ドイツ人の顔つきが悪いと私の周りでは、自己批判する人が多い。ちらちらと以前から聞いていた事でもあり、なんとゲーテ・インスティテュートでも教材に挙がっていたように思う。だから特別には気を引かない。そしてその都度この原因については、解析を試みるのである。前回は、恐怖心から来る戦闘意識を挙げるに留まったが、今回は知恵をつけて他の説明を試してみよう。
今回の発端は、ブレーメン出身で自らを南への移民と言う男性とルターやニッチェのお膝元出身のカトリック女性の自己批判であった。道行く人の顔つきが怒っている様で悪いというのだ。これは、旅行者として欧州各国を廻ると南から北へとこの傾向が強くなる事に気が付く。ドイツの南北の違いも良く挙げられて、大抵の人は南が良いというのだが、それは道行く人の表情だけの差であるという批判も多い。つまり南ドイツも所詮同じであるという意見である。
キルケゴールの没後150年を記念して、咋11月11日に特集のTV番組などが流された。偶々深夜の番組を付けたが、流石に眠くなる内容である。裕福な家庭に生まれ一生を精神的な生活で突き通したデンマーク人である。父親の感化が面白い。実存主義の祖としての人気も然る事ながら、プロテスタントの信仰姿勢を越えてドイツ人の人生哲学になっているようである。
言えば、あの世よりもこの世は厳しく、懐疑の連続なのである。それだけならば、ベブライズムに繋がるかもしれないが、余り観念的にならず、実感を大切にしていくと違ってくる。そもそも現実の生活は、その気候からして比較出来ないほど厳しい。一日たりとも平安な日は無い。何かをなして報われるよりも、報われないのが普通である。収穫は限られる。葡萄などが育つ地域は、遥かに南である。
一分の零は定義されるが零分の一が定義されないように、何一つ反照されないのである。影があるならば暗くても良いが、そこには影すら存在しない。虚無すらも存在しないので自覚すら経験出来ない世界に対峙しなければいけない。そのような空虚な世界に何を期待しろと言うのだ。それを「生きよう」とすると、上述するような苦渋すら示さない、顔が引きつる事も無い麻痺した感覚が残る。それでも、歩みを進めるので、仕方なく不安ながら暗黒の空虚に対峙しようとすると独特な表情となる。これが、ドイツの赤ワインのように固い、ドイツ人の生きる顔である。北欧の碧眼の瞳の中などにはこの空間が映し出されていることが良くある。所謂、何も考えていない目で、これは懐疑の段階を乗り越えた表情を示す。
南のカトリックには、零が存在すれば、必ずやそこには光に照らされた影のように、もしくは青空を背にしたアルプスの高嶺の稜線の輝きのような反照があるのではないだろうか。ブルックナーの交響曲の全休止やヴェーベルンの作品の休止には、間があり、律動がある。律動が無いところには、自らの鼓動も間も何も存在しない。それでも、そんなところにも何故か日々の生活がある。そこでは生は、死よりも何層倍も懐疑に満ち溢れている。
参照:
麻痺に遠のく外界 [ その他アルコール ] / 2004-12-09
意志薄弱なワイン談義-試飲百景 [ ワイン ] / 2005-04-18
引き算無用の世界 [ 文学・思想 ] / 2005-05-08
キルケゴールの考え方 [ 雑感 ] / 2005-11-07
今回の発端は、ブレーメン出身で自らを南への移民と言う男性とルターやニッチェのお膝元出身のカトリック女性の自己批判であった。道行く人の顔つきが怒っている様で悪いというのだ。これは、旅行者として欧州各国を廻ると南から北へとこの傾向が強くなる事に気が付く。ドイツの南北の違いも良く挙げられて、大抵の人は南が良いというのだが、それは道行く人の表情だけの差であるという批判も多い。つまり南ドイツも所詮同じであるという意見である。
キルケゴールの没後150年を記念して、咋11月11日に特集のTV番組などが流された。偶々深夜の番組を付けたが、流石に眠くなる内容である。裕福な家庭に生まれ一生を精神的な生活で突き通したデンマーク人である。父親の感化が面白い。実存主義の祖としての人気も然る事ながら、プロテスタントの信仰姿勢を越えてドイツ人の人生哲学になっているようである。
言えば、あの世よりもこの世は厳しく、懐疑の連続なのである。それだけならば、ベブライズムに繋がるかもしれないが、余り観念的にならず、実感を大切にしていくと違ってくる。そもそも現実の生活は、その気候からして比較出来ないほど厳しい。一日たりとも平安な日は無い。何かをなして報われるよりも、報われないのが普通である。収穫は限られる。葡萄などが育つ地域は、遥かに南である。
一分の零は定義されるが零分の一が定義されないように、何一つ反照されないのである。影があるならば暗くても良いが、そこには影すら存在しない。虚無すらも存在しないので自覚すら経験出来ない世界に対峙しなければいけない。そのような空虚な世界に何を期待しろと言うのだ。それを「生きよう」とすると、上述するような苦渋すら示さない、顔が引きつる事も無い麻痺した感覚が残る。それでも、歩みを進めるので、仕方なく不安ながら暗黒の空虚に対峙しようとすると独特な表情となる。これが、ドイツの赤ワインのように固い、ドイツ人の生きる顔である。北欧の碧眼の瞳の中などにはこの空間が映し出されていることが良くある。所謂、何も考えていない目で、これは懐疑の段階を乗り越えた表情を示す。
南のカトリックには、零が存在すれば、必ずやそこには光に照らされた影のように、もしくは青空を背にしたアルプスの高嶺の稜線の輝きのような反照があるのではないだろうか。ブルックナーの交響曲の全休止やヴェーベルンの作品の休止には、間があり、律動がある。律動が無いところには、自らの鼓動も間も何も存在しない。それでも、そんなところにも何故か日々の生活がある。そこでは生は、死よりも何層倍も懐疑に満ち溢れている。
参照:
麻痺に遠のく外界 [ その他アルコール ] / 2004-12-09
意志薄弱なワイン談義-試飲百景 [ ワイン ] / 2005-04-18
引き算無用の世界 [ 文学・思想 ] / 2005-05-08
キルケゴールの考え方 [ 雑感 ] / 2005-11-07