グランパが持っていたUSBメモリーから出てきた文章。2009年頃に書かれたものだろう。
何かの役に立つかもしれないので、ここに残しておく。
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ユネスコと私
私がユネスコを知ったのは小学生の頃の教科書だったと思います。その後中学で他校出身の友人がユネスコ・クラブのことを話していたのをうっすら覚えています。それは新潟県でのことでした。それからは忘れていましたが、ひょんなことで小樽に赴任して間もなくのことです。エスペランチストである、眼科医の山賀勇先生にお会いしたのが機縁となりました。高校時代独学でエスペラント語の初歩を齧っていた私は、先生のエスペラント研究会に顔を出すようになったのでした。その後先生は小樽ユネスコ協会2代目会長として、それまで休眠状態の会を再建されたのでした。また、先生はロータリアンでもあり、後にガバナーも務められたほどで、双方を通して平和への情熱溢れる人でした。因みに、語源の同じエスペーロは平和を意味するのです。また、私が市内に新設され、新しい職場となった小樽女子短期大学の初代学長木曽栄作先生は、北海道ユネスコ運動発祥に携わり、小樽ユネスコ協会設立時の初代会長でした。そして小樽商科大学教授からの就任でした。小樽女子短期大学2代目学長の北村正司先生は副会長を務められました。また3代目会長は小杉八千代氏でした。氏は小樽源氏の会を主宰して文化活動に活躍しておいででした。
小樽ユネスコ協会60年の歴史の中で、私は1967年からの会員として活動してきて、英語祭、英語講座、ユネスコ・サマースクール等多くのことが脳裏を去来しますが、何と言っても、小樽ユネスコ協会が主管した過去3回の全道大会です。32年前の1978年の第12回大会は、小樽市医師会館で開催されました。講演は当時の日本ユネスコ連盟副会長であり京都大学教授の桑原武夫氏でした。先生は東北大学教授時代に、世界初の民間ユネスコを仙台に立ち上げられた功労者の一人でした。記念講演は「世界の中の日本の文明」と題し、感銘深いものでした。2回目は第22回大会を天狗山荘で、「郷土の文化遺産の保全と創生~小樽から世界への呼びかけ」と題してシポジウムが行われました。パネリストは小樽商大教授久野光明氏、考古学者峰山巌氏、郷土史家高橋利蔵氏とインテリア・コーディネーターの町田ひろ子氏でした。3回目第30回大会は展望閣で行われました。講演は「生物学から見た21世紀の展望」と題する山田家正小樽商科大学学長、そして現北海道ユネスコ連絡協議会会長でした。また、1978年は私にとって忘れ得ぬ年でもありました。それは山賀会長の推薦で、日本ユネスコ協会連盟が全国から募集した中高生対象の、「カナダとアメリカ2週間研修旅行」の引率役として、初めての海外旅行を体験したことでした。ロスアンゼルス、サンフランシスコ、バンクーバーと有意義な旅でした。先般の冬季オリンピック開催地はテレビで見ていて、懐かしさが込み上げてきました。ところで、ユネスコ運動は教育、科学、文化を通して世界平和を希求して止まない運動です。小樽ユネスコ協会60年の歴史を振り返り、原点に戻って考えてみたいものです。それにしても、今日を迎えることが出来たのは、多くの皆様の支えがあったからと、肝に銘じているところでもあります。関係各位に、この場をお借りして、改めて深甚なる感謝の意を表わすものであります。
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グランパの初めての海外旅行は欧州だとばかり思っていたが、1978年のアメリカだったのか。
1978年といえば自分が小3のときだが、小3か小4のときの強烈な思い出がある。
真夜中に電話が鳴り、「誰だこんな時間に」と眠い眼をこすりながら電話に出ると、パスポート他一式をカバンごとすられたと話すグランパでマドリッドの公衆電話からだった。
当時、国際電話が高額だったことを小学生なりに理解していた自分は、用件は手短に済ませる必要があると、急いでたかばあを起こした記憶がある。
電話を切ったあとで、旅先で心細いだろうグランパを案じドキドキしながらも、一方で、マドリッドの位置を地球儀で確認し、地球の裏側にいる人と会話ができたという感慨に浸る自分がいた。
忘れてかけていたクランパとの記憶をUSBメモリーが思い出させてくれた。