Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ラトルの投げやりな響き

2007-07-03 | 文化一般
ベルリンの保守的な交響楽団の音楽監督に就任して五年を迎えるサイモン・ラトルのインタヴューが掲載されている。

オーケストラとの軋轢は解消されるどころか、諦めムードが漂っている。芸術的目標が更なる五年で叶えられるかと聞くと、偉大な先輩の例を見ても時間が掛かるものだとする一方、「音楽に聞いてくれ、他に言う事はない」と大層投げやりな回答をする。

楽員中52人が指揮者よりも若い共同体となっていて、父親の気持ちで接するこの指揮者は、それでもこの地殻の様にしか動かない集団を、高性能スポーツカーや核爆弾のように操縦や投下するなんて、お笑い沙汰だと言う。それゆえか、過去五年間の最大の成果は、「RHYTHM IS IT」の映画だと語る。

兎に角、フルトヴェングラーの時でさえ、シェルヘンやアンセルメがあれほど新曲を初演していたのに、19世紀の名曲に拘っている現在を、将来への義務を放棄していると批判する。

そして本人が、種を捲いて、野道を歩きながら様子を伺うだけだと言うのは、責務を放棄しているのではなく、その方法しかないと気がついたからに違いない。

あれだけダイナミックに若くしてこの業界に登場して、一躍スターとなったこの指揮者も、今や年齢的に中堅指揮者の域に達している。なるほど、以前に比べて、あまり注目されないのは、作曲家との協調した活動や盛んな音楽紹介などが徐々に影を潜めていることゆえだろうか?古風な様式家のヴァルナー・ヘンツェなどの新曲初演はしているが、英国の作曲家に関しては控えていると言う。また、武満などの一般受けする作曲家の初演も今やあまりないようで、一昨年のヒンデミットの「左手のための協奏曲」以上の話題となる初演をしているとはあまり聞かない。

フォン・カラヤン時代のヴァーグナーの「指輪」のプロジェクトを知っている者が楽団の古老にも僅かとなり、改めてアクサンプロヴァンスで演奏すると言う。そして、ベルリンで「ラインの黄金」に続いて「ヴァルキューレ」をやるがそれで終わりだと言う。楽員にとって、幾ら心満たす旅であるとしても、多くの者が「ベルリンでの指輪サイクルはもう沢山だ」と言うように、楽団の大きな勘違いを英国人らしい皮肉を込めて吐露する。

もともと、この英国人を音楽監督として推挙した理由は、楽団が稼げると期待したからであったろう。そして何よりも、クラウディオ・アバードが病気を理由に退任したからでもあった。しかし、国内外での公演旅行も、毎年のように続けるうちにその高額チケットが必ずしも売りきれる訳ではない。また、ドイツ連邦共和国の現在の音楽文化を特に担っていると言う訳でもなく、西ベルリンの看板であったこの文化機関がベルリンのなかで、何を意味するかも定かではない。そうした状況下での文化芸術的な危機感を音楽監督などは強くもっているようだが、どうも丁々発止とした現場の職人気質やその場限りの商売をするマネージメントは、それを真摯に受け止めていないらしい。

辞める辞めると脅かし続け、それも効果を見ないので、終に匙を投げたサイモン・ラトルだが、今後なにをなせるかどうかは疑問が多い。クリーブランドの交響楽団のようには完璧には演奏しないベルリンの交響楽団が、完璧な演奏よりも素晴らしい演奏をすることが出来るとする、そうした実証はこの指揮者の元でも示されている。しかし、そうした成功例も比較対象のなかでの評価であって、どうも監督本人が最も知っているように、現行の興行企画のなかでなんらかの芸術的な意味合いを持たせるのは至難の業のようである。

この交響楽団の僅か一世紀に及ぶ歴史を考えると、この機構が芸術的価値を持ち得なくなったとき、そうした興行形式が文化的意味を失ったことを示している。



参照:
音楽の友 7月号 (ベルリン中央駅
„Orchester bewegen sich langsam...“, FAZ vom 29.06.07
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする