<ルレ・エ・シャトー(1)>
時間は容赦なく飛び去っていく。委細構わず、にだ。
そして、時間を巻き戻すことは決してできない。
でも想い出は、自分だけがいつでも、あるいはいつの日か取り出すことができる宝石だ。色褪せくすんでしまったようにみえても輝きをすべて失うことは決してない、かけがえのないものである。
「さて、なにを呑もうか・・・」
さきほどからバーカウンターに坐って、悩んでいた。食事会場で夕食を早めにすませると、その足で気になっていた洒落たラウンジで一杯やろうとやってきたのだった。早いので客はわたし独りである。若くて綺麗な女性バーテンダーは、カウンターの隅でグラスを磨きながら静かに注文を待っている。
この雰囲気で夕食の続きの熱燗はないだろうし、無難にアイリッシュ・ウィスキーにでもするか・・・。
この宿「扉温泉 明神館」の温泉は内風呂「雪月花」だけしか入っていないが、だんだん深くなる浴槽と広い窓からの眺めはすこぶる素晴らしかった。
あの内風呂には眠る前にもう一度いくつもりである。外部にある露天風呂は、標高も高い場所で雪が降るような外気温なので、遠慮しておいた。(ということは、まだ温泉狂いになる前の話ということだ)
後ろに新たな客が入ってきた気配があったが、バーテンダーの気配からすると宿の関係者のようだ。
ひとつ置いたバースツールに坐った、ジャンパーを着込んだ中年男性に見覚えがあった。松本駅まで迎えに来てくれたマイクロバスの運転手だ。眼が合ったので、思わず目礼をしてしまう。
「いつものアレでよろしいですか」
バーテンダーがいうと、運転手は頷きで応えた。
「ホット・ワインに近頃凝ってましてね。呑んだことありますか?」
車中で、運転しながら客たちに話しかけていた聞き馴れた深みのある低音のいい声で、話しかけられた。
「はあ・・・ホット・ワインですか」
負けじと思い切り渋めの低音で答えてから考えた。温かいアルコールといえば熱燗か焼酎のお湯割りくらいで、ホット・ワインなどまったく縁がなかった。匂いだけでもすごく甘そうな感じがするが。そのころはまだワインの大ブーム前で、わたしはといえば沿線途中の、石和温泉にあるモンデ酒造で無料の試飲をたっぷり飲んだくらいしか経験がなかった。
「寒い夜はとくに合います。どうです、一杯試してみますか?」
わたしの返事を待たずに、バーテンダーに「同じものをもうひとつ」と注文する。
そしてホット・ワインで乾杯して、旅やら松本やらの四方山話で静かに盛り上がったのだった。トイレに立ったときに、バーテンダーにそれとなく訊くと「宿のオーナーです」と聞き、ちょっと仰天した。悪い癖で仲良くなると年齢差も身分差も忘れて、いつものタメ口をきいてしまった。
次の日の朝、送迎バスに乗り込むときに、ドライバー(今回はオーナーじゃなかった)に「まっすぐ松本駅に行きますが、降りないでください。『もとき』という蕎麦屋さんまでお送りするように言われておりますので」と小さな声で言われ、さらに驚いた。そういえば昨夜、蕎麦の話をしたときに「もとき」という店をぜひにと推していたことを思いだす。
冬場は雪道にトラウマがあるから車旅は伊豆とか房総限定で、もっぱら鉄道旅である。
あのときはJRの交通費込みの宿泊プランで二万円くらいだった。再訪したいのだが今は敷居がべらぼうに高くなってしまった。引退しているかもしれないオーナーだが、いまだにご健在であることを心から願う。
世界的権威をもつホテル・レストラン会員組織「ルレ・エ・シャトー」をご存じだろうか。日本で加盟されている宿泊施設はわずかに11軒で、大切な記念日や、人生の節目、または両親へのプレゼントなど、いつか“特別な贅沢”をする時のためのホテル&旅館である。
1. 「あさば」静岡県・修善寺温泉 2. 「別邸 仙寿庵」群馬県・谷川温泉
3. 「扉温泉 明神館」長野県・扉温泉 4. 「強羅花壇」神奈川・箱根強羅温泉
5. 「べにや無何有」石川県・山代温泉 6. 「要庵 西富家」京都府・京都
7. 「神戸北野ホテル」兵庫県・神戸 8. 「西村屋本館」兵庫県・城崎温泉
9. 「忘れの里 雅叙苑」鹿児島・妙見温泉 10. 「天空の森」鹿児島・南霧島温泉
11.「ジ・ウザテラス ビーチクラブヴィラズ」沖縄
もっぱら格安旅をしているわたしだが、眼の玉が飛び出る宿のこのうちの2軒(もしかしたら3軒)行ったことがあるというのは、我ながら驚きだ。
種を明かせば簡単で、加盟する前の、まだお手頃価格だったころのことなのだ。
― 続く ―
→「もときの天麩羅蕎麦」の記事はこちら
時間は容赦なく飛び去っていく。委細構わず、にだ。
そして、時間を巻き戻すことは決してできない。
でも想い出は、自分だけがいつでも、あるいはいつの日か取り出すことができる宝石だ。色褪せくすんでしまったようにみえても輝きをすべて失うことは決してない、かけがえのないものである。
「さて、なにを呑もうか・・・」
さきほどからバーカウンターに坐って、悩んでいた。食事会場で夕食を早めにすませると、その足で気になっていた洒落たラウンジで一杯やろうとやってきたのだった。早いので客はわたし独りである。若くて綺麗な女性バーテンダーは、カウンターの隅でグラスを磨きながら静かに注文を待っている。
この雰囲気で夕食の続きの熱燗はないだろうし、無難にアイリッシュ・ウィスキーにでもするか・・・。
この宿「扉温泉 明神館」の温泉は内風呂「雪月花」だけしか入っていないが、だんだん深くなる浴槽と広い窓からの眺めはすこぶる素晴らしかった。
あの内風呂には眠る前にもう一度いくつもりである。外部にある露天風呂は、標高も高い場所で雪が降るような外気温なので、遠慮しておいた。(ということは、まだ温泉狂いになる前の話ということだ)
後ろに新たな客が入ってきた気配があったが、バーテンダーの気配からすると宿の関係者のようだ。
ひとつ置いたバースツールに坐った、ジャンパーを着込んだ中年男性に見覚えがあった。松本駅まで迎えに来てくれたマイクロバスの運転手だ。眼が合ったので、思わず目礼をしてしまう。
「いつものアレでよろしいですか」
バーテンダーがいうと、運転手は頷きで応えた。
「ホット・ワインに近頃凝ってましてね。呑んだことありますか?」
車中で、運転しながら客たちに話しかけていた聞き馴れた深みのある低音のいい声で、話しかけられた。
「はあ・・・ホット・ワインですか」
負けじと思い切り渋めの低音で答えてから考えた。温かいアルコールといえば熱燗か焼酎のお湯割りくらいで、ホット・ワインなどまったく縁がなかった。匂いだけでもすごく甘そうな感じがするが。そのころはまだワインの大ブーム前で、わたしはといえば沿線途中の、石和温泉にあるモンデ酒造で無料の試飲をたっぷり飲んだくらいしか経験がなかった。
「寒い夜はとくに合います。どうです、一杯試してみますか?」
わたしの返事を待たずに、バーテンダーに「同じものをもうひとつ」と注文する。
そしてホット・ワインで乾杯して、旅やら松本やらの四方山話で静かに盛り上がったのだった。トイレに立ったときに、バーテンダーにそれとなく訊くと「宿のオーナーです」と聞き、ちょっと仰天した。悪い癖で仲良くなると年齢差も身分差も忘れて、いつものタメ口をきいてしまった。
次の日の朝、送迎バスに乗り込むときに、ドライバー(今回はオーナーじゃなかった)に「まっすぐ松本駅に行きますが、降りないでください。『もとき』という蕎麦屋さんまでお送りするように言われておりますので」と小さな声で言われ、さらに驚いた。そういえば昨夜、蕎麦の話をしたときに「もとき」という店をぜひにと推していたことを思いだす。
冬場は雪道にトラウマがあるから車旅は伊豆とか房総限定で、もっぱら鉄道旅である。
あのときはJRの交通費込みの宿泊プランで二万円くらいだった。再訪したいのだが今は敷居がべらぼうに高くなってしまった。引退しているかもしれないオーナーだが、いまだにご健在であることを心から願う。
世界的権威をもつホテル・レストラン会員組織「ルレ・エ・シャトー」をご存じだろうか。日本で加盟されている宿泊施設はわずかに11軒で、大切な記念日や、人生の節目、または両親へのプレゼントなど、いつか“特別な贅沢”をする時のためのホテル&旅館である。
1. 「あさば」静岡県・修善寺温泉 2. 「別邸 仙寿庵」群馬県・谷川温泉
3. 「扉温泉 明神館」長野県・扉温泉 4. 「強羅花壇」神奈川・箱根強羅温泉
5. 「べにや無何有」石川県・山代温泉 6. 「要庵 西富家」京都府・京都
7. 「神戸北野ホテル」兵庫県・神戸 8. 「西村屋本館」兵庫県・城崎温泉
9. 「忘れの里 雅叙苑」鹿児島・妙見温泉 10. 「天空の森」鹿児島・南霧島温泉
11.「ジ・ウザテラス ビーチクラブヴィラズ」沖縄
もっぱら格安旅をしているわたしだが、眼の玉が飛び出る宿のこのうちの2軒(もしかしたら3軒)行ったことがあるというのは、我ながら驚きだ。
種を明かせば簡単で、加盟する前の、まだお手頃価格だったころのことなのだ。
― 続く ―
→「もときの天麩羅蕎麦」の記事はこちら
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