なんとも味わい深そうな茶碗、おそらく萩茶碗と思われますが、古萩なのかどうかという作れらた時期は不明です。
古?萩茶碗
合箱
口径127~130*高さ69~71*高台径53
萩焼は江戸時代初期長州藩毛利家の御用窯として開窯され、その起源は文禄・慶長の役により朝鮮より連れ帰られた李勺光・李敬兄弟が1604年頃萩城下の松本村の山林を毛利家よりあてがわれ藩の御用焼物所として開窯したのが始まりで、後に深川村にも分窯、それぞれを松本焼、深川焼と称しています。
毛利家は毛利輝元、小早川隆景、吉川広家など毛利一族の武将達が皆茶人として素養が深かったことも萩焼発展に関係したようです。なかでも支藩長府藩初代藩主毛利秀元は優れた茶の才能を持ち、長州本藩主毛利秀就の後見役を務め、武将としては剛勇の誉れ高く、古田織部の高弟でもある名だたる茶人大名でした。徳川家光の御伽衆に加えられ、1640年には品川御殿に徳川家光以下幕閣諸大名を招いて大茶会を催しています。初期萩焼に見受けられる作風はその毛利秀元の茶人としての指向、影響が深く関係していたと考えられています。
萩焼は和物焼窯のなかで最も朝鮮茶碗に近い風貌を持ち、使い込むうちに風景が変化に富んだ渋い色彩、茶味を持ちはじめる俗に「萩の七化け」と称されています。全体の色彩は主に淡い琵琶色や乳白色の色彩です。日本の茶道の美意識を最も端的に表現した焼物であるとされ古来から慧眼の茶人達に愛玩されてきたが、真に質が高く品位ある古萩茶碗は少ないとされます。本歌の朝鮮茶碗に比べて和みのある佇まい、柔い雰囲気も特徴でしょう。
萩焼は大阪に来ていた朝鮮の陶工・李勺光を、豊臣秀吉が毛利輝元に預けたことに始まります。毛利家はその後、長州・萩に改易されたので、李勺光もこれに従って萩に移り、城下の松本村字中ノ倉に開窯します。その後、弟李敬を朝鮮から呼び寄せ協力し萩焼の原点を作りました。
李敬は帰化して初め坂倉の姓を名乗りましたが、後に坂の姓に改め、寛永二年に毛利家から「高麗左衛門」の日本名を賜わり、藩の御抱窯として代々この名前を世襲して現在に及んでいます。「萩焼」と呼ばれるようになったのは実は明治時代以降で江戸期には松本焼、深川萩と呼ばれていました。
「古萩」とは初期の萩焼を指します。ぼそっとしたやわらかい土がいわゆる古萩と言われるもので、このあと1700年代に入るとよりきめの細かな土で焼かれるようになります。一般的にはそれ以前のぼそっとした土のものを古萩と分類するようです。
古萩茶碗は基本的に高麗茶碗や井戸茶碗の写しを目指したような作風となり、膚、竹節高台、割高台、目跡など井戸茶碗にとても似た造りとなっています。これらを井戸茶碗、高麗茶碗と称すると贋作と言われることがありますが、古来日本の多くの作品が高麗や井戸を志向したので、土が違うからと贋作扱いするには慎重を期す必要があるでしょう。本作品は兜巾上の高台、割高台、高台の形状が三日月状など井戸茶碗の特徴が備わっていますが、見込み内には目跡がありません。
さて購入時の茶渋のような不自然な?汚れはきれいに落としました。
古色があればいいというものではありません。
茶碗を育てるということで茶渋のついたままにしておくのはただ汚いだけですね。
釉薬が変化するということと過度の茶渋は明らかに違うのでしょう。
調べた内容は作品に添付して遺しておくようにしています。
製作時期も含めて解明されくる事項は訂正されて更新するようにしています。