ハイデガーは、Da-seinの意味は時間性(temporality [Zeitlichkeit])であると書いている(Int. II. sec.5 p.15)。これはつまり、ハイデガーにとって、Da-seinの存在論は、時間の中に「いつも既に(always already [immer bereits])」存在しているところの世界内存在(Being-in-the-world)の実存的分析(existential analysis)としてのみ可能である、ということである。これに対応して、『楓』の歌い手も自分の存在をある大きな時間軸の流れの中に置くことで理解している。
もちろん、この同じ歌い手が「君の声を抱いて歩いていく」と宣言し、また遥かな未来で再び声が呼応し合う時を想像している(「呼び合う名前がこだまし始める/聴こえる?」)ということは、ハイデガーによって「気を使うこと(taking-care-of)」がDa-seinが他のDa-seinとの関係性との間で本質的に規定されるという考えと同調している。ハイデガーによれば、「Da-seinの存在は『気にかけること(care)』によって目に見えるものとされる」(I. II. sec.12 p.53)のである。『楓』では、「声」、つまり聴覚的感覚が「気にかけること(care)」、さらに意訳していえば「(誰かをDa-seinとして)想うこと」の換喩(metonymy)として機能している。
これはハイデガーの語るところの「放り出されていること(thrownness)」と「プロジェクト(project)」の概念に完全に一致するものである。ハイデッガーによれば、Da-seinは「一つの『存在が可能であること(being-possible)』が託せられたそのもの、一貫して放り出されている可能性(thrown possibility)」(I. V. sec.31 p.135)である。また、理解としてのDa-seinは「我々が呼ぶところのプロジェクト(project)という実存的構造」(I. V. sec.31 p.136)を持つものである。(無論、語源的に見た時、プロジェクト[projekt]という言葉が「前方に投げる」という意味を持っていることは決定的に重要である。)
Japan has tended to prioritise reductions in class sizes over investments in the quality of teachers. This balance may now require adjustment and this report provides a range of examples for how this could be achieved.