Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

朕強クリースリングヲ欲シ

2005-03-30 | 歴史・時事
パリでリースリングが最高の評価を受けたようだ。フランスで最も権威のある二人のワインジャーナリスト、ミシェル・バターニュとティリー・デスーヴの両名は、外国産ワインとして2002年モーゼルのワインを、国内産として2003年シャトー・ラトューとシャトー・ディケームを2005年の世界最高ワインとして選んだ。この選に漏れたのは、イタリア、南アフリカ、カリフォルニア、スペイン、イタリア産の殆んど礼賛されているワインである。

ドイツワインのフランスにおける冷遇は、世界市場でのそれに影響している。ここに、政治文化的な独仏関係が影を落とす。これは、ボルドーなどで訊ねたワイン関係者も同様なことを口にする。特にドイツのリースリングやワイン栽培に詳しい者は、「私は、ワインに関しては愛国者だ」とはっきりと言う。彼女が言いたい事を代弁すると、「リースリングが特別な白ワインだと承知しているが、アルザスのリースリングもある訳で、何もドイツのリースリングを貴重がることは無い」と言う事になりそうだ。

実際、アルザス産リースリングもパリにはあまり出荷されないという。ピノ・グリやゲヴュルツトラミナーを出荷すれば事足りるからという。フランスの白ワインも勿論優れたものは多いが、このリースリング種の強い個性を敬遠する心理が何処かに働いているようである。そして、モーゼルだけでなく中部ラインやプァルツのライン渓谷の土壌、風土や歴史的関係を無視する事は出来ない。歴史を手短に覘いて見る。

プァルツ伯フリードリッヒ五世は、自治が進んだプロテスタント側の首領としてプラハへ兵を送りボヘミア戦争を引き起こす。これが欧州を広範囲に戦場化した三十年戦争(1618-1648)の幕開けである。彼のハイデルベルグ城の庭は、観光ガイドから説明を受ける様に、彼が妻のエリザベト・スチュワート-英国の芝居等で最も有名なマリア・スチュワートの孫-のために改造したものである。この二人の間に生を享けたカール・ルートヴィッヒは、戦後にヴェストフェーリアの講和によってプァルツ選帝侯に復帰して領地を立て直す。しかし彼は戦略長けすぎて、娘シャルロッテを、太陽王ルイ14世の弟、オルレアン公と結婚させる。この事が裏目に出て1685年の選帝侯の死後、様々な圧力を受けてプァルツ継承戦争へと繋がっていく。

太陽王ルイ14世は、既に神聖ローマ帝國からアルザスやロレーヌでの覇権を獲得しているので、ライン河西岸の地域に興味を持った。そうして「リースリングワインの産地を手に入れよう」とプァルツに兵を進める。これはどの歴史書にも見付からないかもしれないが、これには 不 確 か な 根拠がある。それは、ハンガリーのトカイワインを絶賛したという王の嗜好だけでなく、アルザス・ロレーヌ地域における淡水魚の広大な養殖池などの整備や大西洋の経済領海権問題に見る食料生産のルイ14世もしくは宰相コルベール(1619-1683)の政策である。土地を征服する時に、戦略以外に経済を考えたのは当然であろう。しかし実際は、「Brulez le Palatinat/プァルツを焼き尽くせ」とフランス軍将軍マラックが言ったように三十年戦争でも温存されたワイン栽培を含めてプァルツは焦土化*した。こうして重要な側近が居なくなった後、反仏大同盟となった諸国と向かい合い戦う膨張政策が財政難を招いた事は教科書に書いてある通りである。

ワインは、歴史の中でもその土地や風土と結びついて文化となっている。独仏におけるワイン競争は、現在でもその守っていかねばならない文化と同一市場での自由競争という相反する要素の相克でしかない。



* 1689年5月31日、城壁の町フラインスハイム外れから、マンハイム、ハイデルベルク方面を望む。左よりベルクシュトラーゼのオッペンハイム、荘園の町ヴォルムス、神聖ローマ皇帝ドームのズパイヤーに煙柱が昇る。この町も四ヵ月後に壊滅する。近隣の多くの町の住人は、近くの砦に逃げて篭ったという。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする