ベートーヴェンの第九交響曲は特別な交響曲である。それにしても、ナチ政権下であれほどに「抱き合う兄弟の愛」が作曲家のヒューマニズムと作詞のシラーの美学と共に謳い上げられた不思議は、如何せん払拭できない。
シュテファン・ゲオルゲの伝記を読むと、先日暗示された同性愛の繋がりを、異なる文脈で同志愛や兄弟愛として捉える必要が示されている。つまり、この詩人やグループ内の少年愛への性向は、必ずしも同性愛として捉えるのは誤りで、詩人にとっての肉体は飽く迄も形而上の 対 象 であったと言うことである。女性との恋に落ちた嘗ての美青年グンドルフとはハイデルベルクのシュロースベルクでの出会いから58歳と46歳の男の別れまでの間、「エロス無い所に教育無し、教育無い所にエロス無し」と、強い師弟関係をも意味した。
その思想の背景には、ヴァイマールの進んだ民主主義システムにおける普通選挙の女性解放などがあるようで、詩人は「女性はそれ自体神秘的な存在」で健康な繁殖のためにそのように教育される必要があり「汝の種を担う価値がある」として、「五十年後には俺は女性のヒーローになっているかもしれない」と嘯いている。
そうした進んだ民主主義システムを毛嫌いした保守的知識層は多いようだが、戦後レジーム下においてさえも、ナチがそうしたようにヴァイマールの社会をシステムと呼んだのが指揮者のフルトヴェングラーである。戦後の態度は、多くの転向した同僚を横目に、むしろ保守化して、「十二音技法は人種的な主張」と断定してばからなかった不器用さを、この人気指揮者の「録音では判らない実演」を体験したノスタルジーの世代を自ら代表して庇うのは音楽評論家ヨアヒム・カイザー教授である。
そして、第三帝国の体制内で最後まで戦いながらも利用された大指揮者は、その歴史的汚点を咎めることなく今後とも世界で生き延びていくと、あきらかに「世代の異なる見解」を述べている。しかし、我々は今ネットにおいても手軽に、そのナチレジームにて芸術行為をしている映像をみるにつけ、あの数々の録音の記録を前に目隠しさせられた20世紀後半の購買者とその配給者の野心に目を光らせるべきなのである。
ゲッベルス博士に並ぶヒムラー夫妻の顔をみるが良い。アウシュヴィッツを見学しに行き、何気ない顔で茹でた野菜を食する好々爺に、芸術を披露して、後に芸術信条から仲違いするゲッベルス博士と握手する人気指揮者の姿を見るが良い。
シラーの美学は、ベートーヴェンの美学は、戦後1951年のバイロイト祝祭劇場の再開の時まで愚弄されていたのではないか?カイザー教授は言う。音楽の意味するものを、あの敗戦を予感する戦時下の聴衆に感ずるとして、その記録を熟聴して、フルトヴェングラーの言葉を挙げる。
「私はドイツ人で、キリスト教徒です。それ故に全てには限界があるのです。そしてそれが私の運命なのです。そして私はそれを限界を越えるようにする積りはありません。なぜならば、運命こそが私への課題だからです。その限界を越えたところから、モダーンな芸術の宿命が始まるのです。余分なものの災いです。芸術をやりたいなら、才能ではなく運命が必要なのです。その他全ては、何にもなりません、言うだけ無駄です。スポーツでも戦争でも、政治でも何でもやりなさい。」
1930年にトスカニーニを批判して、イタリア人はドイツ音楽の核心であるソナタ形式の本質と精神が判っていないと、イタリア人の属性を指摘する国粋主義者であったには違いない。ただ、第三帝国では反主流派だったのである。むしろ芸術的には、カール・ベーム指揮によるノイエ・ザッハリッヒカイトに属するマイスタージンガーの演奏こそが最も国家社会主義の芸術に相応しかったのだろう。そして、承知のように、これが戦後の音楽演奏の主流となる。
フルトヴェングラーと同世代の保守主義者トーマス・マン作「魔の山」にて教養の無い女性として描かれているモデルが、実はご主人のヌード写真のモデルとなっていたことが最近判明した。そうした人の属性は、あるイデオロギーの目で以って観察すると必ずしも正しく評価されないことが多いようである。
こうしたイデオロギーの芸術にも、片目を瞑って純粋に共感できるというのか?その何処にも理想主義のパシフィズムの属性もヒューマニズムも属性も見つからない。
参照:
"Was mir wichtig ist" von Joachim Kaiser
でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
名指揮者の晩年の肉声 [ 音 ] / 2006-05-17
オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09
死んだマンと近代文明 [ 文学・思想 ] / 2005-08-14
「聖なる朝の夢」の採点簿 [ 文化一般 ] / 2005-06-26
乾いた汗の週末 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-06-20
因習となる規範 [ 文化一般 ] / 2004-12-01
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
半世紀の時の進み方 [ 文化一般 ] / 2006-02-19
追記:ハンス・クナッパーツブッシュのロマン主義は、殆どナチにとっては使いものにならなかったのではないか?フルトヴェングラーのAED工場でのプロパガンダフィルムは典型的なナチの芸術である。しかし、この指揮者の演奏解釈や世界観は、象徴主義的表現主義で自ら国家主義者であるとすると、徒弟の扱い方が異なるような気がする。シュトラウスの作品をして、「快活な外面とその解放は同じで、解放されたものは語るに値しない。その解放は、月並みと言う代償を支払い、もしくは月並みがあってこそはじめて快活が得られている」と表している。これをしてその焦点を知ることが出来よう。
シュテファン・ゲオルゲの伝記を読むと、先日暗示された同性愛の繋がりを、異なる文脈で同志愛や兄弟愛として捉える必要が示されている。つまり、この詩人やグループ内の少年愛への性向は、必ずしも同性愛として捉えるのは誤りで、詩人にとっての肉体は飽く迄も形而上の 対 象 であったと言うことである。女性との恋に落ちた嘗ての美青年グンドルフとはハイデルベルクのシュロースベルクでの出会いから58歳と46歳の男の別れまでの間、「エロス無い所に教育無し、教育無い所にエロス無し」と、強い師弟関係をも意味した。
その思想の背景には、ヴァイマールの進んだ民主主義システムにおける普通選挙の女性解放などがあるようで、詩人は「女性はそれ自体神秘的な存在」で健康な繁殖のためにそのように教育される必要があり「汝の種を担う価値がある」として、「五十年後には俺は女性のヒーローになっているかもしれない」と嘯いている。
そうした進んだ民主主義システムを毛嫌いした保守的知識層は多いようだが、戦後レジーム下においてさえも、ナチがそうしたようにヴァイマールの社会をシステムと呼んだのが指揮者のフルトヴェングラーである。戦後の態度は、多くの転向した同僚を横目に、むしろ保守化して、「十二音技法は人種的な主張」と断定してばからなかった不器用さを、この人気指揮者の「録音では判らない実演」を体験したノスタルジーの世代を自ら代表して庇うのは音楽評論家ヨアヒム・カイザー教授である。
そして、第三帝国の体制内で最後まで戦いながらも利用された大指揮者は、その歴史的汚点を咎めることなく今後とも世界で生き延びていくと、あきらかに「世代の異なる見解」を述べている。しかし、我々は今ネットにおいても手軽に、そのナチレジームにて芸術行為をしている映像をみるにつけ、あの数々の録音の記録を前に目隠しさせられた20世紀後半の購買者とその配給者の野心に目を光らせるべきなのである。
ゲッベルス博士に並ぶヒムラー夫妻の顔をみるが良い。アウシュヴィッツを見学しに行き、何気ない顔で茹でた野菜を食する好々爺に、芸術を披露して、後に芸術信条から仲違いするゲッベルス博士と握手する人気指揮者の姿を見るが良い。
シラーの美学は、ベートーヴェンの美学は、戦後1951年のバイロイト祝祭劇場の再開の時まで愚弄されていたのではないか?カイザー教授は言う。音楽の意味するものを、あの敗戦を予感する戦時下の聴衆に感ずるとして、その記録を熟聴して、フルトヴェングラーの言葉を挙げる。
「私はドイツ人で、キリスト教徒です。それ故に全てには限界があるのです。そしてそれが私の運命なのです。そして私はそれを限界を越えるようにする積りはありません。なぜならば、運命こそが私への課題だからです。その限界を越えたところから、モダーンな芸術の宿命が始まるのです。余分なものの災いです。芸術をやりたいなら、才能ではなく運命が必要なのです。その他全ては、何にもなりません、言うだけ無駄です。スポーツでも戦争でも、政治でも何でもやりなさい。」
1930年にトスカニーニを批判して、イタリア人はドイツ音楽の核心であるソナタ形式の本質と精神が判っていないと、イタリア人の属性を指摘する国粋主義者であったには違いない。ただ、第三帝国では反主流派だったのである。むしろ芸術的には、カール・ベーム指揮によるノイエ・ザッハリッヒカイトに属するマイスタージンガーの演奏こそが最も国家社会主義の芸術に相応しかったのだろう。そして、承知のように、これが戦後の音楽演奏の主流となる。
フルトヴェングラーと同世代の保守主義者トーマス・マン作「魔の山」にて教養の無い女性として描かれているモデルが、実はご主人のヌード写真のモデルとなっていたことが最近判明した。そうした人の属性は、あるイデオロギーの目で以って観察すると必ずしも正しく評価されないことが多いようである。
こうしたイデオロギーの芸術にも、片目を瞑って純粋に共感できるというのか?その何処にも理想主義のパシフィズムの属性もヒューマニズムも属性も見つからない。
参照:
"Was mir wichtig ist" von Joachim Kaiser
でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
名指揮者の晩年の肉声 [ 音 ] / 2006-05-17
オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09
死んだマンと近代文明 [ 文学・思想 ] / 2005-08-14
「聖なる朝の夢」の採点簿 [ 文化一般 ] / 2005-06-26
乾いた汗の週末 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-06-20
因習となる規範 [ 文化一般 ] / 2004-12-01
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追記:ハンス・クナッパーツブッシュのロマン主義は、殆どナチにとっては使いものにならなかったのではないか?フルトヴェングラーのAED工場でのプロパガンダフィルムは典型的なナチの芸術である。しかし、この指揮者の演奏解釈や世界観は、象徴主義的表現主義で自ら国家主義者であるとすると、徒弟の扱い方が異なるような気がする。シュトラウスの作品をして、「快活な外面とその解放は同じで、解放されたものは語るに値しない。その解放は、月並みと言う代償を支払い、もしくは月並みがあってこそはじめて快活が得られている」と表している。これをしてその焦点を知ることが出来よう。