Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

楽のないマルコ受難曲評II (14.18-14.44)

2005-03-24 | 
マタイオスによる福音の方では、26章1節に始まって16節までに相当する。そこでは、冒頭の二群合唱に始まり、コラール「心から愛するイエスよ、あなたは何を犯されたのか」(へールマン詞、ヨハン・クリューゲル曲)、レチタティーヴォ「愛する救い主よ」、アリア「悔いと悩みが」が歌われる。

さて、マルコスに戻って先に進もう。

14章18、19 イエススが都で弟子たちと食事を摂っている時、この中の一人が裏切ると言うと、弟子達は銘々、私ではありませんねと言う。「私、私の罪、海の砂の如く、この小粒の砂があなたを困窮に追いやり、それが贖罪のあなたを悲しくさせます。」。私、そうあなたですと言われると、やすやすと否定出来ない。千丈の堤も蟻の一穴。ヨハネ受難曲の11番コラール「だれがかくもあなたを打ったのかと」の第二節の歌詞である。

14章25 イエススは、神の国で新しいものを飲むまでは葡萄の実で作ったものを飲むことは決してないだろうと言う。ダカーポアリアで、「主よ、忘れません。心に刻みます。私は、あなたの体と血を享受して、その慰めはあなたに向けられます。」。微かな記憶に呼びかける。体のどこかで覚えているあの懐かしい何か?世界との繋がり、パンの香ばしさワインの芳香。だから全ての慰めは感謝となる。

14章27、28 イエススは、お前達弟子は離れていく、「私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」と書いてあるからだ。しかし復活後にはガリラヤにはお前たちより先に行くと言う。「人類よ。目覚めよ。罪深い眠りから。元気を出せ。喪失の羊。改心せよ。時は来た。永遠の時が、あなたへの褒美として。今日が最後の日かもしれない。死がどのように訪れるか誰が知ろう。」。日常の生活からの覚醒を迫る。言えば、健康体であろうとも誰もが、突然訪れる死への恐れをもって生活しているわけだ。通勤中に、ルーティン化した生活の中ではたとそれに気つく。さてその意識がどちらへと向けられるのだろう。

14章34 イエススは、「私は死ぬほど悲しい。ここにいて、目を覚ましていなさい。」と言うと、「悲しい心は、未来に希望がある。あなたは、少しも怯まない。あなたの磔も苦難も嘆きも、全ては間もなく明らかな喜びに変わるのです。それを間近に控えています。」と歌う。死を恐れ悩みつつの行動は人に確信を与えるのか?復活を知っているからなのか、天上の喜びか?確信をもって励ましを語るものは、何を知っているというのか?ただ、私たちが知っているのは間もなくやって来る時である。

14章36 イエススは、「しかし、私が望むことでなく、お望みになることが行われますようにと」祈ると、「神よ、私ともども御心のなすままに、苦しむ私をお助け下さい。願う限りは叶わぬ事はありません。もし私の心が離れるならば、どうかお好きなように。終わりよければ、全て良し。」。分からないから、身を投げ出してみる。あるがままに受け入れられれば終わりが良いのか、終わりが良いから苦悩から開放されるのか?

14章42 イエススの「私を裏切る者がやって来た。」に対して、「来た。そこだ。イエススよ、追手は迫っている、逃げろ。そしてあなたの代わりに、一網打尽にしておくれ。」。気を揉んで逃げろと促すのは良いが、身代わりになろうというのは本当だろうか。どうも歯切れが悪い。

ここまでが、マタイオスの福音によると26章46節までである。マテウス受難オラトリオでは、アリア「血を吐く思いを心に噛みしめよ」、コラール「罪を償うべき者は、この私」(パウル・ゲオハルト詞、ハインリッヒ・イザーク曲)、レチタティーヴォ「わたしの心は涙にむせんでも」、アリア「私の心を主に捧げよう」、コラール「私を認めたまえ、わが守護者よ」(パウル・ゲオハルト詞、ハンス・レオ・ハスラー曲)、「わたしはここで、あなたのそばにとどまる」(パウル・ゲオハルト詞、ハンス・レオ・ハスラー曲)、レチタティーヴォ「ああ、なんという痛み。もだえる心は、ここにおののく」、アリア「わたしは、わがいえすのそばで目をさましていましょう」、レチタティーヴォ「救い主は、御父の前にひざまずきたもう」、アリア「喜んで、わたしは覚悟しよう」、コラール「神の御旨が、つねに成就せんことを」(ヨアッヒゥ・マグデブルク詞)となる。(IIIへ続く)

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