101匹の犬も白雪姫もトムとジェリーも出てこないアニメを見るのは辛い。それでも、最初の30分ほどを飛ばして、話題の「千と千尋の神隠し」のTV放映を初めて観た。
正直最後まで見るのは辛かったが、劇場で凝視しただろう子供たちの事を思うと居眠りするわけにもいかない。宇宙戦艦もハイジも殆んど観ていない人間にとっては、これ以上に遥かに精密な画像のアニメ映画を知っているといっても、このようなアニメの新スタンダードへの初めて遭遇である。
TVの画面と云う条件では、画像や描かれる表情には全く感心しなかった。先入観念を大きく裏切ってくれたのは、その物語の展開だろうか。日本の中世からの伝説とか云われても全く見当すら付かなく、「家無き子」や「おしん」やら「ハイジ」しか思い出さないのは教養の貧困だろうか。
何よりもスカトロジーなどのイメージは、子供たちに受ける要素であるのは確認できた。大人がこれら物の怪やグロテスクを見るのと、子供たちが感じるものは大分違う。子供の感性の方がそれら根源的なものに近く、教化・啓蒙されるに従って伝統的なモラルや美意識に縛られるようになる。
社会の小児化が語られる事が多い。先日も今話題の意固地な同性愛者である若い独自由党首の「若くても、馬鹿とは限りません」と首相に噛み付いた発言が挙げられていた。平均寿命の伸長にも依るのかもしれないが、様々な現象が例として挙げられるらしい。しかし、これは上のように考えてみると、伝統的なものからの解放にも起因している。
序でに云えば、同性愛の社会的公認も伝統からの逸脱に当たり、小児化だけが顕著な現象とはいえない。これらは全て原理主義へのアンチテーゼであって、それらがジェンダーのようなイデオロギーとならない限りは広く社会に受け入れられる素地がある。マルチカルチャーが主義として捉えられる時には、それは広くは受け入れられないが、社会認識としては誰も否定しない。
これが本題のアニメ映画が世界の観衆に受け入れられた理由であって、その支持があってこそ幾多の映画賞に輝いたと思われる。それなくしては、作者のパシフィスト的な言動や作品の出来上がりだけではここまで評価されなかっただろう。子供たちの支持があってこそである。
そして日本のアニメが日常世界中の茶の間で観られている地盤があってこそ、それらが文化の記号となって理解されている背景がある。ハイジのアニメを見る人が居るからこそ、ハイジの故郷が観光対象になるようにである。同じ白黒映画の実写の世界は、たとえそこでロケをしても、何処にも存在する村だから、その特定の村は何処にも存在しないのと同じとなる。
特定の象形にデフォルメするアニメの世界の方が、現実の村よりも遥かに記号化されていて同定され易い。何かを表現する時に文化の記号を使う本歌取り自体は、至極当然である。しかし、ここにはプログロマチスティックと云うものに代わって、折衷と云う主義が横たわっている。または、所謂言語を土台としたロゴス中心と云うものに代わって、象形文字中心と云う主義が存在する。アニメ通は、これらに多くの解を発見する事が出来るであろう。
ベルリンの賞の賛辞の内容は知らないが、至る所にミヒャエル・エンデを発見したりするのもそのような作業である。しかし写真で見る道後温泉その他のイメージを抱いた人は少ないであろう。
その意味から、この映画は相対的でありポストモダーンであることには間違いないが、観衆は絶えずプロジェクターのこちら側にいて、現実の定まった所に生きている事も忘れてはならない。
しかし、寧ろハリウッド映画の予告編にあるような、海賊のホックでもないのに腕が伸びたりする昨今流行の人造人間の映画の方が、勧善懲悪の現実のようで大変気になる。
参照:
漫画少女の能動的プレイ [ 雑感 ] / 2006-04-10
魔除けの見下ろす教会塔[文化一般] / 2005-07-06
固いものと柔らかいもの [文学・思想] / 2005-07-27
バロックオペラのジェンダー [ 音 ] / 2005-02-20
現代人の断食 [ 数学・自然科学 ] / 2005-02-11
正直最後まで見るのは辛かったが、劇場で凝視しただろう子供たちの事を思うと居眠りするわけにもいかない。宇宙戦艦もハイジも殆んど観ていない人間にとっては、これ以上に遥かに精密な画像のアニメ映画を知っているといっても、このようなアニメの新スタンダードへの初めて遭遇である。
TVの画面と云う条件では、画像や描かれる表情には全く感心しなかった。先入観念を大きく裏切ってくれたのは、その物語の展開だろうか。日本の中世からの伝説とか云われても全く見当すら付かなく、「家無き子」や「おしん」やら「ハイジ」しか思い出さないのは教養の貧困だろうか。
何よりもスカトロジーなどのイメージは、子供たちに受ける要素であるのは確認できた。大人がこれら物の怪やグロテスクを見るのと、子供たちが感じるものは大分違う。子供の感性の方がそれら根源的なものに近く、教化・啓蒙されるに従って伝統的なモラルや美意識に縛られるようになる。
社会の小児化が語られる事が多い。先日も今話題の意固地な同性愛者である若い独自由党首の「若くても、馬鹿とは限りません」と首相に噛み付いた発言が挙げられていた。平均寿命の伸長にも依るのかもしれないが、様々な現象が例として挙げられるらしい。しかし、これは上のように考えてみると、伝統的なものからの解放にも起因している。
序でに云えば、同性愛の社会的公認も伝統からの逸脱に当たり、小児化だけが顕著な現象とはいえない。これらは全て原理主義へのアンチテーゼであって、それらがジェンダーのようなイデオロギーとならない限りは広く社会に受け入れられる素地がある。マルチカルチャーが主義として捉えられる時には、それは広くは受け入れられないが、社会認識としては誰も否定しない。
これが本題のアニメ映画が世界の観衆に受け入れられた理由であって、その支持があってこそ幾多の映画賞に輝いたと思われる。それなくしては、作者のパシフィスト的な言動や作品の出来上がりだけではここまで評価されなかっただろう。子供たちの支持があってこそである。
そして日本のアニメが日常世界中の茶の間で観られている地盤があってこそ、それらが文化の記号となって理解されている背景がある。ハイジのアニメを見る人が居るからこそ、ハイジの故郷が観光対象になるようにである。同じ白黒映画の実写の世界は、たとえそこでロケをしても、何処にも存在する村だから、その特定の村は何処にも存在しないのと同じとなる。
特定の象形にデフォルメするアニメの世界の方が、現実の村よりも遥かに記号化されていて同定され易い。何かを表現する時に文化の記号を使う本歌取り自体は、至極当然である。しかし、ここにはプログロマチスティックと云うものに代わって、折衷と云う主義が横たわっている。または、所謂言語を土台としたロゴス中心と云うものに代わって、象形文字中心と云う主義が存在する。アニメ通は、これらに多くの解を発見する事が出来るであろう。
ベルリンの賞の賛辞の内容は知らないが、至る所にミヒャエル・エンデを発見したりするのもそのような作業である。しかし写真で見る道後温泉その他のイメージを抱いた人は少ないであろう。
その意味から、この映画は相対的でありポストモダーンであることには間違いないが、観衆は絶えずプロジェクターのこちら側にいて、現実の定まった所に生きている事も忘れてはならない。
しかし、寧ろハリウッド映画の予告編にあるような、海賊のホックでもないのに腕が伸びたりする昨今流行の人造人間の映画の方が、勧善懲悪の現実のようで大変気になる。
参照:
漫画少女の能動的プレイ [ 雑感 ] / 2006-04-10
魔除けの見下ろす教会塔[文化一般] / 2005-07-06
固いものと柔らかいもの [文学・思想] / 2005-07-27
バロックオペラのジェンダー [ 音 ] / 2005-02-20
現代人の断食 [ 数学・自然科学 ] / 2005-02-11