75歳以上のドライバーに対する認知機能検査を強化した改正道路交通法(以下、改正法)が施行されて7カ月。施行前は、「診断書を求める患者が従来の100倍近くになり、大混乱になる」などと指摘されていたが、ここまでのところ、その懸念は杞憂に終わっているようだ。代わって広がりつつある免許自主返納の動きと、医師が担っている役割の背景にあるものは何か。この改正法に医師が抵抗感を抱く問題の本質とは。敬老の日を前に、日本老年精神医学会理事長の新井平伊氏(順天堂大学大学院医学研究科精神・行動科学)に聞いた(前後編、取材・まとめ:m3.com編集部・軸丸靖子)。
責任はない、でも「医師がよいと言った」に変わりない
――改正法では、75歳以上の免許保有者が更新を受けるときの認知機能検査で「認知症の恐れあり」と判定された場合、医師の診断書提出が求められるようになりました。ただ、ここまでのところ、懸念されたような「診断を求める高齢者で大混乱」といった事態は起きていないようです(文末囲み参照)。
新井 さまざまな医師からお話を伺っていますが、全体として「診断書を書いてくれ」という患者さんが来られて対応する機会は、まだそう多くはありません。懸念されたような「患者殺到で大混乱」ということは全くない。認知症疾患センターでも、地域の基幹病院でも、診療所であっても状況は同じだと思います。
私自身、高齢者とそのご家族から、免許更新にかかる認知症診断をどうしようかと相談を2件受けましたが、いずれも診察に進む前に、免許を自主返納されることになりました。
ただ、地域による違いはあると思います。専門医が多い都市部では、医師1人に対して集まる認知症診断希望者が少ないが、地方では専門医の数が限られるため、希望者が集中することはあるようです。
もう1つ、所属する施設によって方針が異なることがあるとも聞き及んでいます。「責任問題に発展することは避けたい」という意識が働くのでしょうか。どの医師も、免許更新不可になると分かっている診断書を出すのは嫌です。しかし「とりあえず半年様子見」として、その間に事故が起きたら大問題です。警察や弁護士が「刑事責任も民事責任も問わない」と言っていても、実際は分かりません。
何より、本人・家族にしてみれば「お医者さんが運転してよいと言った」ことには変わりはないのです。この診断に関わる医師は皆、その点に非常に疑問を持っています。
改正法施行から半年以上たちましたが、この問題に対する考え方や方針は、医師の間でいまだに一致していません。まだ手探りの段階、というのが、この7カ月の総括になります。
増える免許の自主返納、しかし問題はそのまま……
――改正法施行以降、例年を上回るペースで75歳以上による免許証の自主返納が増えていることも、警察庁のまとめで示されています。
施行から3カ月足らずで、自主返納が5万6488件に上っており、例年のペースを大幅に上回っているというデータですね。私が相談を受けた2件もそうなりましたし、他の先生方のところでも同様の動きがあるようです。
おそらく、東京や大阪など交通網の発達した地域ほど、自主返納の動きは進んでいるでしょう。今回の改正法がきっかけになって、高齢ドライバーと家族、あるいは医師との間でそういった話が出やすくなっていると思います。
高齢者の運転問題はこれまで長く議論されてきたテーマですが、「どうやって本人に切り出し、運転しないよう説得するか」は最大のハードルでした。改正法によってそのハードルを越えやすくなったのは確かです。「法律もこうなったし、万が一事故になったときに、仮に相手が100%悪いケースだったとしても、病院で認知症の薬を出してもらっていたらやっぱり……、ね?」といった話をしやすくなりました。特に大都市では、そうした会話が自主返納の促進につながると思います。
ですが、地方は状況が異なります。車の運転は本人、そして家族の生活に直結する問題。「生活の足はどうするのか? 誰が買い物や病院に連れて行くのか?」という問題にぶつかることになるのです。そこが解決しない限り、自主返納は進まない。これは、地方の先生が必ず指摘される重要なポイントです。
「認知症=免許取り消し」は基本的人権を侵している
――改正法施行の背景には、高齢ドライバーによる悲惨な致死傷事故が続いたことがありました。75歳以上が起こす死亡事故では、それ以下の年代に比べ、ハンドルの不適操作やブレーキとアクセルの踏み違いが多いなどというデータが示され、規制強化に向け社会的機運が形成された面があったと思います。
法律上は、「何か事故が起きたときの責任はこうなります」と明示できればそれでよいのでしょう。法律が整っていれば、警察は平時から対応が取りやすく、運転者本人も家族の意識も変わってきます。
けれども、今回の改正法は、一言で言うと「温かみがない」のです。認知症であろうがなかろうが、健康でその人らしい生活を維持することは日本国憲法で保障された基本的人権です。新オレンジプラン(認知症施策推進総合戦略)も、認知症になっても地域でその人らしい生活を送れるように、というコンセプトを打ち出しています。しかし、「認知症=免許取り消し」はそのどちらにもそぐわない考え方です。行政としてこの点をどうしていくのかという点は、解決されていません。
生活の足が確保されないまま免許が取り消しになれば、その人らしい生活は送れなくなります。それまで、病院に行ったり、買い物に行ったりと、自分で自由に行動していた人が、認知症があるというだけで何もできなくなる。これでは、国は国民の基本的人権を守れません。
確かに、認知症のある高齢者による致死傷事故や高速道路逆走のニュースはショッキングなものでした。ですが、危険運転は認知症でない人でも行い得ます。危険運転から通行者を守りたいなら、子供たちの通学路へのガードレールの設置や車両進入禁止の強化、高速道路・パーキングエリアなどでの逆走防止ゲートの設置、自動ブレーキ装置の標準装備化など、安全施策を進める方が先なのです。
運転に自信がなくなってきた方の免許の自主返納は、地域の生活の足を確保する温かい行政が前提にあって、初めて促せるものです。それでこそ認知症の人の生活を守り、病院に通う足を守り、皆が地域で穏やかに過ごせる社会になると思います(続く)。
警察庁のまとめでは、2017年3月12日の改正法施行から5月末までに認知機能検査を受けた約43万人超のうち第1分類(認知症の恐れあり)と判定されたのは1万1617人だった。このうち1299人が同期間内に医師の診断を受け、うち14人が認知症診断に基づき免許取り消しとなった。当初見込みでは、認知症と診断されて運転免許の取り消しを受ける人は2015年の1472人、2016年の1845人から、改正以降は年約1万5000人になると推計されていた。