Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

正統的古楽器演奏風景

2005-11-13 | 
アーノンクール氏が京都賞を受賞したと知って、出世作の録音「イドメネオ」などを鳴らしてみた。当時の衝撃は再認識出来るが、授与理由は当然古楽の実践として、バロック音楽の演奏にあるのだろう。オペラセリアでのバロックの実践を考慮した演奏に至るまでの実践母体コンツェルトス・ムジクス・ヴィーンとの実演を思い出すとともに、録音を振り返ってみる。手元にあったテレマンのダルムシュタット序曲集は面白い。

同時代のバッハよりも遥かに高名であったテレマンが、リュリの序曲を手本にフランス組曲として挑んだ作品群である。管と弦の四声づつの掛け合いになっていたりして、意匠を凝らしている。最近はフランスバロックのリュリやラモーのオペラの上演においても、ウイリアム・クリスティーを代表とする演奏スタイルに既に耳が馴染んでおり、当時テレマンがハンザ都市やフランクフルトで試みた意図が良く理解出来る。このテレマンの録音がリリースされた当時は、体感としてそのように充分な比較は出来なかった。

これは、古楽演奏の実践の変遷を示している。演奏技術の詳細に迫る事は出来ないが、その様式感や現代風のサウンドは、学術的な見解は別としても古楽演奏として十分な成果を上げて来ている。先週末に定期コンサートでオーストリーの古楽団体を迎えた。比較的未知の曲が多かったが550席中500席が完売されていた事で、古楽器演奏のバロックの人気が知れる。しかし実際の演奏は、様式もサウンドも充分に示す事が出来ない中途半端なものであった。バッハへと繋がる中・北ドイツのブクステフーデ以降の伝統的様式や変遷を示すには勉強・力不足であり、恐らく今後我々のフランクフルトの会にはお声が掛からないであろう。奏法の確立や秀逸が即、営業にはならないことを示していた。

音楽市場は、古楽器演奏に近代奏法の音量や精妙さを求めるわけでもなく、サウンドの物珍しさを求めるわけでもないが、理に叶った実践を求めている。多くの古楽器を使った古典派の弦楽四重奏曲演奏などは理に叶わない実践である。

ムジカ・アンティカ・ケルン等より若い世代の台頭が目覚しいのも理由であったろうが、アーノンクール氏が弾き振りのコンツェルトス・ムジクスよりも近代的な交響楽団を使ってロマン派以降を試みる方へと活動が移った背景には、大ホールで大人数を集めなければ営業が成立しない近代の社会状況がある。それを補う録音と言う手段自体も、ライヴコンサートの実績と名声に依存するので、質やプログラムに拘るには限度がある。

こうして当時商売にならなかったであろう録音を聞いて、アーノンクール氏の最新の興味あるプロジェクトが不完全な形でしか上演されなかったりするのを知ると非常に残念である。このような状況は芸術家にも責任があるが、数ある興味あるプロジェクトがポップスのツアー公演のように世界中を廻れるような形になっていない事にも原因がある。大劇場間では、予算の効率化から世界中で共同制作が進められているので、この傾向が劇場の枠を越える所でも広がることを期待したい。
コメント (4)
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