志村和雄さんがご逝去された。
元小樽市長であり、小樽市ラグビーフットボール協会名誉会長。

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志村さんが市長を務めたのは3期12年、昭和50年(1975)から昭和62年(1987)まで。
ちょうど自分の小中学校時代であり、初めて名前を覚えた小樽市長が志村さんだった。
小3でラグビー少年団に入った当時、最上町にあるからまつグランドで毎週日曜日の午前中に練習していた。
ラグビー少年団を教える社会人チーム「オイズクラブ」のメンバーだった志村さんにもよくラグビーを教わり、一緒にプレーしたものだ。
「市長さんは忙しいのにラグビーの練習して疲れないの?」
小学生だった自分の質問に、志村さんはこう言った。
「日曜日にラグビーで汗を流すと疲れが吹っ飛ぶんだ。」
ラグビーの練習後は、いつもくたくたになっていた当時の自分にとっては理解のできない言葉だった。
市長として日々直面する行政課題に取り組み、慌ただしい公務のわずかな合間に、からまつ公園に上がって仲間と体と体をぶつけあって汗を流す。試合中はどんなにプレーがヒートアップしても、ひとたび試合が終わればノーサイド、みんな仲間だ。
そんなラグビーが志村さんにとって一服の清涼剤になっていたのだろう。
入船町にあるご自宅は帰り道だったこともあり、練習後うちの小さな車に乗って帰ったこともあった。
志村さんが市長在任中の昭和55年(1980)、ニュージーランド・ダニーデン市と結んだ姉妹都市提携は大きな功績の一つだ。
オールブラックスが初めて来日した昭和62年(1987)、ダニーデン(オタゴ)出身だったアランウェットンやバーニーマカヒルなどオールブラックスメンバー4名がチーム一行と別行程で来樽し、からまつグランドで小中高生にラグビー教室を開催したことは、今考えても特に異例のことだったと思うし、ダニーデンにある世界トップクラスの名門クラブに小樽の「オイズクラブ」が過去4度の遠征をしてこれたのも特筆すべきこと。
これらは、すべて志村さんが先導し、道筋をつけてくれたものだと言っていいだろう。
晩年の腰を曲げ杖をついて歩くお姿が忍ばれる。
謹んでお悔やみを申し上げます。
元小樽市長であり、小樽市ラグビーフットボール協会名誉会長。

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志村さんが市長を務めたのは3期12年、昭和50年(1975)から昭和62年(1987)まで。
ちょうど自分の小中学校時代であり、初めて名前を覚えた小樽市長が志村さんだった。
小3でラグビー少年団に入った当時、最上町にあるからまつグランドで毎週日曜日の午前中に練習していた。
ラグビー少年団を教える社会人チーム「オイズクラブ」のメンバーだった志村さんにもよくラグビーを教わり、一緒にプレーしたものだ。
「市長さんは忙しいのにラグビーの練習して疲れないの?」
小学生だった自分の質問に、志村さんはこう言った。
「日曜日にラグビーで汗を流すと疲れが吹っ飛ぶんだ。」
ラグビーの練習後は、いつもくたくたになっていた当時の自分にとっては理解のできない言葉だった。
市長として日々直面する行政課題に取り組み、慌ただしい公務のわずかな合間に、からまつ公園に上がって仲間と体と体をぶつけあって汗を流す。試合中はどんなにプレーがヒートアップしても、ひとたび試合が終わればノーサイド、みんな仲間だ。
そんなラグビーが志村さんにとって一服の清涼剤になっていたのだろう。
入船町にあるご自宅は帰り道だったこともあり、練習後うちの小さな車に乗って帰ったこともあった。
志村さんが市長在任中の昭和55年(1980)、ニュージーランド・ダニーデン市と結んだ姉妹都市提携は大きな功績の一つだ。
オールブラックスが初めて来日した昭和62年(1987)、ダニーデン(オタゴ)出身だったアランウェットンやバーニーマカヒルなどオールブラックスメンバー4名がチーム一行と別行程で来樽し、からまつグランドで小中高生にラグビー教室を開催したことは、今考えても特に異例のことだったと思うし、ダニーデンにある世界トップクラスの名門クラブに小樽の「オイズクラブ」が過去4度の遠征をしてこれたのも特筆すべきこと。
これらは、すべて志村さんが先導し、道筋をつけてくれたものだと言っていいだろう。
晩年の腰を曲げ杖をついて歩くお姿が忍ばれる。
謹んでお悔やみを申し上げます。