
今年の4月から幼稚園に入園する息子のために、家内が机を購入しました。

L型ドライバーで組み立てを手伝ったようです。最近は一緒におもちゃで遊ぶときに「ドライバー」というと工具を置いてあるところからドライバーを持ってくるし、「乾電池」というと乾電池をまとめて入れてある籠を持ってくるようになりました。いろいろと役に立つようになってきましたが、自分の興味にあることしか・・・
先日紹介した金城次郎氏の茶碗ですが、金城次郎氏の作品はあくまでも民藝作品ですので、「公の場での茶碗としてはいかがなものか?」という思いはあります。

そもそも金城次郎の碗は日常雑器の椀としての「*マカイ」と考えて製作していたきらいがあります。
*「マカイ」については他の記事を参考にして下さい。

今回の金城次郎氏の茶碗は男の人が使う茶碗としては小振りです。
親交のあった浜田庄司の鉄絵茶碗と比較してみました。実際の作品を比べないとお解りにはならないと思いますが、同じ民藝作品でありながら茶碗としての風格に違いがあります。やはり浜田庄司が数段上・・。

こちらの平茶碗はマカイとして作られたものだそうですが・・・。

重ね焼きの跡がないことから、一番上でやかれたものか、マカイとしてではなく茶碗として焼かれたものかは判別はできかねますが、おそらく*茶碗として作られた作品でしょう。重ね焼きの跡のある作品は基本的に数茶碗とはなりえても本来の茶碗としては使えません。

前にも述べたように外側の刷毛目に味わいがあります。
*高台跡からマカイの重ね焼きではなく、単独で茶碗として製作したように思われます。金城次郎氏もマカイの椀とマカイ以外の茶碗サイズでは作りが違います。やはり茶碗としての風格を意識しているでしょう。

単独で鑑賞すると良さばかり目立つのですが、浜田庄司の作品と比較すると優劣の違いが解ります。

骨董作品は単独で作品を見るとよくありません。自己陶酔的に「これはいいものだ。」と思い込む傾向が生まれます。今回の金城次郎氏の茶碗はせめて数茶碗として捉えるのが正解のように思います。
*********************************
浜田庄司談:沖縄壺屋の陶工、金城次郎君ほど、まちがいの少ない仕事をしてきた陶工を私は知らない。それも、ほとんど意識していない点を高く認めたい。縁あって君が十三、四才の頃から、私が壺屋の仕事場に滞在するたびに、手伝ってもらってすでに五〇年、君が魚の模様を彫っている一筋の姿を見つづけてきた。君は天から恵まれた自分の根の上に、たくましい幹を育てて、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた。次郎君の仕事は、すべて目に見えない地下の根で勝負している。これは、一番正しい仕事ぶりなので、いつも、何をしても安心して見ていられるが、こうした当然の仕事を果たしている陶工が、現在何人いるであろうか。本土での会はもちろん、海外での会の場合を想っても少しの不安もない、えがたい陶工と思う。濱田庄司 「安心して見守れる仕事-金城次郎・個展開催に寄せて推薦文(1971)」~『琉球陶器の最高峰 人間国宝 金城次郎のわざ』(1988・朝日新聞社)
*********************************
美辞麗句を並べて自分の業績を自慢する御仁が多い世この頃ですが、寡黙で自分の道を歩む人ほど尊いものです。
共箱の有無などの評価や息子の出来も比較論ではいけませんが・・・。親ばかや所蔵作品に陶酔するのは危険で、あくまで作行きは健全であることが大切

L型ドライバーで組み立てを手伝ったようです。最近は一緒におもちゃで遊ぶときに「ドライバー」というと工具を置いてあるところからドライバーを持ってくるし、「乾電池」というと乾電池をまとめて入れてある籠を持ってくるようになりました。いろいろと役に立つようになってきましたが、自分の興味にあることしか・・・

先日紹介した金城次郎氏の茶碗ですが、金城次郎氏の作品はあくまでも民藝作品ですので、「公の場での茶碗としてはいかがなものか?」という思いはあります。

そもそも金城次郎の碗は日常雑器の椀としての「*マカイ」と考えて製作していたきらいがあります。
*「マカイ」については他の記事を参考にして下さい。

今回の金城次郎氏の茶碗は男の人が使う茶碗としては小振りです。
親交のあった浜田庄司の鉄絵茶碗と比較してみました。実際の作品を比べないとお解りにはならないと思いますが、同じ民藝作品でありながら茶碗としての風格に違いがあります。やはり浜田庄司が数段上・・。

こちらの平茶碗はマカイとして作られたものだそうですが・・・。

重ね焼きの跡がないことから、一番上でやかれたものか、マカイとしてではなく茶碗として焼かれたものかは判別はできかねますが、おそらく*茶碗として作られた作品でしょう。重ね焼きの跡のある作品は基本的に数茶碗とはなりえても本来の茶碗としては使えません。

前にも述べたように外側の刷毛目に味わいがあります。
*高台跡からマカイの重ね焼きではなく、単独で茶碗として製作したように思われます。金城次郎氏もマカイの椀とマカイ以外の茶碗サイズでは作りが違います。やはり茶碗としての風格を意識しているでしょう。

単独で鑑賞すると良さばかり目立つのですが、浜田庄司の作品と比較すると優劣の違いが解ります。

骨董作品は単独で作品を見るとよくありません。自己陶酔的に「これはいいものだ。」と思い込む傾向が生まれます。今回の金城次郎氏の茶碗はせめて数茶碗として捉えるのが正解のように思います。
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浜田庄司談:沖縄壺屋の陶工、金城次郎君ほど、まちがいの少ない仕事をしてきた陶工を私は知らない。それも、ほとんど意識していない点を高く認めたい。縁あって君が十三、四才の頃から、私が壺屋の仕事場に滞在するたびに、手伝ってもらってすでに五〇年、君が魚の模様を彫っている一筋の姿を見つづけてきた。君は天から恵まれた自分の根の上に、たくましい幹を育てて、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた。次郎君の仕事は、すべて目に見えない地下の根で勝負している。これは、一番正しい仕事ぶりなので、いつも、何をしても安心して見ていられるが、こうした当然の仕事を果たしている陶工が、現在何人いるであろうか。本土での会はもちろん、海外での会の場合を想っても少しの不安もない、えがたい陶工と思う。濱田庄司 「安心して見守れる仕事-金城次郎・個展開催に寄せて推薦文(1971)」~『琉球陶器の最高峰 人間国宝 金城次郎のわざ』(1988・朝日新聞社)
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美辞麗句を並べて自分の業績を自慢する御仁が多い世この頃ですが、寡黙で自分の道を歩む人ほど尊いものです。
共箱の有無などの評価や息子の出来も比較論ではいけませんが・・・。親ばかや所蔵作品に陶酔するのは危険で、あくまで作行きは健全であることが大切
