本日は勉強のつもりで購入した作品の紹介です。著名な与謝蕪村の作品ですが、もちろん「伝」です。調べてみると同題の作品が海外にて所蔵されている作品のようです。
贋作考 谿山探薬図 伝与謝蕪村筆
紙本水墨淡彩金襴表装軸 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横350*縦1295
作品中の款記には「明和乙酉冬十月 寫於三果軒中 東成長庚 押印(「謝長庚印」:白文回文方印 「三果実居士」:白文方印)」とあり。明和2年(1965年)、与謝蕪村が50歳頃の作と推定されます。
「三果」というのは、蕪村の画室(アトリエ)の庵号で、「三果園・三果軒・三果亭・三菓堂」などと、安永五年(1776年)頃までの長期にわたり断続的に用いられている号のようです。その前は、「朱瓜楼」で、「朱瓜」は「烏瓜・唐朱果」の烏瓜のことで、蕪村の画室から見られたもので、その種の「三果樹」などに由来があるのであろうと推定されています。
「三果社」の「社」は、詩社(片山北海の「混沌社」など)の名称にならったもので、蕪村を中心とした俳諧結社名ということになろうと言われています。その第一回目の句会は、明和三年(1766年)6月に、鉄僧(医師・雨森章迪の俳号)の居宅の太来堂で行われ、その時のメンバーは、蕪村・太祇(炭太祇)・召波(黒柳召波)・鉄僧(雨森章迪)・百墨(自笑)・竹洞・以南・峨眉の8人だそうです。
この「三果」の庵号が初めて登場するのは、宝暦9年(1759年)の「牧馬図」の落款においてで、「己卯(宝暦9年)冬、三果書堂ニ於イテ写ス 東成趙居」とあり、その署名は「東成趙居」です。この「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意が込められているのかも知れません。後の、蕪村晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款の、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意は、未だ包含していないであろうと文献には記されています。
作品の画趣はなかなか良いですね。
与謝蕪村の作品から推察すると、あまり人や動物の描きは器用ではなかったようです。
表具は再表具されているようです。立派な表具です。
この作品を「谿山探薬図」と題していることは所蔵者は同図、同題の作品の存在を知っていた可能性があります。
本作品は明和2年(1765年)の作とされていますが、同様な時期に同じ印章が押印されている作品は、当方の資料では2作品にあり、その部分の写真はひとつは宝暦13年(1763年)の作(下記写真左)で、もうひとつは安永2年(1773年)の作(下記写真右)です。
印章には若干の違い・・??? 許される範囲内か? 検証は必要でしょうが、もっと検証が必要なのは前述のように同図、同題の作品が存在することです。下の写真で左が海外での所蔵作品、右が本日の作品です。
同図作品 谿山探薬図
画サイズ:横619*縦1356 画サイズ:横350*縦1295
Fishbein-Bender Collection 1780年作
大きさはまったく違いますが、ほぼ同じ構図。臨写という作品でもなく、されど下絵がないとここまでは同じにはならないでしょう。当方の作品のほうが細長く、しかもこの作品より15年前の作となります。
さ~、本日の作品の真贋はどうでしょうね。正直なところ当方の所蔵作品のほうが好きですが・・・・
南画系統には全く同じ構図の作品は存在しないというのは妄信のようです。真作でも複数同図の作品が多くあるのは当方でも経験済みですが、この作品は全体の大きさ、とくに長さが違うことから、模写や贋作ではないような気がしますが・・・。
まだ検証中ですが「蒐集家よ! 迷えや、迷え!!」、これぞ蒐集の醍醐味と開き直っています。
贋作考 谿山探薬図 伝与謝蕪村筆
紙本水墨淡彩金襴表装軸 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横350*縦1295
作品中の款記には「明和乙酉冬十月 寫於三果軒中 東成長庚 押印(「謝長庚印」:白文回文方印 「三果実居士」:白文方印)」とあり。明和2年(1965年)、与謝蕪村が50歳頃の作と推定されます。
「三果」というのは、蕪村の画室(アトリエ)の庵号で、「三果園・三果軒・三果亭・三菓堂」などと、安永五年(1776年)頃までの長期にわたり断続的に用いられている号のようです。その前は、「朱瓜楼」で、「朱瓜」は「烏瓜・唐朱果」の烏瓜のことで、蕪村の画室から見られたもので、その種の「三果樹」などに由来があるのであろうと推定されています。
「三果社」の「社」は、詩社(片山北海の「混沌社」など)の名称にならったもので、蕪村を中心とした俳諧結社名ということになろうと言われています。その第一回目の句会は、明和三年(1766年)6月に、鉄僧(医師・雨森章迪の俳号)の居宅の太来堂で行われ、その時のメンバーは、蕪村・太祇(炭太祇)・召波(黒柳召波)・鉄僧(雨森章迪)・百墨(自笑)・竹洞・以南・峨眉の8人だそうです。
この「三果」の庵号が初めて登場するのは、宝暦9年(1759年)の「牧馬図」の落款においてで、「己卯(宝暦9年)冬、三果書堂ニ於イテ写ス 東成趙居」とあり、その署名は「東成趙居」です。この「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意が込められているのかも知れません。後の、蕪村晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款の、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意は、未だ包含していないであろうと文献には記されています。
作品の画趣はなかなか良いですね。
与謝蕪村の作品から推察すると、あまり人や動物の描きは器用ではなかったようです。
表具は再表具されているようです。立派な表具です。
この作品を「谿山探薬図」と題していることは所蔵者は同図、同題の作品の存在を知っていた可能性があります。
本作品は明和2年(1765年)の作とされていますが、同様な時期に同じ印章が押印されている作品は、当方の資料では2作品にあり、その部分の写真はひとつは宝暦13年(1763年)の作(下記写真左)で、もうひとつは安永2年(1773年)の作(下記写真右)です。
印章には若干の違い・・??? 許される範囲内か? 検証は必要でしょうが、もっと検証が必要なのは前述のように同図、同題の作品が存在することです。下の写真で左が海外での所蔵作品、右が本日の作品です。
同図作品 谿山探薬図
画サイズ:横619*縦1356 画サイズ:横350*縦1295
Fishbein-Bender Collection 1780年作
大きさはまったく違いますが、ほぼ同じ構図。臨写という作品でもなく、されど下絵がないとここまでは同じにはならないでしょう。当方の作品のほうが細長く、しかもこの作品より15年前の作となります。
さ~、本日の作品の真贋はどうでしょうね。正直なところ当方の所蔵作品のほうが好きですが・・・・
南画系統には全く同じ構図の作品は存在しないというのは妄信のようです。真作でも複数同図の作品が多くあるのは当方でも経験済みですが、この作品は全体の大きさ、とくに長さが違うことから、模写や贋作ではないような気がしますが・・・。
まだ検証中ですが「蒐集家よ! 迷えや、迷え!!」、これぞ蒐集の醍醐味と開き直っています。