Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

兄弟の弁証法的反定立

2007-08-22 | マスメディア批評
電話の向こうでマーラーの節まわしが聞こえる。遠くてあまり聞こえないが交響曲三番の終楽章アダージョと判った。誰の演奏かは想像つかないが、なかなか良いと言うので、TVをつけるとルツェルンからの中継であった。

クラウディオ・アバドの表情が大きく映る。あまり定期的には見ていないが、病後の一時のやつれよりも枯れた感が強い。最後の一節が済んで、改装前の会場でロス・フィルの演奏した同じ曲の演奏会を思い出した。月並みなTVナレーションは「瞑想」と評していたが、会場の雰囲気は当時の異なる演奏のような静まりの深さはなかったように思う。

これは指揮者の音楽的個性にもよるが、昔から近所のイタリア人のおじさんのようにユースオーケストラの若者に慕われる親しみ良さがこの演奏解釈にも出ていたようである。一体誰がこの楽団にいるかと観ていると、ザビーネ・マイヤーが真ん中に座っていた。

趣味のおじさんが昔取った杵柄で余生に音楽を楽しんでいるような雰囲気が良い。改装なったこの会場にも何回か足を運びマーラーの交響曲を幾つか聞いた。車で二時間半ほどしかかからない最も近い伝統的大音楽祭であるが、ここ数年はご無沙汰している。

ザルツブルク音楽祭での第九の演奏が稀にみるユートピア表現として絶賛されている。記事をさらっと読んでもその良さは不明だが、マリス・ヤンソンス指揮のバイエルンの放送交響楽団と知って、ある程度想像がついた。その場合、休憩前に演奏されたオネゲルの交響曲「典礼風」の録音よりもショスタコーヴィッチのそれも二番とか三番のプロレタリアのためのプロパガンタ音楽の彼らの秀逸な演奏録音を思い浮かべる。

公平に判断するとこの目前にする新聞評は、旅先の部屋で適当に書き込んだ程度で全く良くない。しかし、フルトヴェングラーのバイロイト祝祭劇場再開の歴史的演奏を比較対照して、国家社会主義における度重なる祝祭的演奏においてその指揮者がなんら、その野蛮を目前にしても、ベートーヴェンのヒューマニズムの効果への信仰をなんら押さえることが出来なかった矛盾を、トーマス・マンが「ファウストス博士」にてその効果を 撤 回 していることを強調する。

それが、今回の演奏のこの破天荒な合唱楽章の示すその時間と空間の摂理が齎す幻影を、多元の視角から見るシュールレアリズムとしての交響作家チャールズ・アイヴスの音響空間のように形成していたとすれば、弁証法的対峙に他ならない。そしてシューマン的トリオと三楽章のマーラー的警告、舞台奥に並べられたトランペットなどを示す事によってのみ、この演奏の新奇を表わしている。

ベートーヴェンにおける弁証法をその芸術的機軸としたフルトヴェングラーが、1930年までに書かれたショスタコーヴィッチの作品が体現するボルシェヴィズムへのアンチテーゼとしての芸術的信念を、国家社会主義の中で飛翔させて、さらに1951年の冷戦構造の中で復帰させた事象をどうしても無視出来ないのではないだろうか。



参照:
"Komm ins Freie" von Julia Spinola, FAZ vom 20.8.07
管弦のリアルな黄昏の音 [ 音 ] / 2006-09-26
勇気と不信の交響楽 [ 文化一般 ] / 2006-01-06
シラーの歓喜に寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-12-18
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19
コメント (2)
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