三の郭から見た城壁
頑丈に造られた主郭の城門
二の郭にあるウシヌジガマの拝所
主郭にある玉ノミウヂ御嶽
主郭から見た二の郭の殿舎跡
肝高の御嶽 ( キムタカノウタキ )
夫婦ガー
三の郭から二の郭への石段と城壁
主郭広場
主郭より金武湾に浮かぶ平安座島方面を望む
勝連城は12世紀ごろ築城されたグスクで、
最初の勝連按司は、大成王(英祖王統2代目)の五男であったとされ、
英祖王系の勝連按司は5代まで続く。
それ以降は後継ぎが生まれなかったので伊波按司の六男を養子に迎え、
6代目としたといわれる。
また、この伊波按司系はこの代で終り、7、8代目は浜川按司だと伝えられている。
そして9代目に茂知附(望月)按司が治めていたが、
15世紀前半に阿麻和利(あまわり)の攻撃によって滅びた。
その後、阿麻和利が第10代の勝連城主としてこの地を治めた。
その阿麻和利は北谷間切屋良村(嘉手納町屋良)で孤児として生まれ、
他人にない特異な才能を武器に、瞬く間に勝連城主へと昇って行ったが、
その落日も早かった。
護佐丸・亜麻和利 (ごさまる・あまわり) の乱
14世紀から15世紀の琉球は、中山・北山・南山の三つのグスクを拠点に按司が支配していた。
その中で特に強い勢力を誇り、1429年に三山を統一したのが中山の尚巴志(しょうはし)であった。
その尚巴志に従い、三山統一に功績を残した人物が護佐丸である。
護佐丸は恩納村の山田城主であったが、尚巴志が北山を滅ぼした後、
山田城を取り壊した石材を使って読谷に座喜味城を築き、
後に中城城へ移るまでの18年間を居城として過している。
一方、三山統一後に海外貿易の富で力を付けたのは、勝連城の阿麻和利であった。
その阿麻和利に対抗し王都首里を守るため、
護佐丸は首里城と勝連城との中間に位置する中城城に拠点を移し、
中部一帯の守りを固めた。
尚巴志の死後、琉球は国王の在位年数が短かったため国の基盤が安定せず、
首里城内でも王位継承の争いが起こるなど不安定な状態が続いた。
こうした王国情勢のなか、阿麻和利の勢力は尚泰久にとっては恐ろしい存在だったため、
泰久は娘である百十踏揚(ももとふみあがり)と阿麻和利を攻略結婚をさせるほどであった。
また、尚泰久の妻は護佐丸の娘であるため、百十踏揚は護佐丸にとって孫にあたった。
琉球の王位を望めるほど力をつけた阿麻和利は、
中城城の護佐丸の存在を疎ましく思っていた。
1458年に一計を案じた阿麻和利は、中城城の護佐丸が軍兵を集めて
謀反の動きがあると国王へ訴え、それを聞いた泰久は、
護佐丸を倒すために阿麻和利を総大将に命じて軍隊を中城城へ派遣した。
その結果、護佐丸は阿麻和利の率いる王府軍に中城城を攻められ、
無実の罪を着せられて自害してしまう。
一方この戦いに勝利した阿麻和利は、王位を奪うための準備をしている最中に、
百十踏揚の家来である鬼大城(おにおおぐすく)にその策略を気付かれ、
逆に王府軍との戦になる。
鬼大城 (おにおおぐすく) の活躍と最後
王府軍との戦いで首里城攻めに失敗し、命かながら勝連城に逃げ帰った阿麻和利への、
鬼大城を総大将とした攻撃もなかなか勝敗が決まらず長引いていた。
そこで勝連城内の地理に詳しい鬼大城自ら城内へ忍び込んで行き、
阿麻和利の首を討ち取ったという。
その活躍により尚泰久から越来(ごえく)と具志川の両間切りの地頭に命じられた。
また、百十踏揚を妻に迎え、越来城を賜った。
(一説には勝連城を賜ったとも言われている)
城は、沖縄本島中部の与勝半島の丘陵地にあり、五つの郭から構成される連格式で、
二つの台地とその間に平地を取り囲んで築かれた素晴らしい眺望の城である。
グスクの主郭に玉ノミウジ嶽 ( 神名・コバツカサノ御イベ ) があり、
丸い石は霊石である。
二の郭には、肝高ノ嶽 ( 神名・イシヅカサノ御イベ ) がある。
勝連城址へのアクセス
勝連城址は沖縄中部にある与勝半島の真ん中付近に位置し、
旧勝連町(現・うるま市)を県道10号線で海中道路の方向へ進み、
与勝交差点を右折すると左の山の上に城が見える。
また、手前の川田から県道16号線でも行ける。
駐車は、三の郭が駐車場になっているので、上り口まで車で入って行ける。