<もうすぐ世界遺産、冨岡製糸場>
(時間には、なんとか間に合ったようだな・・・)
群馬にある「冨岡製糸場」では毎正時からの見学にボランティアのツアーガイドが付くのである。いつもゆったり運転を心掛けているのだが、今日はめずらしく車を飛ばしてしまった。製糸場には駐車場はないので、なるべく近いコインパーキングを幸いみつけて車を入れてきたのだった。
休日だったので、かなりの人数のグループで見学はスタートした。
最近書いた「いまさらの日光」で書いたが、日本にある世界遺産は十六件ある。
そして世界遺産の推薦待ち候補として、国内暫定リストには現在十二件もあるのだ。
参考のため列挙しておくと、北海道・北東北の縄文遺跡、佐渡鉱山の遺産群、富岡製糸場と絹産業遺産、国立西洋美術館・本館、武家の古都・鎌倉、富士山、彦根城、飛鳥・藤原の宮都と関連資産群、百舌鳥・古市古墳群、宗像・沖ノ島と関連遺産群、長崎の教会群とキリスト教関連遺産、九州・山口の近代化産業遺産である。
世界遺産は年に一度の会議で登録が決まる。富士山と、武家の古都鎌倉については、今年2013年に開催される世界遺産委員会で登録の可否が審議され、翌2014年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」が登録の可否が審議される。
冨岡製糸場が世界遺産になっちゃう前にとにかく行っておこうか、鎌倉は横浜生まれだから数限りなく行っているしな。
いまから百四十年前の明治五年(1872年)、時の政府の国策「富国強兵・殖産興業」を担うべく日本最初の官営の製糸場が冨岡に創建された。その工場は世界でも有数の規模だった。
建設の指導者としてポール・ブリュナなど十名ほどのフランス人を雇い入れ、製糸技術の指導が行われた。
そのフランス人が飲むワインを血と思いこみ「冨岡製糸場で異人に生き血を絞りとられる」というデマが流れたため、工女募集を出したがなかなか集まらなかったという。
繰糸場(そうしじょう)の後ろに指導者ブリュナが家族と暮らしていた、高床式でベランダを持つ住居が残っている。
門の正面にある長大な東繭倉庫は、一階は事務所や作業所として使われ二階に乾燥させた繭を貯蔵した。同じ規模で反対側に西繭倉庫がある。
建物は「木骨煉瓦造」といって、木材の骨組の間に日本の瓦職人が造った煉瓦を積み並べ、目地に漆喰を使った珍しい工法である。
明治ごろに建てられた製糸場・・・というと「女工哀史」という言葉を思いだして、それは劣悪な環境のなか過酷な労働を強いられる暗いイメージがまず浮かぶ。
そしてたしか「野麦峠」なんて映画もあったなと、観たことないのに思いだす。
『明治三十六年二月、わずかな契約金で飛騨から吹雪の野麦峠を越えて信州の諏訪や岡谷の製糸工場に向かう少女たちがいた。富国強兵目的の外貨獲得のために、取り出す糸は細く一定で光沢がなければ輸出用にならず、検査で輸出用にならない糸をだしたものは検番から罵倒され給金から罰金が差し引かれた・・・』
だから、歴史ある建物好きなわたしは存在は知っていたのになかなかこの製糸場に来られなかったのだった。
実際には、この冨岡製糸場に集められた工女の労働環境は、採算を無視した官営(やっぱり明治でもなんだね)だけに充実していてかなり待遇は良かったそうである。
官と民の差は明治からあったのだなあ・・・。
集められた数百人の工女たちは、フランスからの当時最新の繰糸機で繰糸方法を学んで、後に全国の製糸工場にそれを伝授し日本の製糸の近代化に貢献したのである。
立派な診療所も完備していたのだ。
博識で情熱たっぷりでエピソードを交えて説明してくれたボランティアガイド、旅をしているとこういうひとによく出会うのですがほんとうに頭が下がります。
下調べをして、ガイドさんが付いてくれる時間にぜひ世界遺産になる前の見学をお薦めする。群馬は近い、東京とか横浜なら日帰りで行けますので。
→「いまさらの日光」の記事はこちら
→「日光東照宮(1)」の記事はこちら
→「日光東照宮(2)」の記事はこちら
(時間には、なんとか間に合ったようだな・・・)
群馬にある「冨岡製糸場」では毎正時からの見学にボランティアのツアーガイドが付くのである。いつもゆったり運転を心掛けているのだが、今日はめずらしく車を飛ばしてしまった。製糸場には駐車場はないので、なるべく近いコインパーキングを幸いみつけて車を入れてきたのだった。
休日だったので、かなりの人数のグループで見学はスタートした。
最近書いた「いまさらの日光」で書いたが、日本にある世界遺産は十六件ある。
そして世界遺産の推薦待ち候補として、国内暫定リストには現在十二件もあるのだ。
参考のため列挙しておくと、北海道・北東北の縄文遺跡、佐渡鉱山の遺産群、富岡製糸場と絹産業遺産、国立西洋美術館・本館、武家の古都・鎌倉、富士山、彦根城、飛鳥・藤原の宮都と関連資産群、百舌鳥・古市古墳群、宗像・沖ノ島と関連遺産群、長崎の教会群とキリスト教関連遺産、九州・山口の近代化産業遺産である。
世界遺産は年に一度の会議で登録が決まる。富士山と、武家の古都鎌倉については、今年2013年に開催される世界遺産委員会で登録の可否が審議され、翌2014年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」が登録の可否が審議される。
冨岡製糸場が世界遺産になっちゃう前にとにかく行っておこうか、鎌倉は横浜生まれだから数限りなく行っているしな。
いまから百四十年前の明治五年(1872年)、時の政府の国策「富国強兵・殖産興業」を担うべく日本最初の官営の製糸場が冨岡に創建された。その工場は世界でも有数の規模だった。
建設の指導者としてポール・ブリュナなど十名ほどのフランス人を雇い入れ、製糸技術の指導が行われた。
そのフランス人が飲むワインを血と思いこみ「冨岡製糸場で異人に生き血を絞りとられる」というデマが流れたため、工女募集を出したがなかなか集まらなかったという。
繰糸場(そうしじょう)の後ろに指導者ブリュナが家族と暮らしていた、高床式でベランダを持つ住居が残っている。
門の正面にある長大な東繭倉庫は、一階は事務所や作業所として使われ二階に乾燥させた繭を貯蔵した。同じ規模で反対側に西繭倉庫がある。
建物は「木骨煉瓦造」といって、木材の骨組の間に日本の瓦職人が造った煉瓦を積み並べ、目地に漆喰を使った珍しい工法である。
明治ごろに建てられた製糸場・・・というと「女工哀史」という言葉を思いだして、それは劣悪な環境のなか過酷な労働を強いられる暗いイメージがまず浮かぶ。
そしてたしか「野麦峠」なんて映画もあったなと、観たことないのに思いだす。
『明治三十六年二月、わずかな契約金で飛騨から吹雪の野麦峠を越えて信州の諏訪や岡谷の製糸工場に向かう少女たちがいた。富国強兵目的の外貨獲得のために、取り出す糸は細く一定で光沢がなければ輸出用にならず、検査で輸出用にならない糸をだしたものは検番から罵倒され給金から罰金が差し引かれた・・・』
だから、歴史ある建物好きなわたしは存在は知っていたのになかなかこの製糸場に来られなかったのだった。
実際には、この冨岡製糸場に集められた工女の労働環境は、採算を無視した官営(やっぱり明治でもなんだね)だけに充実していてかなり待遇は良かったそうである。
官と民の差は明治からあったのだなあ・・・。
集められた数百人の工女たちは、フランスからの当時最新の繰糸機で繰糸方法を学んで、後に全国の製糸工場にそれを伝授し日本の製糸の近代化に貢献したのである。
立派な診療所も完備していたのだ。
博識で情熱たっぷりでエピソードを交えて説明してくれたボランティアガイド、旅をしているとこういうひとによく出会うのですがほんとうに頭が下がります。
下調べをして、ガイドさんが付いてくれる時間にぜひ世界遺産になる前の見学をお薦めする。群馬は近い、東京とか横浜なら日帰りで行けますので。
→「いまさらの日光」の記事はこちら
→「日光東照宮(1)」の記事はこちら
→「日光東照宮(2)」の記事はこちら
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