Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

東京でのヒトラーの遣い

2007-08-16 | 文化一般
先日紹介したナチ・イデオロギーの作曲家の言葉の一つの原点を見る。ヒットラーの「我が闘争」からの一節が文化欄に掲載されている。先頃までの発禁の書のテキストを、こうして高級紙に発見するのは時の流れを感じさせる。

「今日限りアーリアの影響が日本に途絶えたとすると、例えばアメリカやヨーロッパの滅亡するとなると、今日の日本の学術的、技術的な勃興は暫らくは留まり、数年すれば、日本が独自に勝ちとったその泉も枯れてしまい、枯渇して、七十年前にアーリア文化によって目覚まされたように、再び眠りに落ちるのである。」

この文節は、文化創造国、文化荷担国、文化破壊国に別けて、各々をその人種・文化的に差別したナチズムの基本概念の説明の中で特別にアジアの国として唯一の文化荷担国に引き立てられている部分である。

これを読んで、あまりにも今日に至るまで、その批評として的を得ているので驚くしかないが、一体こうした知識的背景がどこにあるのかは、大変興味ある。これについては、ゲオルゲの問題も含めて引き続きみて行きたい。

この記事の中では、よってアーリア文化を伝えるべく、東京に派遣されて然るべき顔として滞在した教授の全てについて述べられている。1920年中盤には文化交流協定が成立して、ベルリンと東京に其々文化機構が開設されていた。そこにヴィルヘルム・グンデルトは、反共の余波を受けて更迭される1935年までそこの所長として君臨した。そして、1935年にはヒットラーの上の命を受けて、後の帝国公安局の親衛隊名誉大隊長となるハンブルクの日本学のヴァルター・ドナートが赴任する。

そして、第三帝国への招聘講師として有名な教授人を集めた。ナトルプリッケルト、フッセール、ハイデッガーの弟子たちは、第一次世界大戦以前にドイツ留学をしていてあらゆる日本の大学の教授に散見することとなるが、ヒットラーの言うように公式にこうして泉が枯れないような手立てを打った。

その時期にヒットラーの隠密として派遣されたプロイセンの保守的な教育学者エドワルト・シュプランガーは、祖国で失脚して、日本では武士道と儒教の混合による日本の秘密を学び、また宗派分れした仏教に関心を持ち、日本から吸収したものの方が与えたものより多いと言われる。なぜならば、東京近郊では明らかにに距離を置いていたナチに極度に「統制」されていて、つまらないおしゃべりをしてお茶を濁していたのだが、東北の仙台では戦前からの事実を語っていたようである。

1939年に赴任したのが後任のミュンヘンの司法官オットー・ケールロイターで、日本に国家社会主義を明快に示し伝えたのは自分であると主張している。つまり、単一民族による党派無しの民族利益を言い、「ドイツや日本の 空 間 的 余 地 の 無 い 民 族 は、他の領域を 侵 略 して新しい秩序を掲げる正統性がある」と言うことであり、だから両国民は個人の 極 端 な 自 由 の 贅 沢 には恵まれないが、他民族を自由の概念として発展させなければいけないと主張した。

つまり独裁者の権力と軍部の勢力の関係こそが、二十世紀の憲法上の新たな問題となっていると結論つけた。

そして、日独伊の三国同盟へと進むのだが、最近の報道によると裕仁天皇が、これをして、松岡外相を叱ったと言うのも、この文脈からすると話者の知識程度の問題をも加味しなければ歴史的意味合いを持たないだろう。

そのほかに、ドイツ外務省の学術部員で精神学者のカール・フリードリッヒ・グラーフ・エックブレヒト・フォン・デュルクハイム・モンマルタンは、1935年から日本の躾の研究員として、また祖母がユダヤ人ある事から東京にて観察下に措かれ、1947年に帰国後シュヴァルツヴァルトのトットモースに禅道場を開いている。

この参照記事を書いたのはフランク-ルットガー・ハウスマン教授で精神学史の専門家で、日本はベルリンで、東京以上に独自の文化を活動的にプロパガンダしていたとしている。
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