Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アマデウス君への反対尋問

2005-03-12 | 文化一般
ベルリンの新しいモーツァルト肖像の真偽に関して有力な疑問が呈され、これをFAZ紙が伝えている。原告のミュンヘンの国立公文書資料館は、先ず何よりも経済危機にあった作曲家が堂々として太り気味なのが気に入らないらしい。伝承されている熱狂的な作曲家の眼に対して、青く丸い眼が描かれているのも気に食わない。申し立て理由として、その言われる日程では画家に描かしている時間が無かったというのである。更に当時の常として、描かれた人物の本業への示唆が何処かに入っていて然るべきと言うのである。当地で有名だった作曲家のその絵が、何故作曲家の死直後に見付からなかったのかと問う。画家側の全作品カタログにもこの作曲家の名前がないのも事実だ。1906年にミュンヘンのグラスパラストでこの絵と共に展示されたペンダント型の女性画に、この緑色の燕尾の男が寄り添って描かれていると言う。コンスタンツ・モーツァルトは、当時ミュンヘンには居ない。つまりその夫婦は別人で、嘗てアマチュア家族研究家によって調べられていた。該当の絵は、1934年にベルリンへと売却されて、その一枚は紛失した。公文書資料館は、描かれていた人物はシュタイナーといいミュンヘンの市議であって、「プロイセンは、またもやミュンヘンから市議を、モーツァルトをベルリンから奪い取った。」と断言する。

これによって真偽が覆されても一向に構わない。その節ネットでネオナチ団体などのサイトがこの新しい肖像画の記事を扱っているのを見た。それらのサイトのように情報の一部を拡大して英雄崇拝したり何らかの神格化に勤しむ向きにはこのような情報の混乱は困るのではなかろうか。そのような人達にとっては、些細な情報の一つ一つが都合の良いように積み上げられて重要な論拠になっているからである。本来は証拠開示も、被告が存在しない限り、用を成さないと思うのだが。

ネットサーフィンをしていて、「理論物理学者アインシュタインの業績は本人でなくとも誰かが必ず完成させていたが、モーツァルトの作曲は他の誰にも出来ない。」と云うような一節が目に入った。確かに情報集積的な学術と新奇な発想を狙う芸術の場合は大いに異なるが、特に理論体系の構築や概念掌握への探求は前者の理論自然科学分野ものであり、後者では伝統継承されたものを実験素材として具象化する方法に重きが置かれる。実際モーツァルトは、同業者シェーンベルクとは違い、理論の構築による創作の経済には殆んど寄与していない。それどころかその作品は、絶えず消費され使い古される危機に面している。

物理学者アインシュタインの数学力なども既に周知のことで神格化をする必要は無いように、作曲家も同様である。教育環境や時代・社会背景などの偶然と必然も大きな要素となることをここから学べる。只、洞察力や主義の相違が創造への具体的な希求の違いになるので、この様な比較の例えは些か具合が悪い。天才が天才たる所以は、発想の展開を辿ってこそ初めて立証出来る。


参照:達人アマデウスの肖像 [ 音 ] / 2005-01-19
コメント (9)
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