袁安臥雪図 小田海僊筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先本象牙細工 合箱
全体サイズ:縦2215*横822 画サイズ:縦1466*横641
賛には「倣王右丞(王維の別称)意 七十五翁海僊」とあり、安政7年(1860年)頃の作品と推察されます。「王羸」「巨海」の白文の下駄判の累印が押印されています。
本作品は大正6年12月に東京美術倶楽部で催された売り立て会の目録に記載されている。
能の『芭蕉』には、「雪のうちの芭蕉の 偽れる姿の まことを見えばいかならんと」という詞章があります。これは、唐時代の詩人であり画人でもある王維が、雪景色のなかに芭蕉を描いたという故事を指しております。
芭蕉は春夏には緑鮮やかな大きな葉を繁らせますが、冬はその葉も枯れてしまって見る影もありません。ですから雪の中の芭蕉を描くことは、間違っているというわけです。この画は「袁安臥雪図」という作品ですが、後漢時代の清廉な役人であった袁安という人が、雪の降るなかひとり家で横になっている姿を描いたものです。
宋時代の沈括なる人がこの画を所有していて、沈括はその著書『夢渓筆談』のなかで、「王維は、文物を描くのに、季節を問わず、桃李(春)と芙蓉・蓮花(夏)を同じ景色のなかに描いてしまうという評伝があるように、たしかに季節と文物が呼応していないのであるが、正確さというものに必ずしも画の善し悪しがあるわけではない。袁安の清廉な人柄を、雪中の芭蕉で表すというところに、この画の妙味がある」。王維の死後、三百年以上を経た時代の評ですから、それが王維の真意であるかどうかは解りません。
しかも残念ながら王維の画は、すべて失われてしまいました。しかし詩は残っており、彼は人事社会から離れ、自然の美しさだけを真っ直ぐに詠む詩人であり、その詩は「詩中に画あり」と賞賛されています。
ここに一首挙げてみましょう。
独り幽篁の裏に坐して ひとり竹藪の奥に坐り
弾琴 復た 長嘯 琴を弾き 詩を歌う
深林 人知らず 深い竹林には人影もなく
明月 来たりて相照らす ただ月だけが私を照らしてくれる
この詩は「竹里館図:という詩です。湯田玉水という画家の作品があります。数多くの画家が王維の詩を絵画で表現しています。
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小田海僊:天明5年(1785年)~文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。
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王 維:(おう い)。生卒年は『旧唐書』によれば699年 ~ 759年、『新唐書』では701年 ~761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、長安元年 ~上元2年)は、中国唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家、書家、音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。河東(現在の山西永済市)出身。同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。
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絹本水墨淡彩軸装 軸先本象牙細工 合箱
全体サイズ:縦2215*横822 画サイズ:縦1466*横641
賛には「倣王右丞(王維の別称)意 七十五翁海僊」とあり、安政7年(1860年)頃の作品と推察されます。「王羸」「巨海」の白文の下駄判の累印が押印されています。
本作品は大正6年12月に東京美術倶楽部で催された売り立て会の目録に記載されている。
能の『芭蕉』には、「雪のうちの芭蕉の 偽れる姿の まことを見えばいかならんと」という詞章があります。これは、唐時代の詩人であり画人でもある王維が、雪景色のなかに芭蕉を描いたという故事を指しております。
芭蕉は春夏には緑鮮やかな大きな葉を繁らせますが、冬はその葉も枯れてしまって見る影もありません。ですから雪の中の芭蕉を描くことは、間違っているというわけです。この画は「袁安臥雪図」という作品ですが、後漢時代の清廉な役人であった袁安という人が、雪の降るなかひとり家で横になっている姿を描いたものです。
宋時代の沈括なる人がこの画を所有していて、沈括はその著書『夢渓筆談』のなかで、「王維は、文物を描くのに、季節を問わず、桃李(春)と芙蓉・蓮花(夏)を同じ景色のなかに描いてしまうという評伝があるように、たしかに季節と文物が呼応していないのであるが、正確さというものに必ずしも画の善し悪しがあるわけではない。袁安の清廉な人柄を、雪中の芭蕉で表すというところに、この画の妙味がある」。王維の死後、三百年以上を経た時代の評ですから、それが王維の真意であるかどうかは解りません。
しかも残念ながら王維の画は、すべて失われてしまいました。しかし詩は残っており、彼は人事社会から離れ、自然の美しさだけを真っ直ぐに詠む詩人であり、その詩は「詩中に画あり」と賞賛されています。
ここに一首挙げてみましょう。
独り幽篁の裏に坐して ひとり竹藪の奥に坐り
弾琴 復た 長嘯 琴を弾き 詩を歌う
深林 人知らず 深い竹林には人影もなく
明月 来たりて相照らす ただ月だけが私を照らしてくれる
この詩は「竹里館図:という詩です。湯田玉水という画家の作品があります。数多くの画家が王維の詩を絵画で表現しています。
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小田海僊:天明5年(1785年)~文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。
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王 維:(おう い)。生卒年は『旧唐書』によれば699年 ~ 759年、『新唐書』では701年 ~761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、長安元年 ~上元2年)は、中国唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家、書家、音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。河東(現在の山西永済市)出身。同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。
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