小樽のパパの子育て日記

日々のできごとを徒然なるままに2006年から書いて18年目になりました。
ヤプログから2019年9月に引越し。

がんばると迷惑な人

2015-03-30 21:50:28 | 図書館
図書館で借りた本



がんばると迷惑な人

「低質な努力は良質な努力を駆逐する」は至言。
なるほどが多かった良書。
以下、印象に残った部分を自分用メモとして。

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遅くまで残業している部署に限ってミスは多いし、成果も上がっていない。

がんばり病ががいつまでもはびこる大きな理由は、努力の量は見えるが、質は見えないため。

がんばり病が組織の中に蔓延すると、がんばることが自己目的化し、「手抜き」ならぬ「頭抜き」状態に陥る。
見せかけのがんばりに反比例して努力の質は確実に低下する。

「悪貨は良貨を駆逐する」というが「低質な努力は良質な努力を駆逐する」現象が組織の中に、我が国の中に蔓延していると言っても過言ではない。

あるメーカーの某課長は、人の倍働けば必ず報われるという信念のもと、部下にも決して妥協を許さない。
会議のたびに山のような資料をつくらせ、細かく赤字を入れて指摘したところは自分が納得するまで何度でも作り直させる。周りの明かりが消えた深夜でもその課だけは電気が煌々とともっている。
ところが、苦労して作った資料のほとんどは会議で一度も開かれないまま回収されてやがて資源ごみとなって消えてゆく。
人一倍苦労した部下たちには、昇進や栄転が待っているわけではなく、燃え尽き感だけが残る。
頑張っても報われないことに気づいた部下たちは、いくら力を入れて書いた文章でもタイムリミットが来るまでは書き直しさせられること、どんなに仕事を早く片付けても深夜まで残されることを知り、力をセーブして仕事をするようになった。

研究者の中には博引旁証、持って回った表現や虚仮威しで難解な言葉を用いて悦に入り、不必要に分厚い本や論文を書く人がいるが、誤った訓練によって悪癖が身についてしまっている。

ムダや仕事を増やす「ファザード」。
部下の仕事にはいちいち口を出し、微に入り細に渡って報告を求める。部下を評価するときは仕事の出来よりもどれだけがんばっているかが基準になる。

役所でムダな仕事が減らないのも、原因の大半はがんばりを評価する風土が招いたものだと言ってよい。
成果や効率よりもがんばりが評価されると効率化とは逆の力学が働く。仕事を効率化するとがんばりを示せなくなるので、ムダだと分かっていても効率化しない。非効率なほうがトクだから。がんばりや勤勉さを演技するという大きなムダが隠れているが、その責任は公務員自身にあるのではなく、ムダが生じる仕組みを残している制度設計者やトップの側にある。

外資系企業を訪ねると、受付の女性が暇なときには外国語の勉強や読書をしている姿を見かける。しかし、こちらが近づけば自然な笑顔で対応してくれる。直立不動でつくり笑顔と紋切り型の挨拶を繰り返すより、むしろ好印象を抱く。

完璧主義は、非現実的、非合理的で空疎な言葉。完璧を追求することのメリットとコストを天秤にかける現実的・合理的な考え方をしない。90%でも差し支えないものを100%までもっていこうとすれば、何倍、何十倍というコストがかかる場合がある。それによって浪費される資源をもっと大切なところへ集中的に投入するほうがはるかに生産的である。

質の世界に完璧という概念はない。勝手に正解やゴールを設け、その達成に全力を尽くすこと、またそこから逆算して減点法で評価することは、自らの視野を狭め、思考の範囲を限定してしまうことに他ならない。自覚していないだけで実は怠惰な姿勢だと言える。

アイヒマン実験。組織のがんばりがエスカレートすると歯止めがきかなくなる。体罰やいじめの構図。

意思決定するときの判断基準「最適基準」と「満足基準」。
前者はあらゆる選択肢の中から最適なものを選ぶこと、後者は満足できるものを選ぶこと。
経済学では人間が最適な選択肢を選ぶことが前提にされるが、現実の人間は全知全能の神と違って認知能力に限界があるので、経営者はたいてい満足基準で意思決定している。
大事な仕事は最適基準、それ以外の仕事は満足基準のダブルスタンダードにより仕事にメリハリを。

仕事によっては全力を注入するよりも適当にこなしたほうがかえってよい結果が出る。
君子の交わりは淡きこと水のごとし。

ヤミ研究を制度として認める企業が増えている。
3Mの15%ルール、グーグルの20%ルール。
縛りのない自由な発想のなかからブレークスルーや画期的な新製品が生まれることも。

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最後の雨

2015-03-30 06:00:24 | インポート
最後の雨



本家の中西保志。
当然うまいです。声が抜けるてるなあ。



ATSUSHI、こっちもうまいな。やっぱり抜けています。
歌唱力には大差ないはずですが、再生回数は本家の10倍。

これはビジュアルの違いなのでしょうか







小樽ラグビースクール

2015-03-27 04:57:27 | 小樽のラグビー
先日顔を出した小樽ラグビースクールの練習。
夏は最上町のからまつ公園のグランドですが、冬場は市教委(旧東山中)の体育館で。




コーチ陣も熱心で、いい練習しています。

フェイスブックページにはたくさんの写真が掲載されていて見どころ一杯です。

小樽ラグビースクール(フェイスブックページ)

今年はラグビースクール40周年。
3期生の自分も育ててもらいました。

興味のある方は、いつでも声をかけてください。







「で、結論はなに?」と言わないために

2015-03-25 04:32:00 | インポート
先日読んだ本の中にあった目からウロコ。心に留めておきたいと思ったので、以下要旨メモ。

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■妻を傷つける言葉「で、結論はなに?」と言わないために理解すべきこと。

「物語文」と「論説文」とは別ものである。
小説などの「物語文」は読者に感情移入を求める。読者は登場人物に自分自身を投影し、主人公が笑えば自分も笑い、主人公が涙すれば自分も涙する。読後、深い感動に包まれる。
一方、「論説文」は、著者の考えを読者に伝え、説得することが目的である。
「論説文」に重要なことは、理論構成であり説得力である。

「物語文」を「論説文」のように読んではいけない。主人公の行動にケチをつけても無意味である。そして「物語文」に結論を求めてはいけない。物語には結論がないのだから。

一般的に男性は報告や結論を求めて「論説文」のように話すのに対して、女性は過程に重点を置いて「物語文」のように話す。

「で、結論はなに?」と言ってしまい妻を傷つけないためには、「論説文」ではなく「物語文」だと捉えて感情移入して聞くことが必要なのである。
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chromebook

2015-03-24 05:20:03 | インポート
クロムブックを購入してみました。
Chrome OSってどんなものだろうと少々不安でしたが、今のところ使い勝手に大きな問題はなし。
SSD採用で電源ボタンを押してから起動まで3秒というのが何と言ってもありがたいです。
ブラウジングに特化したPCと割り切ってしまえば、コスパは悪くないでしょう。

無料で使ってきたグーグルドライブが15Gの容量一杯近くになってきました。
ストレージのあり方、管理方法をそろそろ本格的に検討しなければなりませんね











図書館で借りた本

2015-03-21 05:13:58 | 図書館
図書館で借りた本





この2冊は当たりの2冊。うーん、なるほどと唸りながら読んだ。





以前はあまり読まなった小説も最近は少々織り交ぜてみる。



書架を回ってテキトーに借りているのだから当然のごとく当たりもあればハズレもある。
それは図書館を利用する上での一つの醍醐味でもある。
そう割り切っている小市民。




明日は卒業式

2015-03-20 05:13:55 | インポート
明日の卒業式を控えて下校した遥。



小学校入学当初の写真と比べてみる。



大きくなったもんだ。



卒業式で着る中学校の制服。

自分も小学校の卒業式では中学校の制服(詰め襟)を着た。
小学校生活が終わることへの何とも言えない寂しさと、新しく中学校生活が始まることへの期待と不安。
朧げな記憶の中にある30年前の自分と今の遥とを重ねて思いを馳せる。



卒業アルバムをキャッキャッとみる二人。

そんな二人を眺めながら、ちょっとだけ遠い目をしたパパ。




サラリーマン川柳

2015-03-17 05:29:00 | インポート
今年もこの季節が来ました。
サラリーマン川柳

自分が選んだベスト5。

・記念日に 「今日は何の日?」 「燃えるゴミ!!」
・沸きました 妻よりやさしい 風呂の声
・子ども達 「いいじゃないの~」と 片付けず
・シニアだが リニア乗るまで 生きてやる
・ひどい妻 寝ている俺に ファブリーズ


フフフ、今年も力作揃いですね。



小学校の女性校長の割合 

2015-03-15 19:36:00 | インポート
全国の小学校の校長先生のうち、女性の割合は19.0%だそうです。
(平成26年4月1日現在)

都道府県別にみると、最も高い広島県では344校中、女性校長が140校と40.7%。
以下、石川県37.7%、富山県33.9%と続きます。

女性校長の割合が最も低いのは、山梨県で180校中、女性校長が11校と6.1%。
以下、鹿児島県8.5%、宮崎県10.4%、北海道10.4%と続きます。

小学校でも思っていたより割合が低いとの印象を受けましたが、中学校ではもっと低くて驚きました。

中学校における女性校長の割合は、全国で5.7%、北海道では491中21校で4.3%。
山梨、香川では県下に女性校長1人、福島に至っては0人です。

教育現場においては、女性の登用が遅れているといえます。





全小中学校をコミュニティ・スクールに 教育再生実行会議 第6次提言 

2015-03-12 03:48:00 | インポート
教育再生実行会議が3月4日に発表した第六次提言の内容を興味深く読みました。

平成25 年1月の発足以降、同会議がこれまで五次にわたって提言してきた内容は、いじめ防止対策推進法の制定、教育委員会制度改革、大学ガバナンス改革のための関係法律の改正など、いずれも早急に対処、解決すべき教育課題として、政府によって実行に移されてきました。

それだけに、全ての学校においてコミュニティ・スクール化を図ることを目指す、とする今回の提言を受けた文科省の動向には注目をしています。

以下、第6次提言から特に目に留まった箇所を自分用メモとして。

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英国の研究者の予測によれば、今後10~20 年程度で、米国の47%の仕事が自動化される可能性が高い。
米国の研究者は、2011年に米国の小学校に入学した子供たちの65%は、大学卒業後、今は存在していない職業に就くと予測。

新たに必要とされる知識や技術を身に付けていくことが不断に求められる。

一人一人が仕事以外の時間をいかに創造的、生産的に過ごすかということが、それぞれの幸せや生きがいにとって重要性を増してくる。

これまでのような「教育→労働→(育児→家庭)→老後」といった人生を前提とした教育の在り方は根本的に改める必要がある。

誰もが学び続けやすい環境を整えるため、行政の縦割りを廃した実効的な体制の構築が必要。

他と同じであることを重んじる、画一・均一的な社会に活力ある未来はなく、我が国社会は、多様性(ダイバーシティ)を認め合う、全員参加型の社会へと変革していかなければならない。

これまでの考え方にとらわれない意識や仕組みの転換が求めらる。

我が国は、貧困家庭に生まれた子供が、本人の努力だけで夢と志に挑戦することが困難な格差社会になっているとの認識を持つ必要がある。

地域活動を行うためのNPOなどの組織をつくる際、「肩書き」や「役職」を付与して、対外的な活動を行うなど、高齢者が参加しやすい工夫を行うことが効果的である。

地方の豊かな環境と結びついた魅力ある学校教育の展開は、人口流出を防ぐだけでなく、良質な教育環境を求める都市部からの人口流入も喚起し得る。

少子・高齢化が進展し、地域コミュニティに多様な機能が求められる中で、学校は、人と人をつなぎ、様々な課題へ対応し、まちづくりの拠点としての役割を果たすことが求められる。

国は、コミュニティ・スクールの取組が遅れている地域の存在を解消し、一層の拡大を加速する。
このための制度面の改善や財政面の措置も含め、未導入地域における取組の拡充や、学校支援地域本部等との一体的な推進に向けた支援等に努める。そして、全ての学校がコミュニティ・スクール化に取り組み、地域と相互に連携・協働した活動を展開するための抜本的な方策を講じるとともに、コミュニティ・スクールの仕組みの必置について検討を進める。
地方公共団体は、国の支援策も活用して、全ての学校においてコミュニティ・スクール化を図ることを目指す。

「学び続ける」社会、全員参加型社会、地方創生を実現する教育の在り方について(第六次提言)
(平成27年3月4日)


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学校運営協議会の機能の一つに「教職員の任用に関して任命権者に意見を述べることができる」というものがあります。
この部分に対しては、学校側に大きな抵抗感があるようですが、実際の学校運営協議会の運用をみると、人事に関する意見の申し出がないのが83%、つまり、人事に関して意見を述べない学校運営協議会の運用もあり得るということです。
さらに人事に関する意見があった16%の内訳では、教員人事に関する一般的な要望が64%となっています。
コミュニティ・スクール指定校に対するアンケートの結果をみても、指定前には人事が混乱しないか危惧していたが取り越し苦労であった、とする回答が圧倒的に多いようです。
この人事への意見の部分に関しては、それほどナーバスになる必要はないのかもしれません。

いずれにせよ、制度を持続可能なものにするためには、学校、地域、家庭それぞれがメリットを享受できるスキームが何よりも大切なのだと思います。



氷を使って火をおこす

2015-03-10 06:15:29 | インポート
ネットで見かけた「氷を使って火をおこすことができる」というタイトルの記事。

そんなバカな?

発火温度から考えてそれは絶対にありえない、
と思いながら記事を覗いてみた。

なるほどそういうことか。


自分の頭はずいぶん固くなったものだと反省。

驚きのサバイバル術!氷を使って火を起こすシンプルな方法


スピッツで一番好きな楓 

2015-03-08 17:08:09 | インポート

スピッツのナンバーで一番好きな「楓」

youtubeでみつけた【民謡日本一】楓 スピッツ【カバーPV】朝倉さや



さすが声が抜けてるねー。うまい。


前にもふれたことがありますが、このブログ記事を時々読み返してはうんうんと唸ってしまう自分。

スピッツの『楓』と『存在と時間』





スピッツ / 楓

風が吹いて飛ばされそうな楓に自分を重ね合わせて、自身の将来への希望や不安を切々と歌いあげる歌詞。
単純なコード進行ながらも印象深いメロディー。
Cメロあと間奏のボトルネックギターの音も雰囲気があってグッド。

間違いなく名曲です。


 

スピッツの『楓』と『存在と時間』
スピッツの『楓』という曲が好きだ。やさしくて、キレイで、切ない。カラオケにいくと必ず歌う一曲でもある。何度聴いても涙を誘う名曲であるが、今日歌詞を聴いていてふと思った。この曲の主題にはどこかハイデガー的なものがあるのではないかと。

この曲を聴いたことのない人には是非CDを入手して聴いていただきたいが、とりあえずここで歌詞を読んでみてほしい。

一見しただけでは、『楓』は単純な別れの歌に思えるかもしれない。しかし、この曲の本当の焦点は、歌い手が別れを告げる相手に対して持っている様々な思いよりも、時間の流れの中で存在している自分というものへの静かな不安にあると言って良いだろう。

その証拠に、この曲には単純な別れの曲にありがちな、取り戻せない過去に対するどろどろした悔恨の念や、別れを告げる『君』に対する未清算の感情などがまったくと言って良いほど歌われていない。歌い手が寧ろ別れに関してはポジティヴな思いでいることはサビ部分の歌詞をみれば明らかである:
さよなら君の声を抱いて歩いていく
ああ僕のままでどこまで届くだろう
つまり、愛する君と別れることになって悲しい、ずっと一緒に居れなくて残念だ、ということよりは、これから「僕」自身が何処へ向かっているのか、どこまでいけるのか、ということの方が問題とされているのである。

また、1・2コーラスの両方でサビ前の一行が完結した文になっていないことも、歌い手の関心が、今や(物理的に)終わろうとしている関係よりは、これからの不確定な未来に向けられていることを間接的に示すものである:
[コーラス1]一人きりじゃ叶えられない夢もあったけれど
[コーラス2]他人(ひと)と同じような幸せを信じていたのに
「一人きりじゃ叶えられない夢もあった」というフレーズは特に注目に値する。なぜなら、これは「一人きりじゃ叶えられない夢」以外の夢もある、ということを示しているからである。僕が思うにはここでは、「君」と別れてしまった今、もはやいかなる夢も叶わない(かなえる価値がない)という絶望的な感情よりは、「君」が「一人きりじゃ叶えられない夢」もあるということを教えてくれたという事実に対する穏やかな感謝の気持ちが表現されている。

時の流れを繊細に感じる言葉使いは歌詞を通して現れている。曲の冒頭は「忘れはしないよ時が流れても」という静かでしかし力強い宣言であるし、コーラス2では「君と会う日まで」が鮮やかな隠喩(「ガラスの向こうには水玉の雲が…etc.」)とともに現在とはっきり区別された過去として回想される。また、ブリッジ部の閃くような展開にのせられた「瞬きするほど長い季節が来て」というフレーズは、歌い手が途方もなく超越的な時間というものに対して感じている自分の存在のかぎりない刹那を矛盾語法によって絶妙に表現している。

以上の観察から、『楓』の歌い手が、ハイデガーが『存在と時間』において思考を巡らしていたような問題を共有していると言えるのでは。この関係は本の題名において既に示唆されているが、実際にテクストを少し見てみよう。

ハイデガーは、Da-seinの意味は時間性(temporality [Zeitlichkeit])であると書いている(Int. II. sec.5 p.15)。これはつまり、ハイデガーにとって、Da-seinの存在論は、時間の中に「いつも既に(always already [immer bereits])」存在しているところの世界内存在(Being-in-the-world)の実存的分析(existential analysis)としてのみ可能である、ということである。これに対応して、『楓』の歌い手も自分の存在をある大きな時間軸の流れの中に置くことで理解している。

もちろん、この同じ歌い手が「君の声を抱いて歩いていく」と宣言し、また遥かな未来で再び声が呼応し合う時を想像している(「呼び合う名前がこだまし始める/聴こえる?」)ということは、ハイデガーによって「気を使うこと(taking-care-of)」がDa-seinが他のDa-seinとの関係性との間で本質的に規定されるという考えと同調している。ハイデガーによれば、「Da-seinの存在は『気にかけること(care)』によって目に見えるものとされる」(I. II. sec.12 p.53)のである。『楓』では、「声」、つまり聴覚的感覚が「気にかけること(care)」、さらに意訳していえば「(誰かをDa-seinとして)想うこと」の換喩(metonymy)として機能している。

しかし、これらの点にもまして強烈な『楓』と『存在と時間』の相似点は、自分という存在が「いつもすでに」時間という世界に投げ出された、純粋な(不確定な)可能性として描かれているということである。『楓』のサビの後半には次の歌詞がつけられている:
ああ僕のままでどこまで届くだろう
特にこのフレーズの後半、「どこまで届くだろう」と言う部分の、トニック・トーン(Aフラット)を中心としたおおらかでいて細かいシンコペーションを内包したメロディー(相対音程でドーーシドー、レドーシシーシドーー)に注目したい。僕はこの部分から、自らの終着地点を知らない、脆く弱々しい紙飛行機が、しかしながらある一つの方向に向けられて確かに飛ばされているような光景を想像する。

これはハイデガーの語るところの「放り出されていること(thrownness)」と「プロジェクト(project)」の概念に完全に一致するものである。ハイデッガーによれば、Da-seinは「一つの『存在が可能であること(being-possible)』が託せられたそのもの、一貫して放り出されている可能性(thrown possibility)」(I. V. sec.31 p.135)である。また、理解としてのDa-seinは「我々が呼ぶところのプロジェクト(project)という実存的構造」(I. V. sec.31 p.136)を持つものである。(無論、語源的に見た時、プロジェクト[projekt]という言葉が「前方に投げる」という意味を持っていることは決定的に重要である。)

簡単にいえば、Da-sein、すなわち存在の意味を探求する存在としての「私」は、自らがすでに時間性の中である一つの方向に投げ出されている状態でしか自らを認識することができない、ということである。さらに、この自分自身の投影のありかたは、「それがそのもののためにあるようなもの(for-the-sake-of-which)」によって決定される。この考えこそ、『楓』の中で「君の声を抱いて歩いていく」というフレーズによって象徴されている、自己完結した本質が不可能であること、そして自らのDa-seinは世界の中で他者に気をかけることによってのみ表出するという、実存的な不安と確信の交錯した状態である。

このようなハイデガー的解釈を用いると、最後のサビの繰り返しの前のブリッジの印象的なフレーズ、「瞬きするほど長い季節が来て/呼び合う名前がこだまし始める/聴こえる?」という部分はDa-seinの存在が実存的な他者との存在(being-with-others)としてしかありえない、ということの確認である、と理解できる。メロディーを考えてみても、ここはシンプルにスケールを下降するメロディーが折り重なり、文字通り呼応する部分である。ここには自らの向かう方向を知らないDa-seinの不安と、自らの存在が「君の声」によって実存的に規定されているという愛の確信が、季節がうつろいゆくように溶け出すメロディーの中に入り交じっている。

もちろん草野正宗がこの曲を書いた時にハイデガーが明白に思考していたような問題意識があったとは考えにくい。しかしこのような歌詞解釈をすることによって、ハイデガーが考えていたような問題が、「哲学」という抽象的で疎遠な学術分野で考えられているごく一部の人間のためのものでは全くなく、実は多くの人々が共感するところの、シンプルなラヴ・ソングの中においても表現されているものであるということが理解できる。確かに、ハイデガーにおいては、存在することはすでに何らかの意味での存在論を体現することなのである。そして、生きることと愛することが本質的に関連していることは、多くの人が直感的に認める事実ではないだろうか。


学級規模よりも教員の質を優先すべき

2015-03-06 05:16:51 | インポート
2015年度予算編成に当たって、40人学級に戻してクラス数を減らすことを文部科学省に求めていた財務省。
教育関係者などの猛反発を受けて撤回されたが、
「我が国の厳しい財政状況の下で、受益者当たりの予算額が大幅に増加し続けている施策は極めて例外的である。改めて厳しく政策効果が問われなければならない。」
とする財務省の言い分にも一定の理解できる。

学級規模と学力との間に密接な関係は見出せない
学級規模と暴力行為・いじめ・不登校の発生件数に密接な関係は見出せない
教員が忙しいのは人手不足が原因とは考えにくい
加配定数に対する予算措置は厳しく政策効果を問う必要がある

統計的資料に基づいた財務省の理論には説得力がある。

OECD 2012 “lessons from PISA for Japan にあるとおり、学級規模よりも教員の質を優先すべきというのは、そのとおりであろう。

PISAを教訓とした日本への提言(OECD)

PISAの結果を見れば、成績が良い国は学級規模より教育の質を優先している。
日本では教育への追加投資の多くが学級規模の縮小に充てられていることが問題の本質である。

日本は、教員志願者の集団を最大限活用する方策、教員選抜の仕組み、着任前研修の方策、教員の業績の把握や教員の動機づけの手法、教員に対する継続的な教育と支援、給料の構造、業績不振の教員の改善と業績良好な教員の昇進と更なる責任の与え方を含め、教員育成の手法を考え直さないといけない。
これまで、日本は教員の質への投資よりも学級規模の縮小を優先する傾向があった。
この優先順位は修正される必要がある。

Japan has tended to prioritise reductions in class sizes over investments in the quality of teachers. This balance may now require adjustment and this report provides a range of examples for how this could be achieved.

OECD 2012 “lessons from PISA for Japan
Effective approaches to instruction

文科省資料


「少人数学級による学習の成果・効果が上がっているのか客観的な数字が示して財務省に反論しなければならない。」
過去の下村発言にもあるとおり、客観的な数値で説得力のある成果・効果が示されるべきなのだろう。






小樽を紹介する番組 NHK「新日本風土記」

2015-03-05 05:26:00 | インポート
「新日本風土記」は、日本各地に残された美しい風土や祭り、暮らしや人々の営みを描く本格的な紀行ドキュメント番組です。
昨年の夏から長期にわたり小樽市内で取材を行い、小樽の色々な姿を紹介します。

【番組名】 新日本風土記 小樽
【放送日時】 3月6日(金)夜9:00~9:59
      (再放送) 3月11日(水)朝8:00~、14日(土)朝6:00~
【放送局】NHKBSプレミアム
【URL】http://www.nhk.or.jp/fudoki/index.html