「Hiroshima, mon amour (広島、私の愛)」を観る。原爆特集でVIDEOに録っておいたものである。長崎への原爆投下を扱った黒澤監督の「八月のラプソディー」に続けて録画されている。
ヌーヴェル・ヴァーグの成功作としての評価が高いアラン・レネ監督の1959年の白黒作品である。ナチの収容所を描いた作品「夜と霧」と対を為しているようである。
その背景や映画の価値については判らないが、録画しておきながらこの作品を真面目に通して観るのは初めてである。何よりも冒頭からのベットシーンが鬱陶しく、到底続けて観ることが出来なかったからである。しかし、我慢して最後まで観ると、大変興味深く、改めて冒頭から見直さなければいけない。
何よりも冒頭の男の汗が吹き出すような肌が大写しとなるシーンは、不思議なことに岡田英次がやはり主人公を演じる数年後に制作された安部公房原作の「砂の女」を思い起させる。その肌は、砂にまみれてざらざらしている様でもあり、ケロイドの様でもあり、でこぼことした質感が強調されている。
この冒頭の感覚が、フランス女の突出する感情にも、男の何を考えているか解り難い不思議な爬虫類のような表情(上「砂の女」の人格を見せる名演技とは異なり、ここではジャッキー・チィエンのような外見に動物的な演技を見せる)にも付きまとう。その感覚が、その直後に映される原爆病院の風景や原爆投下後の映像の効果にも大きく影響を及ぼす。
原爆記念館を訪問したことのある人間にとっても、この文脈で以って、その展示品の一つ一つや様子をこの映画で見せられると、まさに皮膚感覚でそれを感じることを迫られる。
そして、どれほど数字や映像や資料を付きつけられても、何も見ていないから、忘却の彼方へと運ぶ事も出来ないのだと。
当初感じていた抵抗感こそが、その感覚であり、どこまでもその違和感の中に理性的に客観視することを阻害している。それは、音楽の使い方にも表れていて、実録映画の影響を受けたのだろうカメラワークの映像に合わせて、月並みな背景音楽が自然の環境音へと切り替わっていく、聴覚の焦点の合わせ方にその感覚が対応しているようである。
男女ともがその表情から様々なことを語っているのだが、それは最初に説明されていないので何度か観ていかないと意味が分からない。それを指してか、映画監督ゴダールは、この作品をウイリアム・フォークナーとイゴール・ストラヴィンスキーの合わさった映画と呼んでいる。
それにしても、劇映像への実写の抽象的映像への焼き直しのなかで、女の髪を切るカットと原爆症の抜け毛の映像、男のうつらな表情と原爆症に苦しむ被爆者の表情などが数限りなく重ね合わされて、何処までも実感を迫る映画となっている。一旦、上映会場に入るとそこから抜け出すことは出来ないのである。
参照:
「二十四時間の情事」アラン・レネ (Mani_Mani)
「夜と霧」アラン・レネ (Mani_Mani)
政治的核反応の連鎖 [ 歴史・時事 ] / 2006-10-17
ヒロシマの生き残り [ 暦 ] / 2005-08-06
ホロコーストへの道 [ マスメディア批評 ] / 2005-01-29
市長ズミット博士の港から [ 歴史・時事 ] / 2004-12-07
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その背景や映画の価値については判らないが、録画しておきながらこの作品を真面目に通して観るのは初めてである。何よりも冒頭からのベットシーンが鬱陶しく、到底続けて観ることが出来なかったからである。しかし、我慢して最後まで観ると、大変興味深く、改めて冒頭から見直さなければいけない。
何よりも冒頭の男の汗が吹き出すような肌が大写しとなるシーンは、不思議なことに岡田英次がやはり主人公を演じる数年後に制作された安部公房原作の「砂の女」を思い起させる。その肌は、砂にまみれてざらざらしている様でもあり、ケロイドの様でもあり、でこぼことした質感が強調されている。
この冒頭の感覚が、フランス女の突出する感情にも、男の何を考えているか解り難い不思議な爬虫類のような表情(上「砂の女」の人格を見せる名演技とは異なり、ここではジャッキー・チィエンのような外見に動物的な演技を見せる)にも付きまとう。その感覚が、その直後に映される原爆病院の風景や原爆投下後の映像の効果にも大きく影響を及ぼす。
原爆記念館を訪問したことのある人間にとっても、この文脈で以って、その展示品の一つ一つや様子をこの映画で見せられると、まさに皮膚感覚でそれを感じることを迫られる。
そして、どれほど数字や映像や資料を付きつけられても、何も見ていないから、忘却の彼方へと運ぶ事も出来ないのだと。
当初感じていた抵抗感こそが、その感覚であり、どこまでもその違和感の中に理性的に客観視することを阻害している。それは、音楽の使い方にも表れていて、実録映画の影響を受けたのだろうカメラワークの映像に合わせて、月並みな背景音楽が自然の環境音へと切り替わっていく、聴覚の焦点の合わせ方にその感覚が対応しているようである。
男女ともがその表情から様々なことを語っているのだが、それは最初に説明されていないので何度か観ていかないと意味が分からない。それを指してか、映画監督ゴダールは、この作品をウイリアム・フォークナーとイゴール・ストラヴィンスキーの合わさった映画と呼んでいる。
それにしても、劇映像への実写の抽象的映像への焼き直しのなかで、女の髪を切るカットと原爆症の抜け毛の映像、男のうつらな表情と原爆症に苦しむ被爆者の表情などが数限りなく重ね合わされて、何処までも実感を迫る映画となっている。一旦、上映会場に入るとそこから抜け出すことは出来ないのである。
参照:
「二十四時間の情事」アラン・レネ (Mani_Mani)
「夜と霧」アラン・レネ (Mani_Mani)
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