べられそうになり、鳥かごをゆすっていると竹の棒が怪物の二つの目に突き刺さり、再び小舟で城を脱出・・・。
島に着くと、こんどは一本の太い角をはやしたけもの、竜のような巨大な蛇、そこもなんとかにげだしたシンドバッドでしたが・・・。、
シンドバッドは二度と海へは出ないと決心するのですが、この先は?と次の冒険を期待させるおわりかた。
伏線があって次へつながっていくのが昔話のセオリーですが、アラビアンナイトでは、次から次へと展開するドキドキ感があって、やみつきになります。
細密な絵で、文だけではイメージしにくい怪物も、絵では一目瞭然です。
アラビアンナイトは、おはなし会でもっと語られていてもおかしくはありませんが、語り手のほとんどが女性の方で、ちょととっつきにくいのかも。
ねっこぼっこ/作・絵:ジビュレ・フォン・オルファース:作・絵 秦 理絵子・訳/平凡社/2005年
いろいろな絵本とのであいがあります。
作者はプロイセン生まれ、というとドイツでしょう。原書の出版は百年以上も前。
「ねっこぼっこ」というのは、妖精かとも思いましたが少しちがうようです。たくさんのねっこぼっこがとてもかわいらしく描かれています。
春がちかずくと、ねっこぼっこは地下のなかで、春の服をぬっていきます。しあがりは大地のお母さんが点検です。
むしのお手入れもして、春になると花をもって、外の世界にくりだしていきます。
こがらしのふく秋は、また春がくるまでお休みです。夏、秋がなく春から秋にとぶので、やや物足りません。
すずらん、わすれなぐさ、ひつじぐさ
かぶとむし、てんとうむし、かたつむりも登場します。
色がカラフルで、とても百年前にかかれたものとは思えませんでした。
自然そのものが擬人化されていますが、ねっこぼっこというネーミングが大地の営みを感じさせてくれます。
いまに語りつぐ日本民話集11/笑い話・世間話/野村純一・松谷みよ子・監修/作品社/2002年
この民話集には語り手の方のお名前があります。
大変みじかい昔話ばかりで、たいてい二分ぐらいでおさまりそうなもの。
囲炉裏やこたつで話されたものの原点は、こうした内容ではなかったかと思います。
「能登の文六」も、力自慢で相撲とるのが大好きな文六が、天狗様に相撲を取ろうといわれますが、いつも文六が勝ちになります。というのも、文六はいつも毎朝、神様や仏様さまにご飯をあげていたのです。
ところが、その日に限って、なにもあげないで、天狗様と相撲をとると、負けただけではなく、木の股に裂かれてつるされてしまいます。
だからどこにおっても、神様や仏様は大事にせにゃいかんというおしえ。
「いたいっ!」が うんだ 大発明/バリー・ウィッテンシュタイン・文 クリス・スー・絵 こだま ともこ・訳/光村教育図書/2018年
アメリカの絵本には、実在の人物のエピソードを絵本にしているものも多く、この絵本も「バンドエイド」を考えたアール・デイクスンが主人公です。
一ページ目にいきなりアールさんがジョセフィーヌさんと結婚し、しあわせにくらしました。「おしまい」とおどろかします。
このあとも「おしまい」が途中にも何回かでてきて、おしまいにならないストーリーが展開していきます。
バンドエイドは、ジョセフィーヌさんが、ぶきっちょで、たまねぎをきるとき指先を切ったり、チーズのかわりに手をおろしたり、鍋でやけどしたりするとタオルを手にあてるのですが、なんとかならないかと必死に考えたものでした。
さいしょのバンドエイドは、長さ50センチ、はな10センチ。おおきすぎてとても売れそうにない大きさ。何年かたっていまの大きさに。
それから飛ぶように売れたかというと、なかなか売れず、みんなにしってもらうよう子どもたちにプレゼント。それからは広く受け入れられるように。1920年代後半です。
バンドエイドはちょっとした傷口に便利ですが、新婚のおくさんのぶきっちょさがなければ、バンドエイドはうまれなかったというのも微笑ましい。
バンドエイドは飛行士が宇宙にももっていったようですが、宇宙空間で傷をつけるというのはあるでしょうか。
たった ひとつの ドングリが ーすべてのいのちをつなぐー/文:ローラ・M・シェーファー&アダム・シェーファー・文 フラン・プレストン=ガノン・絵 せなあいこ・訳/評論社/2018年
母と子のコラボの作品です。
内容はとてもわかりやすく、一つのドングリから木が育ち、その木にトリが巣をつくり、花の種が落ち、実がなる。
実がなるとシマリスがきて、シマリスをねらうヘビがきて、そのヘビをねらってタカが。
そして、またドングリが落ちて・・・。豊かな森になるまでは、何年、何十年とかかります。
何百年もかけて形成された森も、人間が手をくわえるとあっというまに失われてしまいます。
ドングリの絵本も数多くありますが、時間のスケールを感じさせてくれる絵本です。
種から育てたクヌギから、一昨年ドングリがはじめて落ちたと思ったら、昨年は十倍以上のドングリが落下し数の多さにびっくりしました。こんな何百個というドングリでも木になるのは、ごくごくごく少数。命をつなぐいとなみも簡単にはいきません。
巻末に、わたしたちにできることは?と、いくつかふれられていますが、親子で話し合うきっかけにもなりそうです。
世界のメルヒエン図書館5 火の馬/小澤俊夫:編訳/ぎょうせい/1981年
どこかであったことのあるいくつものシチュエーションがでてきます。
年とった父親が、十八歳になったアリ・ジャンに百枚の金貨をもたせて、商売の仕方をまなんでほしいとおくりだします。
行商のキャラバンとでかけたアリ・ジャンが一年間かけて学んだのはチェス。
父親がいろいろな注意を与えて、一年後にもういちど百枚の金貨をもたせておくりだしますが、アリ・ジャンが一年かけて学んだのは音楽。
さらに一年後にアリ・ジャンをおくりだしますが、今度は最後の百枚の金貨。今度アリ・ジャンが学んだのが文字でした。
さすがに父親のところへ帰りにくかったのか、やとってもらった商人のキャラバンにくわわり、旅に出ます。
なんにちも水をみつけることができなかったキャラバンでしたが、ほんのすこしわきでているいずみをみつけ、アリ・ジャンが水をくみにいき、皮袋に水をいっぱいいれます。
ところがいずみのわきに小さな扉をみつけたアリ・ジャンがそのなかにはいってみると、そこには鬼神デウが悲しそうに首をうなだれてすわっていました。手にはギジャクという楽器をもっていました。アリ・ジャンが楽器をひいてやさしい音色がきこえるとデウは、はっとわれにかえり、キャラバンに帰ろうとしたアリ・ジャンをひきとめ、「おまえがいちばんしてもらいたいことをかなえてあげよう」といいます。
デウはひとりぼっちの息子を亡くし、悲しくて死のうと思っていたところでした。それがアリ・ジャンの楽器の音色を聞いて、生きる希望がでたのでした。
いずみのなかから地上にでることだけがのぞみと謙虚なアリ・ジャンでしたが、デウは金貨のいっぱいはいったさいふもくれました。
キャラバンにおいついたアリ・ジャンがデウにもらったさいふを商人にみせると、主人は手紙を書いて、馬で家に帰って、主人の娘と結婚式をあげる準備をするよういいつけます。
ここでは、たいてい第三者が手紙を読むのがほとんどですが、アリ・ジャンは文字も学んでいます。
手紙には、うまくだましてアリ・ジャンの首はねるようと書かれていました。
手紙をかきかえたアリ・ジャンは主人のむすめと二日間にわたって結婚式を挙げます。
夜遅く帰ってきた主人が家の門をたたいてなかにはいろうとすると門はあきません。塀をよじのぼって庭に入ると、家で働いている男たちにつかまり、ぼうで袋叩きされてしまます。
というのはアリ・ジャンが商売にでかけるまえに、夜になったら家の門をけっしてあけてはいけない、だれかが塀をのりこえてはいってこようとしたら、すぐにつかまえ、むちでこらしめるよう命じておいたためでした。
妻が手紙の通りむすめと結婚式をあげさせたと聞いた商人の主人は「自分がよくばりだったために罰せられたのだ」と、さとります。
他の話では、主人が結婚するための難題をだすケースがほとんどですが、ここではいさぎよく反省します。
アリ・ジャンがはじめに学んだチェスがでてこないとおもっているとちゃんと出番があります。
チェス自慢の王さまに勝ったら王位をゆずるが、負けたものは命がなくなるという勝負でした。
もちろん、ここでもアリ・ジャンが勝つのですが、王座にはつきたくない、ただ故郷にかえりたいと謙虚です。
「どんなことでもしてあげよう」「王座をゆずる」といわれても辞退する潔さ、ほかの話ではあまりみられません。
おおかみの おなかの なかで/マック・バーネット、文 ジョン・クラッセン・絵 なかがわ ちひろ・訳/徳間書店/2018年
ある朝、ねずみが、おおかみにぱくっと食べられてしまいました。ねずみが まっくらなおおかみのおなかのなかで、「いっかんの おわりだ」と、ないていると、「しずかにしてくれよ!」と、どなり声。ろうそくのあかりに うかびあがったのは、ベッドで寝ているあひる。
テーブルとイスがあり、食卓にはパンもジャムもならんでいます。ほしいものは、チーズでもワインでも、まるごとおおかみに、飲み込ませます。おおかみは、自分のおなかの声をしんじていました。
おおかみのおなかのなかには、料理器具もそろっていて、食事も作ります。
「でも やっぱり そとのせかいに もどりたい」というねずみに、あひるは、「いや、ぜーんぜん!そとにいたときは、いつ、おおかみに ぱっくと食べられるかって びくびくしていたけれど、ここなら しんぱいいらない。」といいます。
なるほどと、ねずみも納得し、ねずみとあひるの奇妙なくらしがはじまります。
ところが、狩人がやってきて、おおかみはあわや絶体絶命のピンチにおちいります・・。
ナンセンスと言ってしまえばそれまでですが、おおかみのおなかのなか、なかなか暮らしやすそうですよ。ただ、窓がないので、時間の管理はどうしていたのか心配になりました。
なかなか味わい深い絵で、ねずみとあひるが、すみかを守ろうと鍋をかぶって狩人に立ち向かう格好も楽めました。
ウルスリのすず/作:ゼリーナ・ヘンツ・文 アロイス・カリジェ・絵 大塚 勇三・訳/岩波書店/2018年
自分の物語を絵にしてほしいと頼まれた作者が、数年かけて村に通い絵本が誕生したと作者紹介にありました。
絵本の誕生もさまざまです。
舞台はスイスの小さな貧しい村。
村には鈴行列というお祭りがあります。冬をおいだし、春をむかえるため、子どもたちが鈴をもって、はれやかな裏声をひびかせて、村中の井戸や牛小屋をまわります。
みんなは、そのおかえしに木の実や肉や、おかしなどを鈴いっぱいにいれてくれるのです。
行列は鈴の大きい順。ところが行列の後方では、小さな鈴をもった子たちが、冷たい雪のなかで、がたがたふるえ、それからなんにももらえずに、家にかえらなければないませんでした。
ウルスリがかんがえたのは、夏の山小屋にあった大きな鈴。
踏み外したら谷底におっこちそうなせまい橋をわたり、くつが雪の中にうまりながらも、一足一足すすんでいきます。
ウルスリは、とりにえさをやり、牛には水をやり、朝早く牛小屋のそうじをする働き者。
おかあさんはヒツジの毛からウルスリの服や帽子をつくってくれます。
おとうさんは、くつに鋲をうってくれるし、しょちゅういろんなものをつくってくれます。
一晩家にかえってこないウルスリをまちながら、木ぼりの牛もつくる存在です。
一晩山小屋にとまったウルスリを心配した両親でしたが、かえってくると、おこることなく、ぐっとだきしめます。
春をまつよろこび、家族のあたたかい関係が、ストーリーをふくらませてくれています。
村の風景や人物が、とても素朴な感じで、アルプスの雰囲気がつたわってきます。
世界のメルヒエン図書館5 火の馬/小澤俊夫:編訳/ぎょうせい/1981年
羊飼いのチェミド・チュジンは、ふとしたことで主人公から追い出されて、足の向くまま旅に出ます。
チェミド・チュジンは力比べして誰にもまけたことのない男でした。
森の中で眠り込んでいると、夢のなかに真っ白いながいひげを長く伸ばしたおじいさんがあらわれて、「おまえがいまやすんでいる木の下には鉄の扉がある。その扉は地下の部屋に通じていて、そこには百四年雨から魔法の馬が並んでいて、自分にのる男をまちのぞんでいる。その馬にのりなさい。お前は本当の英雄になれる。そして、まずしいものをたすけてやりなさい。悪いものを罰し、よくばりな金持ちたちをこらしめておやり!」といいます。
地下には雪のような白い馬がいて、くらには英雄の使う武器がぶらさげられていました。
馬を走らせていると灰色の馬に乗っているサギブ・アリと黒い馬に乗っているムハメド・ケリムという騎士に会います。
三人いれば力を合わせて、難題に立ち向かうかとおもっていると、三方にわかれている道で、別々の道をすすんでいきます。
はじめはトルコで、あらゆる国の英雄が集まって、わざをきそい、その中で一番強いものに大王が王女をよめにくださるというので、トルコにむかっていたのですが、三人きそっておたがいになぐりあいになるのをさけようとしたのです。
サギブ・アリもムハメド・ケリムもなかなかの人物で、弱い人やこまっている人を助けながら旅をつづけていたのですが、木にしばられていたむすめに姿をかえていたヘビに、のみこまれてしまいます。
一方サチェミド・チュジンは、やはり白くて長いひげをはやしたおじいさんにいわれて、トルコではなくキルギス人の皇帝サミグルとたたかうことにします。
皇帝サミグルは、あらゆるねがいごとがかなう魔法の石をもっているというのです。
このサミグルのテントのまわりには、切り落とされたおおくの人間の首がつきささっていました。
テントの中にはひとりのとしとったおばあさんがいて、サミグルがかえってきたとき、魔法の石のありかをききだすことができました。
魔法の石は金の刀の柄のさきにうめこまれていました。
サミグルが眠り込んでいるとき、チェミド・チュジンは、壁にかかっている刀をうばうと、大声でさけびます。
あまり時間をかけず、チェミド・チュジンはサミグルをたおしてしまいます。
そして、三年後の再開を約束していた、あのふたりの親友もたすけだします。
冒険と友情だけでなく、三人が勇敢で、心やさしい人間としてえがかれています。
バシュキール族というのは、主としてロシア連邦のバシコルトスタン共和国に居住するテュルク系民族で、1989年のデータで、ソ連領内に144万9千人が居住していたとありました。また主要宗教はイスラム教スンニー派のようです。
なんげえはなしっこしかへがな/北 彰介・文 絵:太田 大八・絵/BL出版/2018年
「なんげえはなしっこ」ですが、話がながいのではなく、きりなし話が七話。
津軽弁でかかれていて、うーんと首をひねりながら読みました。
擬音語の繰り返しのリズムがなんとも心地よく響いてきました。
「クリの実」では、木から実がカラスの鳴き声とともに落ちます。
ガア(カラス)ポタン ガアポタン ガアポタン
みんなおちるまで一年と三日です。
「かっぱ」では、カッパの子が、岩から飛び込みますが
ドボン スイスイスイ ドボン スイスイスイ ドボン スイスイスイ
最後の子が飛び込むまで八年八十八日。
「鬼ばば」では、和尚さんの掛け声で、鬼がどんどんのびていきます。
タカズク タカズク タカズク ヒュルヒュルヒュル
「なんぼでものびていった」と終わります。
絵も太田大八さんですから、雰囲気がぴったりです。
いろいろな場面で活用できそうです。
BL出版が復刊したもののようで、作者があとがきをかいたのが。1979年です。
王さまライオンのケーキ はんぶんのはんぶん ばいのばいの おはなし/マシュー・マケリゴット:作・絵 野口絵美・絵/徳間書店/2010年
ライオンの食事会に招待されたのは、はじめてのアリのほかコガネムシ、カエル、インコ、イボイノシシ、カメ、ゴリラ、カバ、ゾウ。時間ぴったりについたのはアリだけ。そのほかは遅刻です。
なにしろ、このメンバー、アリをのぞけば、行儀の悪いこと、悪いこと。
食事のあとは、デザートのケーキ。ライオンが自分のものをとって、となりにまわしなさい!というと、くいしんぼうとおもわれるとのがイヤな面々は、まわってきたケーキ半分にして次から次へとまわします。
アリのところでは、はじめの128分の一。アリも半分にしようとしますが、ケーキはかけらになって、こなごな。
動物たちは、アリがじぶんのことしか考えていないと批難ごうごう。みんな自分のことは見えていません。同じ半分といっても、まったく意味がちがいます。
アリは王さまのケーキがなくなったので、あしたイチゴケーキをやいてきますと約束します。
するとコガネムシは「アリだけに、いいかっこさせて おくものか」と思い、キャラメルケーキを二個焼いてきますといいます。カエルは四個、インコは八個。倍々でゾウは256個。
最後はアリの作ったケーキを、アリと王さまが半分づつにしていただきます。
楽しみながら分数や倍数がでてくるので、数に興味がもてそうです。
256という数字は微妙な数字で、これ以上の数を展開できれば驚きがでてきますが、すこし難しくなります。
ライオンの王さま、寡黙な王さまで、動物たちをじっとみているだけです。次の年も食事会をしたのでしょうか。
そしてゾウさんが、約束の256個のケーキを作れたのかも不明です。
たいこたたきの少年/バーナデット・ワッツ:文と絵 松永 美穂・訳/西村書店/2018年
出版社の紹介には、イエスの生誕にまつわるクリスマスソング〈リトル・ドラマー・ボーイ〉が愛らしい絵本になりましたとありました。
天涯孤独で家もない、ひとりぼっちのベンジャミンは、たいこをたたいて、いつもみんなを楽しませていました。
ある日、うまれたばかりの王さまのたんじょうをいっしょにおいわいしようとさそわれます。
けれど、貧しいベンジャミンは、みすぼらしい服を着ていて、さしあげるものもないとしり込みします。
それでも、王さまはどんな服をきているかるかなんて気にしない。心のなかだけをごらんになるのよという、なかよしのレイチェルに誘われて、ベンジャミンも王さまのところにいくことになりました。
もっているものといえばたいこだけのベンジャミンが、たいこをたたくと赤ちゃんがうれしそうに顔をかがやかせます。
なにも持っていなくても、だれかを幸せにすることができるというメッセージでしょうか。
昨年12月のはじめに出版されていて、クリスマス時期にぴったりの絵本です。であうのがちょっと遅すぎました。
三角屋根がたちならぶ町、小鳥、ねずみ、犬、アヒル、ネコなどの小動物も存在感がある素敵な絵です。