
錐呉器茶碗 銘東雲
松永耳庵書付箱
最大口径135*高さ90*高台径53

呉器茶碗については何度か本ブログで説明していますので、詳しい説明は省かせて頂きますが、簡単に言うと「呉器は御器・五器とも書き、御器にはお供えの器の意があり、これが本来の役割とも言われている。また、御器とは元来飲食用の木椀のこと。これに似た形をしたものを指し、概ね丈が高くて見込みが深く、高台は高くかつ開いている。大振りで形・釉色とも素朴なところが我が国の茶人に好まれた。」ということです。

このような茶碗の発色を「御本手」といいますが、これも本ブログで何度も説明していますが、簡単に言うと「桃山時代から江戸初期に、日本から手本を朝鮮に送り、釜山などの窯で焼かせた陶器。陶土の質によって生じる赤みのある斑紋が特色。」ということですが、要はお手本があって作られたということが名前の由来です。

箱内には下記の書付があります。
「東雲」
「本夕、家元庵主を訪れ 紅葉御器之名器 にて賜茶(しちゃ)請ハレル 相客耕圃氏ト談尽合 戦捷(戦争に勝つこと)之黎明ニ因テ(ちなみて) 「志のの免(しののめ)」の名を銘ぜり 皇代二千六百弐年十二月十九日 松永耳庵」と概略は読めますが、詳しくはなかなか解りません。

皇代二千六百弐年十二月十九日は1942年(昭和17年)頃に相当し、松永耳庵(松永安左エ門)が67歳の頃にあたる。この年は東邦電力の解散(1942年)を期に松永耳庵は実業界を引退し、以後は所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごしている。

茶の湯は「耳順」と呼ばれた60歳より本格的に始めた事から「耳庵」と号しています。昭和4年(1929)には有楽井戸を益田鈍翁と競り合った末に法外な値段で購入し名を挙げていることは有名ですね。戦時中から戦後にかけ、政治家・学者・芸術家を招いてしばしば茶会を催していますが、茶道は自己流というのが通説らしい?

さて本茶碗がその「紅葉茶碗の名器?」なのか、その所蔵は松本耳庵なのか、家元?なのか、想像すると面白いものです。
*家元については解りません。松永耳庵は茶道においては特定の師にはついていない自己流のはず?
*松永耳庵の茶友に丸岡という人物がいます。耕圃という号の如く植木屋の出身。松本耳庵の日記を調べると解りかもしれませんが後学としておきます。
推定:本書付に関しては「丸岡耕圃」などのあまり知られていない人物の記述があるなど信憑性は高いと思われます。

書付の茶碗を本茶碗とするか否かが疑う余地はあります。ただ本茶碗を時代はどうあれ「呉器茶碗」に分類するのは差し付かえないでしょう。「紅葉茶碗」とするか「錐茶碗」とするかが難しいところです。

「紅葉茶碗」は「胴の窯変が赤味の窯変を見せている事でその名があり、呉器茶碗中の最上手とされる。高台が高く、撥状に外に開いている。その高台はたいていが切り込まれている。」というのが分類の基準です。

「錐茶碗」は「見込みが錐でえぐったように深く掘られている。高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られるのでこの名がある。口辺につまみ出しや、つまみ込みがそれぞれ向かい合っていることが多い。肌は一様に青みがかって、赤の窯変や雨漏り染みなどの見られるものは少ない。総体にやや細身で、高台は高く、切り込まれている場合が多く、見込みに渦状の筋がみられるものもある 。」というのが通説です。

書付は「紅葉茶碗」、箱書からは「錐茶碗」に分類しているようです。書付の後になってこれは「錐茶碗」と判断したのかもしれませんね。

問題は分類よりも箱の書付に惑わされずに作品自体の時代考証でしょうね。

稽古に使うなら実に使いやすそうな茶碗でまったく問題ありません。

さ~、これからまた調べもの。小生と家内はこの茶碗を気に入っています。「そろそろ内輪でお茶でも飲もうか?」と家内と意見が一致。これで呉茶碗は本ブログで3作品目ですが、それなりにいい作品が入手できました。
後日、母の葬儀でお世話になった菩提寺の茶事で差し出された茶碗が呉器の茶碗がふたつ・・、これも何かの縁。
この時に見せて頂いたのが遠州流の宗慶氏の書付のある「在中庵手」の茶入れ、そして津田宗久と江月宗玩の揃いの茶杓
少なくても茶入れの書付は本物でした。いいものがあるとところにはあるもの。
松永耳庵書付箱
最大口径135*高さ90*高台径53

呉器茶碗については何度か本ブログで説明していますので、詳しい説明は省かせて頂きますが、簡単に言うと「呉器は御器・五器とも書き、御器にはお供えの器の意があり、これが本来の役割とも言われている。また、御器とは元来飲食用の木椀のこと。これに似た形をしたものを指し、概ね丈が高くて見込みが深く、高台は高くかつ開いている。大振りで形・釉色とも素朴なところが我が国の茶人に好まれた。」ということです。

このような茶碗の発色を「御本手」といいますが、これも本ブログで何度も説明していますが、簡単に言うと「桃山時代から江戸初期に、日本から手本を朝鮮に送り、釜山などの窯で焼かせた陶器。陶土の質によって生じる赤みのある斑紋が特色。」ということですが、要はお手本があって作られたということが名前の由来です。

箱内には下記の書付があります。
「東雲」
「本夕、家元庵主を訪れ 紅葉御器之名器 にて賜茶(しちゃ)請ハレル 相客耕圃氏ト談尽合 戦捷(戦争に勝つこと)之黎明ニ因テ(ちなみて) 「志のの免(しののめ)」の名を銘ぜり 皇代二千六百弐年十二月十九日 松永耳庵」と概略は読めますが、詳しくはなかなか解りません。

皇代二千六百弐年十二月十九日は1942年(昭和17年)頃に相当し、松永耳庵(松永安左エ門)が67歳の頃にあたる。この年は東邦電力の解散(1942年)を期に松永耳庵は実業界を引退し、以後は所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごしている。

茶の湯は「耳順」と呼ばれた60歳より本格的に始めた事から「耳庵」と号しています。昭和4年(1929)には有楽井戸を益田鈍翁と競り合った末に法外な値段で購入し名を挙げていることは有名ですね。戦時中から戦後にかけ、政治家・学者・芸術家を招いてしばしば茶会を催していますが、茶道は自己流というのが通説らしい?

さて本茶碗がその「紅葉茶碗の名器?」なのか、その所蔵は松本耳庵なのか、家元?なのか、想像すると面白いものです。
*家元については解りません。松永耳庵は茶道においては特定の師にはついていない自己流のはず?
*松永耳庵の茶友に丸岡という人物がいます。耕圃という号の如く植木屋の出身。松本耳庵の日記を調べると解りかもしれませんが後学としておきます。
推定:本書付に関しては「丸岡耕圃」などのあまり知られていない人物の記述があるなど信憑性は高いと思われます。

書付の茶碗を本茶碗とするか否かが疑う余地はあります。ただ本茶碗を時代はどうあれ「呉器茶碗」に分類するのは差し付かえないでしょう。「紅葉茶碗」とするか「錐茶碗」とするかが難しいところです。

「紅葉茶碗」は「胴の窯変が赤味の窯変を見せている事でその名があり、呉器茶碗中の最上手とされる。高台が高く、撥状に外に開いている。その高台はたいていが切り込まれている。」というのが分類の基準です。

「錐茶碗」は「見込みが錐でえぐったように深く掘られている。高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られるのでこの名がある。口辺につまみ出しや、つまみ込みがそれぞれ向かい合っていることが多い。肌は一様に青みがかって、赤の窯変や雨漏り染みなどの見られるものは少ない。総体にやや細身で、高台は高く、切り込まれている場合が多く、見込みに渦状の筋がみられるものもある 。」というのが通説です。

書付は「紅葉茶碗」、箱書からは「錐茶碗」に分類しているようです。書付の後になってこれは「錐茶碗」と判断したのかもしれませんね。

問題は分類よりも箱の書付に惑わされずに作品自体の時代考証でしょうね。

稽古に使うなら実に使いやすそうな茶碗でまったく問題ありません。

さ~、これからまた調べもの。小生と家内はこの茶碗を気に入っています。「そろそろ内輪でお茶でも飲もうか?」と家内と意見が一致。これで呉茶碗は本ブログで3作品目ですが、それなりにいい作品が入手できました。
後日、母の葬儀でお世話になった菩提寺の茶事で差し出された茶碗が呉器の茶碗がふたつ・・、これも何かの縁。
この時に見せて頂いたのが遠州流の宗慶氏の書付のある「在中庵手」の茶入れ、そして津田宗久と江月宗玩の揃いの茶杓
