(承前)シュテファン・ゲオルゲの詩作に作曲したシェーンベルクは、その当時の本人の言葉を借りると次のようになる。
「発展は、そこに強いるのです。リヒャルト・シュトラウスはそこにグスタフ・マーラーと共に功績があるのだろう。しかし、ドビュシーやマックス・レーガー、それにプフィッツナーがそれに突進したのである。私がここで行い、彼を踏襲したことなのです。手順において最も優先されるのは、最初に足を踏み出す一歩を定めることで、一般的な貢献と言うことを顧慮することではありません。― しかし現実には、残念ながら無視できないものなのです。」
こうして、調性からまさに浮き上がる瞬間を迎えるのだが、その踏み出す向きは、既に所謂後期ロマン派の延長線として存在する世界で、マーラーの交響曲にまで遡る必要も無く、同作曲家の「グレの歌」や「浄められた夜」でお馴染みの世界である。
しかし、ここではゲオルゲの厳格に編まれた詩が、そのまさに解き放たれた世界が、重力を以って大地との関係を保つような形で、音化されているのである。その関係こそが、無調へと進むこの時代に作曲家たちが拠り所とした「宇宙の掟」であり、アドルノが解説するようにそれはあまりにも教科書的な枝葉末節なことでしかないが、シェーンベルクがその後十二音技法へとそして米国へと亡命して、ロス・アンジェルスで創作活動を続けた晩年の先祖帰りのような創作を評価する 標 準 点 ともなり得るのである。
弟子のアントン・ヴェーベルンが飽く迄も素材に拘ったのとは反対に、それはシェーンベルクがベートーヴェンの後期の作品群を指して、突然の断絶と外へ向う空洞と、客観的にはそのズタズタにされた光景を、主観的にはその光景が灼熱に輝く光を言い、不協和の力に裂かれた協和の合成でもないとしていることに相当する。
さてゲオルゲの該当の詩は、その英語対訳では到底その真価を理解できない、少しでもドイツ語の字面を観察すれば解るほどの視覚的相違は、綴り方の厳格さからして音響的にも断絶を持った形式を与える事となる。そうした、枠組みがあってこそはじめて浮遊することが出来る自由空間が得られたのである。
この詩を用いた四重奏曲の初演は、グスタフ・マーラーが反ユダヤ主義から宮廷劇場の監督の座を追われ、本人もベルリンへと移住した、あまりにも保守的な当時のヴィーンでは受け入れられずに、その様子を作曲者自身次のように報告している。
「驚いたことに、一楽章は賛意も反対も何も示されなかった。しかし、二楽章は始まるや否や、多くの人は笑い出し、三楽章「リタナイ」と四楽章「別世界に移る」の上演を妨害し続けた。それは、ローゼ四重奏団とマリア・グットハイル・ショ-ダーを打ち乱した。」
現在の我々は、マーガレット・プライスの歌唱とラサール四重奏団の録音でこれらの楽曲の真価を知ることが出来る。嘗て全曲演奏を行なったアルバンベルク四重奏団や今日もこれらをレパートリーとする演奏家が、この秀逸な録音を凌ぐことは難しいかも知れない。それは、今日の世界の思潮にある種の超越した枠組みと言うものが存在しないように、そうした原理原則が存在しない世界であるからなのである。(続く)
視聴:
Arditti String Quartet / Dawn Upshaw
NEW VIENNA Quartet / Evlyn Lear
Crazy Quilt
参照:
"Schönberg" von Eberhard Freitag
"Philosophie der neuen Musik! von Adorno
「発展は、そこに強いるのです。リヒャルト・シュトラウスはそこにグスタフ・マーラーと共に功績があるのだろう。しかし、ドビュシーやマックス・レーガー、それにプフィッツナーがそれに突進したのである。私がここで行い、彼を踏襲したことなのです。手順において最も優先されるのは、最初に足を踏み出す一歩を定めることで、一般的な貢献と言うことを顧慮することではありません。― しかし現実には、残念ながら無視できないものなのです。」
こうして、調性からまさに浮き上がる瞬間を迎えるのだが、その踏み出す向きは、既に所謂後期ロマン派の延長線として存在する世界で、マーラーの交響曲にまで遡る必要も無く、同作曲家の「グレの歌」や「浄められた夜」でお馴染みの世界である。
しかし、ここではゲオルゲの厳格に編まれた詩が、そのまさに解き放たれた世界が、重力を以って大地との関係を保つような形で、音化されているのである。その関係こそが、無調へと進むこの時代に作曲家たちが拠り所とした「宇宙の掟」であり、アドルノが解説するようにそれはあまりにも教科書的な枝葉末節なことでしかないが、シェーンベルクがその後十二音技法へとそして米国へと亡命して、ロス・アンジェルスで創作活動を続けた晩年の先祖帰りのような創作を評価する 標 準 点 ともなり得るのである。
弟子のアントン・ヴェーベルンが飽く迄も素材に拘ったのとは反対に、それはシェーンベルクがベートーヴェンの後期の作品群を指して、突然の断絶と外へ向う空洞と、客観的にはそのズタズタにされた光景を、主観的にはその光景が灼熱に輝く光を言い、不協和の力に裂かれた協和の合成でもないとしていることに相当する。
さてゲオルゲの該当の詩は、その英語対訳では到底その真価を理解できない、少しでもドイツ語の字面を観察すれば解るほどの視覚的相違は、綴り方の厳格さからして音響的にも断絶を持った形式を与える事となる。そうした、枠組みがあってこそはじめて浮遊することが出来る自由空間が得られたのである。
この詩を用いた四重奏曲の初演は、グスタフ・マーラーが反ユダヤ主義から宮廷劇場の監督の座を追われ、本人もベルリンへと移住した、あまりにも保守的な当時のヴィーンでは受け入れられずに、その様子を作曲者自身次のように報告している。
「驚いたことに、一楽章は賛意も反対も何も示されなかった。しかし、二楽章は始まるや否や、多くの人は笑い出し、三楽章「リタナイ」と四楽章「別世界に移る」の上演を妨害し続けた。それは、ローゼ四重奏団とマリア・グットハイル・ショ-ダーを打ち乱した。」
現在の我々は、マーガレット・プライスの歌唱とラサール四重奏団の録音でこれらの楽曲の真価を知ることが出来る。嘗て全曲演奏を行なったアルバンベルク四重奏団や今日もこれらをレパートリーとする演奏家が、この秀逸な録音を凌ぐことは難しいかも知れない。それは、今日の世界の思潮にある種の超越した枠組みと言うものが存在しないように、そうした原理原則が存在しない世界であるからなのである。(続く)
視聴:
Arditti String Quartet / Dawn Upshaw
NEW VIENNA Quartet / Evlyn Lear
Crazy Quilt
参照:
"Schönberg" von Eberhard Freitag
"Philosophie der neuen Musik! von Adorno