占領軍の一人として日本に来ていたアメリカの青年が、1950年に勃発した朝鮮戦争のため、日本から朝鮮に派兵されました。
彼はやがて音信不通となり、両親は、息子は戦死したのではないかと案じているところに、帰国した息子から連絡がありました。
息子は負傷し、病院に収容されているといいます。
父親が、早速その病院に迎えに行くと告げますが、息子は、友人を一人連れて行ってよいかと尋ねます。
父親は、もちろん喜んで迎えると返事しました。
ところが、息子は、実はその友人は両足を切断されていると言います。
父親は、それでも、2,3日なら喜んでその友人を家に迎えると言いました。
だが、息子は、2,3日ではない、一生、その友人の世話をしてやってくれ、と父親に言います。
そんなことはできない。
おまえは、一人で帰るようにと父親。
しかし、息子は、自分はその親友と別れることは絶対にできない。
親友も一緒に家に迎えてくれないのであれば、自分は家に帰ることはできない。
そう頑強に主張します。
父親は、そんなふうに即決するな。
会って話し合ってから決めよう。
ともかくすぐに迎えに行くから、と言って電話を切りました。
ーーー
父親は息子のいる病院に訪ねて行った。
病院に着いて息子の名を告げると、係の者はひとまとめの荷物を父親に手渡し、これはあなたの息子さんの遺品だと言った。
息子はピストル自殺を遂げていた。
両足を切断した友人とは、なんと息子自身であったのである。
(三浦綾子「藍色の便箋」)
三浦綾子は牧師から聞いた話として、これをエッセイに書いています。
なぜ、このアメリカの青年は自殺したのでしょうか。
三浦綾子はこう書いています。
両足を切断してから、帰国するまでの間に、彼は自分の一生の大変さと共に、まわりの人の大変さを、いやというほど身に沁みて感じていたに違いありません。たとえ親であっても、わが子なら引き取るという、本能的な愛だけでは、安心出来なかったのかも知れません。赤の他人の第三者をも受け入れるだけの愛がなければ、親は自分の一生を見切れまいと思ったに違いないのです。それでなければ、頑強に友人を受け入れよとは言わなかったでしょう。
彼は必死だったのだと思います。
ーーー
青年は、朝鮮で負傷し、両足を切断され、アメリカ本国に送還される長い時間を必死になって考えたのです。
たとえ、両足を失くしても、きっと両親は、
「生きていてよかった」
と喜んでくれるでしょう。
その肉親の愛を息子が疑ったはずはありません。
けれども、わたしたちは、その愛情を信じ、愛にすべてを託することができるでしょうか。
両足を切断された息子をあたたかく迎えた両親ですが、
「いっそあのとき、戦死していてくれたらよかったのに」
と思う瞬間が絶対にないとは断言できません。
また、息子も、両親に迷惑をかける気苦労の中で、
「僕は、むしろ戦死したほうがよかった」
と思うようになるかもしれないのです。
そんな将来のことを考えて、息子は、
「そうだ、肉親の愛情ではなく、両足のないまったくの赤の他人を引き取って、その他人の面倒を一生の間見続ける、そのような崇高な愛によって、ぼくは救われるのだ」
と思いました。
それで父親に、両足を切断された僕の親友も、僕と一緒に家に連れて帰ってくれ、と頼んだのです。
一種の謎かけをしました。
しかし、父親には、無理もありませんが、息子のかけた謎は分かりません。
そんな赤の他人の面倒なんて見られない。
そのようににべなく拒絶しました。
息子は、それで自分が拒絶されたと思ったのです。
ここで息子を、彼は、自分の両足が切断されたことを正直に父親に告げ、
「お父さん、それでも僕を迎えてくれるかい?」
と訊くべきであったと責めないでください。
息子がそう尋ねると、両親はきっと、
「ああいいよ、両足を失ったって、おまえが生きていてくれるだけでうれしい」
と答えるに違いありません。
しかし、息子は、そのような愛情が将来いつか変質することを見抜いていたのです。
それを見抜いて、愛を超えた人間としてのつながりを両親に求めたのです。
ーーー
良書。
もう一度じっくりと読みたい。