「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県長崎市  『 長崎くんち 』 それぞれの傘鉾

2012-10-10 21:25:38 | 旅行 ・ 温泉











『 長崎くんち 』 籠町の傘鉾









魚の町の傘鉾








江戸町の傘鉾








今博多町の傘鉾








玉園町の傘鉾












今年の演し物、今博多町 ( 傘鉾・本踊 ) 、魚の町 ( 傘鉾・川船 )
玉園町 ( 傘鉾・獅子踊 ) 、江戸町 ( 傘鉾・オランダ船 ) 、籠町 ( 傘鉾・龍踊 )
傘鉾は、メインの演し物が来る前に庭先を回り、アイヤーの掛け声でグルグル回る。
なんとなく 「 博多ぶらぶら 」 連想してしまう。




熊本県宇城市  「 不知火町松合の思い出 」

2012-10-10 20:42:09 | 探訪 ・ ドライブ



国道266号線の内側にある松合港 ( 旧・防波堤 )







松合港の風景







山の中腹から見た松合集落






山の頂部付近からみた松合集落( ビニールハウスが白く見える )






街中にある “ エビスさん ”







松合郵便局











松合と聞いて、一番に思い浮かべるのが霊視能力者の御船千鶴子である。
そして次に思い出すのが、財布と運転免許証である。

先ず、御船千鶴子さんだが、
彼女は明治19年(1886年)7月17日、松合の村で漢方医院を開く父・秀益の次女として生まれました。
幼いころから勘は鋭いものの、口数の少ないおとなしい女の子だったという。
17歳のとき、催眠術をかけられたことをきっかけに透視能力を発揮しはじめました。
ある婦人が海水浴中に指輪を海中に落とし、数十人が出て探したが見つからなかったそうです。
このとき千鶴子が透視して指示した場所を探すと、その通りにあった。

 この話を聞いた三井財閥本社が千鶴子を大牟田に連れていき、
当時わずかしか出てなかった石炭を透視させたところ「もう少し南に真っ黒い固まりが見える、
何だかわからない」と言いました。
掘ってみると炭坑の鉱脈にあたり、これが万田抗の起こりです。

 そんな彼女の透視能力に目をつけたのが、
当時、東京帝国大学で心理学を研究していた助教授の福来友吉博士でした。
福来博士は自ら熊本におもむき、15回もの透視実験を行いました。
鉛の茶筒などに錫箔を貼りつけ内容を隠した名刺を鉛の茶筒などに封入し、
その中の文字を透視するというこの実験を行ったところ、ほぼその内容を言い当てることができました。

 新聞がこのことを取り上げ、御船千鶴子の“千里眼”は全国的に知られるようになりました。
さらに明治43年(1910年)、彼女は上京し、
東京大学の学長以下13人の学者の目前で透視実験を行いました。
その課題は鉛によって密封された箱の中の紙片に書かれた文字を読むことでした。
実験の成功は承認され、新聞雑誌が書き立てさらに名声は高まりました。

 しかし、透視術に対する中傷、家庭内の不和などにより透視にも集中出来ず、能力の減退に悩み、
自分が服毒自殺した記事が書かれた次の日の新聞を透視して、
明治44年(1911年)1月18日、千鶴子は25歳で自らの命を絶ってしまった。

不知火町松合の小さな漁村で子どもたちと楽しく遊んでいたころが、
千鶴子は一番しあわせだったのかもしれない。


次に財布と免許証だが、新人の頃、岸本と毎日のようにこの場所で練習をしていた。
今のように広い道も真っ直ぐな道も無かったころ、
三角までのアップダウンを上り坂が来るたびに岸本と併走してダッシュして上っていた。
10個坂があれば往復で20本ダッシュすることになる。
そんな練習をして松合の道筋で練習着を着替えていた時に免許証の入った財布を落としていたのだろう。
それも気付かないまま、次の日の朝に松合の駐在所から電話があり、
「 お宅は財布ば落とされとるばってん、
免許証の無かてか、どげんして熊本さん戻られたですか? 」 って訊かれて、
「 私しゃ競輪選手だけん、いつもそこんニキば自転車で通りよります。
だけん、今から自転車で取りに行きます。」 って言って受け取りに行ったことがある。
そのとき、 「 お礼は要らんて言いよらしたけん、よかでしょ 」 って、そんなことを言われたけど、
後日あらためて財布を届けてくれた人に渡してもらうように、
駐在所まで車でお礼のお菓子を持って行ったことがある。

そんな松合の思い出である。



熊本県宇城市 「 松合橋 ( まつあいばし ) 」

2012-10-10 20:20:06 | 熊本の石橋































橋の近くにある 「 古いお堂 」






解体され港の広場にストックされている松合神社橋の石






かつて松合神社橋が架かっていた場所





所在地 / 熊本県宇城市不知火町松合
架橋  /  幕末 ( 1867年 ) ごろと推定
石工  /  不明
橋長  /  不明  橋幅 / 不明
径間  /  不明  拱矢 / 不明
単一アーチ




通路部と両岸はコンクリートで補強されているが、
その下に見える輪石や壁石はしっかりと組まれ、
今でも町内の主要道路であり、現役の橋として活躍している。

国道266号線沿いにある松合港に沿って家が建ち並ぶ松合地区は、
漁業の町であると同時に、白壁のある町としても有名である。
そんな町並みに調和するかのように石橋が架かっている。
以前は2基の石橋が架かっていたが、
松合神社前橋は解体され、石は復元されるまで港の広場に仮置きされている。
橋の近くの道筋には古いお堂の前にあり、前方には不知火海が広がっている。


これは余談だが、毎年、旧暦の8月1日の八朔の未明になると、
海上に現れる不知火を観るために大勢の観光客が訪れる。