<伊豆天城・湯ヶ島温泉(1)>
天城湯ヶ島は伊豆半島のほぼ真ん中に位置する。ということは車が普及するまでは交通不便な温泉地だったのだ。
明治期に天城隧道ができ、大正に入って修善寺から下田までバスが走るようになると横光利一、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、梶井基次郎、三好達治らが逗留して多くの作品を書いた。
川端康成は「湯本館」に逗留して「伊豆の踊子」を執筆した。少年時代をこの地で過ごした井上靖はその頃のことを「しろばんば」に書いた。そんなわけで、天城湯ヶ島は文人ゆかりの温泉である。
天城湯ヶ島の宿の大浴場は「木太刀の湯」と名付けられていた。
名前の由来だが、伊豆に配流された源頼朝が天城湯ヶ島山麓に狩猟し世古の渓流に遊んだ折り、渓流の岩間から湯煙が上がるのを発見し木太刀を岩に突き立てて湧きあがったそうである。
(兄貴は木太刀・・・か。たしか弟のほうは薙刀で温泉を発見していたな・・・)
兄の頼朝の追手から逃れて東北を目指す、弟の義経一行も同じように瀬見温泉を発見するのだから面白い。
(おぉー、やった。独り占めじゃないか・・・)
脱衣所にいくと幸い先客が誰も居ず、瞬時に浴衣を脱ぎ棄てた。
大浴場には三つの浴槽があってそれぞれ温度が違う。カルシウム・ナトリウム硫酸塩泉で薬効は新たかのことである。
洞窟風呂の向こうに光る猫越川(ねっこがわ)は、季節を選べば蛍もみられるそうである。
川に面して陶器風呂が並ぶ。
この壺風呂群は訳あって今はパスしておいた。
清流が流れる世古渓に面した丸い露天風呂が一番気にいった。
たまらなく風情ある風景のなかで、ゆっくり湯浴みをすることにした。温泉好きには得も言えぬ贅沢な時間である。
― 続く ―
→「瀬見温泉」の記事はこちら
天城湯ヶ島は伊豆半島のほぼ真ん中に位置する。ということは車が普及するまでは交通不便な温泉地だったのだ。
明治期に天城隧道ができ、大正に入って修善寺から下田までバスが走るようになると横光利一、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、梶井基次郎、三好達治らが逗留して多くの作品を書いた。
川端康成は「湯本館」に逗留して「伊豆の踊子」を執筆した。少年時代をこの地で過ごした井上靖はその頃のことを「しろばんば」に書いた。そんなわけで、天城湯ヶ島は文人ゆかりの温泉である。
天城湯ヶ島の宿の大浴場は「木太刀の湯」と名付けられていた。
名前の由来だが、伊豆に配流された源頼朝が天城湯ヶ島山麓に狩猟し世古の渓流に遊んだ折り、渓流の岩間から湯煙が上がるのを発見し木太刀を岩に突き立てて湧きあがったそうである。
(兄貴は木太刀・・・か。たしか弟のほうは薙刀で温泉を発見していたな・・・)
兄の頼朝の追手から逃れて東北を目指す、弟の義経一行も同じように瀬見温泉を発見するのだから面白い。
(おぉー、やった。独り占めじゃないか・・・)
脱衣所にいくと幸い先客が誰も居ず、瞬時に浴衣を脱ぎ棄てた。
大浴場には三つの浴槽があってそれぞれ温度が違う。カルシウム・ナトリウム硫酸塩泉で薬効は新たかのことである。
洞窟風呂の向こうに光る猫越川(ねっこがわ)は、季節を選べば蛍もみられるそうである。
川に面して陶器風呂が並ぶ。
この壺風呂群は訳あって今はパスしておいた。
清流が流れる世古渓に面した丸い露天風呂が一番気にいった。
たまらなく風情ある風景のなかで、ゆっくり湯浴みをすることにした。温泉好きには得も言えぬ贅沢な時間である。
― 続く ―
→「瀬見温泉」の記事はこちら
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます