フランクフルトへ向う車の中で、「教会は異端者が必要か」というフォーラムの放送を聞いていた。各宗派から現役の大学教授や執筆家の神学博士をお招きして、討論させている。特にユダヤ教との討論が激しく為される。プロテスタンティズムの聖書は、読めば読むほど争点が顕著となるようだ。特にユダヤ人向けに書かれ、救世主キリストによる旧約の成就を記した「マタイによる福音」は相容れないものとなる。聖書を金科玉条とする教義が独善そのものであることは当然だが、今日の教育者でも倫理学者でもある神学者がこれを語るとドグマを超えて滑稽でさえある。故に独善と寛容の矛盾する二面性を自らが内包しなければならないのだろう。
バッハの受難オラトリオも、マタイによる福音によるものは特別なようだ。ドラマティックな要求から二組の合唱と二群の楽団に分かれていることも特筆される。ヨハネによる福音のものは1723年3月26日にライプツィッヒで初演され、その後そこのトーマス教会の職に就く。そしてマタイは、最近の研究によれば1727年に第一版が初演されたとある。100年後の1829年のベルリンでのメンデルスゾーンの復活再演が象徴するように1729年に少なくとも再演されている。一昨日のプログラムには、その後1736年から1742年にかけての作曲家本人による改訂版の上演が記されている。
この様な特別な編成の解釈に、トーマス教会には二つのオルガンが存在したからだとか、ヴェネチアの二重合唱の様な音響効果を指摘する向きもある。現に今回の公演も数年前に会場の音響を理由にお流れになった経緯がある。前回同じコンサートホールで経験した公演は、二組の特色の違う団体が掛け合う形式になっていた。
ピカンデルが作詞したマドリガルの部分で、独唱と合唱のディアローグとなる。「独り言やモノローグをドイツ語では二人称を使うという著名なドイツ語学者の話」を思い出した。実際には自分に「君」と話しかけるのは決して普通ではないのだが、だからこそそれを使う場合は「視点の移行」としての特別の意味を持つ。掛け合いの意味は?あのようなミサを作曲したほどのバッハが、音響効果だけでこのような手段を採っただろうか?この作曲家の楽譜には、ルネッサンスの作曲技法を継承して聞き取る事の出来ない数字やシンボルが隠されていることは周知の通りである。ここでも定旋律の利用だけでなく、最終稿では聖書の言葉が赤インクで書かれているようだ。
現代においてこのような受難オラトリオが「真面目に真っ当に」演奏される事は、益々少なくなって来ている。バッハ作曲においても、マタイよりもヨハン、ヨハンよりもマルコ受難曲の方が、TVソープオペラ「ビッグブラザー」宜しく、ベネルクスの音楽家達の秀逸した演奏によって、直裁に遥かに多くを訴えかける。これらこそが、中欧文化先進国の今日の感性と白けた日々の生活感そのものなのである。
バッハの受難オラトリオも、マタイによる福音によるものは特別なようだ。ドラマティックな要求から二組の合唱と二群の楽団に分かれていることも特筆される。ヨハネによる福音のものは1723年3月26日にライプツィッヒで初演され、その後そこのトーマス教会の職に就く。そしてマタイは、最近の研究によれば1727年に第一版が初演されたとある。100年後の1829年のベルリンでのメンデルスゾーンの復活再演が象徴するように1729年に少なくとも再演されている。一昨日のプログラムには、その後1736年から1742年にかけての作曲家本人による改訂版の上演が記されている。
この様な特別な編成の解釈に、トーマス教会には二つのオルガンが存在したからだとか、ヴェネチアの二重合唱の様な音響効果を指摘する向きもある。現に今回の公演も数年前に会場の音響を理由にお流れになった経緯がある。前回同じコンサートホールで経験した公演は、二組の特色の違う団体が掛け合う形式になっていた。
ピカンデルが作詞したマドリガルの部分で、独唱と合唱のディアローグとなる。「独り言やモノローグをドイツ語では二人称を使うという著名なドイツ語学者の話」を思い出した。実際には自分に「君」と話しかけるのは決して普通ではないのだが、だからこそそれを使う場合は「視点の移行」としての特別の意味を持つ。掛け合いの意味は?あのようなミサを作曲したほどのバッハが、音響効果だけでこのような手段を採っただろうか?この作曲家の楽譜には、ルネッサンスの作曲技法を継承して聞き取る事の出来ない数字やシンボルが隠されていることは周知の通りである。ここでも定旋律の利用だけでなく、最終稿では聖書の言葉が赤インクで書かれているようだ。
現代においてこのような受難オラトリオが「真面目に真っ当に」演奏される事は、益々少なくなって来ている。バッハ作曲においても、マタイよりもヨハン、ヨハンよりもマルコ受難曲の方が、TVソープオペラ「ビッグブラザー」宜しく、ベネルクスの音楽家達の秀逸した演奏によって、直裁に遥かに多くを訴えかける。これらこそが、中欧文化先進国の今日の感性と白けた日々の生活感そのものなのである。