Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

影に潜む複製芸術のオーラ

2005-03-23 | 文学・思想
レコードプレーヤーを買う羽目になった。10年ほど前にリゾースを生かすために購入したプレーヤーが故障したからだ。時間があれば直してみるが、修理しても更にこの先10年間安心して使える代物ではない。最後のプレーヤーと思っていたが、そうはならなかった。

実はその後もLPレコードを新中古市場で入手した。特別の興味は無かったのだが、序でがあれば立ち寄って漁った。ある店で自分の選んだ分を横に置いて確保していると、今は亡き名ピアニストらしきが孫娘を連れて来て漁りだした。嘗ての共演者や同僚のものを選んでいたと思う。あまりに大物過ぎて楽器屋の店の者も気がつかなかったようで、本人にも尋ね辛らかった。そのヴィーン訛りが今も耳に残っているが未だに半信半疑である。店を一歩外へ出ると、玉ねぎ双頭の塔がくっきりと静かな影を投げかけ、広場はひんやりとしていた、ある夏の午前中であった。

そのような趣味の世界は過去のものであるが、以前に上手く鳴らなかったLPについ針を下ろしてしまう。つまり様々な編成の優れた録音内容を、白昼の下に 曝 し た い のである。そして気がついたのは、この新しいプレーヤーはそのような場合にありがちな摘み聞きを許さない。例えばピアノのタッチが活き活きして来て急に音楽的に鳴ってしまう。オーディオ機器でオルガンを鳴らすことも難しいのだが、柔らかなペダルや楽器のレジスターを可笑しな程に生々しく再現する。生の奥ゆかしさがある。だから内容を聞いてしまう。つまらない内容のものは、直ぐに弾きだされる。

往時のオーディオ雑誌を模倣すれば、ターンテーブルやトーンアームや箱の共振が再生周波数に肯定的に働き音楽的な表現を可能にするのだろう。中音域成分が幾分増強されていると予想するのだが、現在までの使用では然したる色づけは感じられない。全ての弦楽器があえて言えば、ガット弦になったような傾向があり、実際よりも磨きがかかり過ぎている。通信販売で購入したのだが、これを理由にクーリング・オフする人があるだろうか。

しかし他の機器が決してハイエンド商品ではないので、これに文句をつける必然はない。未だに生産販売している事も驚きだが、20世紀を通して培われた、恐らく耳で鑑定したノウハウの蓄積に驚きを禁じえない。さてこの商品は、スイスのトーレンス社の中級品である。最高機種は、現在も放送局のスタジオでテクニクス社のものと業務市場を分けている。現在の一般市場に€50からある商品の中では随分と高価で懐が痛い。しかし以前使っていた英国レガ社の同価格帯のものと較べると廉価に入手出来て遥かに価値がある。

こうして汎用デジタル機器と違いこれを趣味とする人がいる理由を改めて確認した。こうなると、オーディオにおける聴空間と複製芸術の哲学に触れないわけにはいかない。要するにヴァルター・ベンヤミンが定義したオーラと云うものである。彼自身による最後の定義を出来る限り即物的に訳すと、「ある夏の午後、地平線の山脈をもしくは木の梢を、ゆったりと追いかけている。そこにその影が静かに投げかかっている。そこで知覚されるものがその山と梢のオーラである。」となる。現代におけるオーラの腐朽をこの定義を基に論じ、テオドール・アドルノとの間で芸術論議となっていく。その影に静かに佇む人は、何も哲学論議を待たなくとも、帰納法を使ってオーラを認知出来る。これをもってデジタル解析のオーラ不在をも証明出来たのではないだろうか?


参照: 
究極のデジタル化 [ テクニック ] / 2004-11-29
マイン河畔の知識人の20世紀 [ 文学・思想 ] / 2005-02-04
ワイン商の倅&ワイン酒場で [ 文学・思想 ] / 2005-02-04
映画監督アーノルド・ファンク [ 文化一般 ] / 2004-11-23
コメント (12)
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