「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県長崎市 「 肥前端島灯台 ( ひぜんはしまとうだい ) 」

2012-10-16 17:04:43 | 長崎の灯台









































所在地 / 長崎県長崎市高島町端島 
塗色  / 白色
構造  / 塔形   構造材質 / コンクリート造
灯質  / 単閃白光 毎3秒に1閃光
実効光度  / 実効光度 910カンデラ  
光達距離 /  9.0海里       
頂部までの高さ / 10.08m
平均水面から灯火まの高さ / 49.80m
現用灯器  / LD管制器Ⅱ型   電球 / D-0
設置、点灯および業務開始年月日 / S50.12.29


肥前端島灯台は、ご存知の方もおられるだろうが、
通称 「 軍艦島 」 に立つ灯台である。
端島炭坑が稼動していた時は、生活の灯りで灯台も不要だったのだろうが、
昭和49年に炭坑が閉山になって無人島になった昭和50年に灯台が立てられたことになる。



熊本県宇城市 「 猪白橋 ( いびゃくばし ) 」

2012-10-16 16:48:13 | 熊本の石橋






































所在地 / 熊本県宇城市網引町猪白
架橋  /  不明
石工  /  不明
橋長  /  約7m  橋幅 / 約2.5m
径間  /  不明  拱矢 / 不明
単一アーチ


平成10年3月に本網津橋が解体され、
旧・宇土市に確認されている石橋は8基である。
そのほとんどが舗装やコンクリートで補強され、
石橋本来の姿を見ることができない。

だが、この猪白橋は架橋当時の姿が見られ、
当時の石工の苦労や思いが伝わって来る。
先が行き止まりになっているため、
往来が少ないのも良い保存状態につながっているのだろう。



大分県豊後高田市  ・  国東半島 「 長崎鼻 」 ( 江口章子の歌碑 )

2012-10-16 16:05:02 | 文学・文化・映画作品



海に突き出た長崎鼻









国東半島 「 長崎鼻 」の鼻崎にある祠















鼻先の景色







海水浴場







駐車場にあるマップ









国東半島の先端部近くに突き出した半島 「 長崎鼻 」 。
近くに姫島が望み、遠くに周防灘を隔てて四国、中国を望める風光明美な半島である。
海蝕洞穴のあるリアス式海岸と黒松の茂る地に灯台、
キャンプ場、ログハウス(冷暖房完備)や売店などの設備が完備している。
国東半島北部の代表的な行楽地である。
















香々地の長崎鼻で江口章子の歌碑建立除幕式が行なわれたのは昭和53年2月26日である。


ふるさとの
  香々地にかへり 泣かむものか
    生まれし砂に 顔はあてつつ



江口章子は、大分県西国東郡(現杵築市)生まれ。
1904年、大分県立第一高等女学校入学。
1906年、女学校で見合いをして結婚。
大分市に新居。1912年、夫の不行跡に悩み出奔、平塚らいてうを頼る。
後に北原白秋を知る。1913年、三浦三崎に白秋をたずね、城ヶ島へ同行。
『城ヶ島の雨』はその時に作詩される。
章子、出奔の詫を入れ夫の元に帰る。1915年、協議離婚。
単身上京し「青鞜社」の仕事をする。翌年白秋と同居。
1918年、「新潮」に『妻の観たる北原白秋』を書く。この頃から章子の文芸活動が活発になる。
1919年、北原白秋と婚姻届出。1920年、白秋の『雀の生活』の跋文を書く。
「木菟の家」の新館建築に尽力。
5月に白秋と離婚。別府に帰り「銅御殿」(あかがねごてん)に柳原白蓮をたずね、少時そこに住む。
1921年、京都大徳寺に入る。1923年、一休寺住職と再婚し京都に移るが家を出て上京。
関東大震災にあう。1927年、中村戒仙と同居。1928年、詩文集『女人山居』出版。
1930年5月 死の約束をしていた生田春月が瀬戸内海で投身自殺、悲歎にくれる。
10月、中村戒仙と婚姻届出。この頃から神経を病む。
1931年、発病。京大精神科に入院し退院。1933年、法要時に裸身で座禅をくむ。
入院。1934年、詩集『追分の心』出版。1937年、脳溢血で半身不随となる。
1938年、中村戒仙と離婚。1939年、卜部鉄心と同居。
以降、脳溢血を繰り返し、1946年、脳軟化症で永眠。 /『城ヶ島の雨』(末永文子著)より



信州蓼科高原に観音堂建立、托鉢して資金集め、12年8月入仏式。
蓼科からの帰途、車中にて脳溢血で倒れる。

先述の歌碑の歌は、信州蓼科観音堂にいた章子から大分県中津市稲堀にいた
縁者利光ふみ子あてに送られたハガキ(昭和12年9月20日消印)の文面に書かれた望郷のうたである。


これは個人的な感想であるが、江口章子は恋多き女性だったと思う。
結婚依存症ではないが、おそらく恋をすることで創作意欲が湧いたのだろう。
そして恋する心の燃焼が消えかかると、新しい恋を探し、
常に新しい恋こそが彼女の原動力であったのだろう。
色んなタイプの人を好きになった彼女は、そのとき求めた相手が好きになった人だったのだろうが、
彼女は灰になるまで恋する女であり、歌人であったと、思う。