夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

二宮尊徳図 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃

2024-06-21 00:01:00 | 掛け軸
男の隠れ家にあった額。小色紙用の額は洒落た額はなかなかあるようでないものです。

額に入れて飾ってあるのは都路華香の作品です。

寿老人 都路華香筆
絹本着色小色紙額装 色紙タトウ
画サイズ:210*180



現存した額は上部の飾り紐しかありませんでしたので、神田の草土舎に依頼して上の飾り紐も交換して、上下の飾り紐を誂えました。台紙が金箔で縁が漆塗の木製の丸額ですが、今ではもはや造作っていないでしょうね。



さて本日の作品は寺崎廣業の作品の紹介ですが、寺崎廣業がまだ著名となる前の明治33年頃の作か?



二宮尊徳図 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃
絹本水墨淡着色軸装 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:縦1960*横500 画サイズ:縦1030*横360

 

二宮尊徳の概略:江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。自筆文書では金治郎と署名している例が多いですが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着しています。経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。



*下の写真は本ブログでの数点の作品を紹介している岡本秋暉が二宮尊徳を描いた作品
「尊徳座像(岡本秋暉筆、報徳博物館蔵)」


生涯:相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれています。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいます。尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻としますが、離縁しています。次いで20歳若いが貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみ(波子)を娶っています。後者は賢夫人と称されているようです。子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいましたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいました。



*下の写真はて「二宮尊徳生家」。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にありますが、隣接して二宮尊徳生家があります。整備には真珠養殖で知られる御木本幸吉(本ブログでは中村左洲の作品で登場)が支援しています。また小田原市南町に公益財団法人報徳福運社が運営する報徳博物館があり、さらに栃木県真岡市にも二宮尊徳資料館があります。



幼少時代:当時の栢山村は小田原藩領でした。父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていました。そこに、金治郎が5歳の時の寛政3年(1791年)8月5日、南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまいます。その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失。開墾に従事して田畑は数年で復旧しましたが、借財を抱えて家計は貧することになります。寛政9年(1797年)、父が眼病を患います。金治郎12歳の時、酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めますが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、自ら夜に草鞋を作って配布して献じます。この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻っています。



寛政12年(1800年)、父の病気が悪化し、9月に没します。母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けますが、乳張りがひどくて家に戻っています。14歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てていました。



享和2年(1802年)、貧困の中で母が亡くなります。まだ幼い2人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父)萬兵衛の家に身を寄せることとなりますが、この年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまうことになります。金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働きますが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「燈油の無駄使い」として嫌い、しばしば口汚く罵ります。そこで金治郎は策を講じ、堤防にアブラナを植え、それで菜種油を取って燈油とします。また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得ています。

文化元年(1804年)、萬兵衛の家を離れ、同村の親族・岡部伊助方に寄宿し、この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿します。さらにここで余耕の20俵を得て、文化3年(1806年)に家に戻り、20歳で生家の再興に着手します。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図りますが、しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなっています。生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いています。また、この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もあり、体重は94kg あったと言われています。小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えていました。

*二宮尊徳の像(小田原市西大友) 


青年時代:文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げます。その頃、小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼します。金次郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化11年(1814年)に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈りますが、自らは一銭の報酬も受け取りませんでした。この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになります。



文化13年(1816年)、前年に家に戻った友吉(常五郎)を萬兵衛の長男・三郎左衛門の養子とし、自らも最初の妻を娶ります。文政元年(1818年)、藩主大久保忠真が孝子節婦奇特者の表彰を行った時に、その中に金治郎の名もありました。文政2年(1819年)、生まれたばかりの長男が夭折。家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁しています。翌年、34歳の金治郎は16歳のなみと再婚します。同年、忠真公が民間の建議を求めた際に、金治郎は貢米領収桝の改正を建言。これが採用されて斗量を改正し、また小田原藩士のための低利助貸法及び五常講を起こしています。文政4年(1821年)、二度目の伊勢詣でから戻った金治郎は、小田原藩主大久保家の分家・宇津家の旗本知行所であった下野国芳賀郡桜町が荒廃しているということで、その再興救済を藩主より命じられています。文政6年(1823年)、金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されて、桜町に移住して再建に着手します。文政9年(1826年)には宇津家家臣・横山周平が同役勤番となって江戸に行ったため、金次郎が組頭格に昇進して桜町主席となった。再建は村民の抵抗にあって難航していましたが、天保2年(1831年)には正米426俵を納める成果を上げるに至り、同5年には1,330俵を返納し、同7年には封地4,000石租900石の所を実収3,000石にまで増やしたので、分度(支出の限度)を2,000石に定めて再建を成し遂げました。その方法は報徳仕法として他の範となっています。但しこれらの復興政策は必ずしも上手く行ったというわけではなく、村人らに反感を持たれ、上司である豊田正作に妨害されたときは突然行方不明になります。間もなく成田山で断食修業していることが判明し、修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていたということです。

*二宮尊徳と寺崎廣業は幼少時代から青年時代にかけて重なる部分が多かったようです。

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寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれ、寺崎家も藩の重臣であった。父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられています。幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも一年足らずで退学。10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。秋田医学校にも入ったが学費が続かず、結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になっています。生活はようやく安定しましたが絵への心は少しも弱まらなかったようです。広業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいましたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京しています。1888年(明治21年)春23歳のことです。

 上京すると平福穂庵、ついで菅原白龍の門をたたいています。広業は4か月でまた放浪の旅に出ますが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていたとされます。足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げることになります。

1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をしています。ここで諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたといわれます。1892年(明治25年)に結婚し向島に居を構えますが、火災に遭って一時長屋暮らしをしたこともありました。1893年(明治26年)から稲田吾山という最初の門下生を迎え入れ、1898年(明治31年)には東京美術学校助教授に迎えられます。翌年、校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去り、天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと広業もこれに参加します。1900年(明治33年)には秋田・大曲・横手に地方院展を開催、故郷にようやく錦を飾りました。

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*日本銀行券A1円券(有効券) に印刷された二宮尊徳


晩年:天保3年(1832年)には桜町より三里先の常陸国真壁郡青木村の旗本川副勝三郎より依頼を受けて伝授。天保4年(1833年)から天保7年(1837年)にかけて天保の大飢饉が関東に被害をもたらします。天保5年(1834年)には谷田部細川家の家政において中村玄順を介して改善しています。天保7年(1836年)には下野烏山藩(藩主は大久保忠保)の財政再建を委ねられ、窮民の緊急救済から着手し、ついで荒地の開墾事業に取り組んでいます。天保7年(1836年)、重病の忠真公により小田原に呼ばれ、功績を賞されると共に、飢饉にある小田原の救済を命じられ、駿河・相模・伊豆の三州の救済は緊急を要するということで金千両を与えられます。金次郎は小田原家臣と協議し、蔵米を放出して村々を救急します。天保9年(1838年)、石川氏の下館の所領1万3,000石が三分の一に減収していたのを復興し、3万金の借金を償却して、分度外の余剰500俵を出ています。天保11年(1840年)、伊豆の代官江川氏の招きを受けて、田方郡多田弥次右衛門家を再興。天保13年(1842年)、幕府に召し抱えられ、普請役格となって印旛沼開拓・利根川利水について二件の提案を行ったが、結局、それは採用されていません。翌年、幕府直轄領(天領)下総大生郷村の仕法を命じられ、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられています。翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住します。

日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していましたが、3度目の病を発し、安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没しています。享年70。戒名は誠明院巧誉報徳中正居士。明治24年(1891年)11月16日に従四位が追贈されている。墓は東京都文京区の諏訪山吉祥寺。

*報徳二宮神社内の二宮金治郎像 


尊徳・金治郎像:各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)に関する記述は、明治14年(1881年)発行の『報徳記』が初出です。そこには「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず。」とあり、この「書を懐にして」を、「懐中」か「胸の前で持って」と解釈するかは判断に迷いますが、金治郎像では後者で解釈されています。ただし先述のように『報徳記』の尊徳幼少期の記述は信憑性が薄く、このような姿で実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残ります。

『報徳記』を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年10月)の挿絵(小林永興画)で、はじめて「負薪読書図」の挿絵が使われています。ただし、これ以前から既にこの図様に近い少年像は存在していたようで、金治郎の肖像画のルーツは中国の「朱買臣図」にあり、これが狩野派に伝統的な画題として代々伝わり、その末裔の永興もこれを参考にしたと想定されています。確認されている最初のこの姿の像は、明治43年(1910年)に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものです。明治37年(1904年)以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになっています。小学唱歌にも『二宮金次郎』という曲があります。しかし、修身国定教科書には金治郎の逸話は取り上げられたものの、「負薪読書図」は一度も掲載されていないようです。 「負薪読書図」が広まったのは売薬版画や引札、子供向けの伝記類によるとされています。これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとして、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があったとされます。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われ、特に平田東助・岡田良平・一木喜徳郎らによる指導が大きかったようです。

小学校の校庭などに見られる「金治郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって普及したとされます。小学校に建てられた「金治郎像」で最古のものは、大正13年(1924年)、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものです。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられ、その立像の大きさは1メートルとされ、子供たちに1メートルの長さを実感させるのに一役買ったともいわれています。実際のところは、立像はきっかり1メートルではないことが多いようです。これは、昭和15年(1940年)頃に量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられます。この像が戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれることがありますが、二宮尊徳が占領下の昭和21年(1946年)に日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されていることからも、像の減少とGHQは特に関係はないようです。戦前の像は青銅製のものが多いですが、ほとんどが第二次世界大戦中の金属供出によって撤去されたため、混同されたものと考えられます。金属供出に際して、教育的配慮として、教師や児童の立会いの下で像にたすきをかけて壮行式を挙行し、戦地に送り出したり、撤収後の台座に「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられたこともあったようです。半藤一利は、像が金属供出される前の時期に、銅像の本に書かれている内容を調べたことがあり、各学校によって刻まれた文字が異なり、「忠孝」の二文字、または『論語』や『教育勅語』の一節が刻まれるもの、あるいは白紙のものまであったと記していています。石像はその後の時代も残り、また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもありました。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をして本を読みながら道路を歩くと交通安全上問題があることから、1970年代以降、徐々に撤去され、像の数は減少傾向にあるほか、「現在の児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もあったようです。

岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の55.1%に「二宮金治郎像」が存在し(2001年現在)、近隣市町村を含めると、58.5%の小学校に「二宮金治郎像」が存在するそうです。また、平成15年(2003年)に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられています。

2010年代に入って歩きスマホの危険性が社会問題になりましたが、この問題を受けて「いまいち一円会」が2016年に日光市立南原小学校に寄贈した石像は立像ではなく座像となっています。



*我が展示室の屋根裏に鎮座する「二宮金治郎像」・・・・、座像となっていますが、いつ頃の作やら? スマホの時代ではなく結構古いらしいが、筆立てかな?

なお、学校の怪談では、「二宮金治郎像」が夜中の校庭を駆け回るという話が典型的に語られているとか・・。

本作品は若い頃の寺崎廣業が、同じくような幼少時代の境遇を重ねた二宮尊徳の幼少期を描いた貴重な作品と推定されます。印章や落款から明治33年か、それ以前の作と推定されます。

 

歩きスマホの危険性が社会問題になり、石像は立像ではなく座像となっていくとは時代の流れか・・・。

掛軸の収納箱には大正14年に発刊された帝国繪新聞に掲載されている寺崎廣業の略歴の記事が同封されている。



主だった印章の例も同時に掲載されており、当時は画家の美術品が多くの人に流通して珍重されていたことがうかがえるし、寺崎廣業に人気も高ったようです。



この印章の例は特に小さな印に当方でも知らない印章があり、非常に参考になるものです。

ところでほぼ同時期に描かれたと思われる作品を以前に紹介しています。



ちょうどその作品の誂えが終了してきたので、この2作品を並べて展示しました。

印章は違う印章ながら、この時期の落款の書体は寺崎廣業は短期間で大きく変わったようですので、この2作品はほぼ同時期と推察されます。



描いている筆致もほぼ同じ・・。

 

まだ稚拙な筆致ながら、実に丁寧に描かれています。



大正期になって多作となった時期に比して、この時期の作品は丁寧に描かれており佳作も多くあります。



このような作品を見比べられるのも100点を超える蒐集の結実かな?



展示室でひとりで贅沢な時間と空間にて、じっくりと悦に入るのは意外に愉しいもの・・・。

*手前の壺は古信楽の壺。











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