Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

客演のための課題曲

2018-12-10 | 
ヴィーンからの生中継を聞いた。先ず後半のブラームスはソファーに座って真面目に聞いた。悉くミュンヘンでの表情記号が無視して演奏された。勿論同意の上だろう。テムピも明らかに二割ほど遅めに感じたが、実際はアコースティックと間の取り方が大きいと思う。強弱記号まで無視されていて全く異なるバランスで演奏されたので驚いた。ここまで妥協するには明らかな意思が働いていた筈だ。そもそも一昨年のデビュー定期公演からして今回の再演がありえないと思っていたが、キリル・ペトレンコは腹を括っていたのだろう。放送で「好きなようにやらせた」というその通りだった。

我々などは、あれだけルーティンで演奏するなら、指揮者無しで演奏会をすればよいと思う。しかしそうはいかないのだろう。そのように考えると、ああして素人相手のように指揮してくれる人がいるとやはり正確に演奏するようになるということらしい。その辺りはペトレンコも意識していて、ヴィーン流で何が出来るかを考えて振ったものと確証する。客演指揮者としてそれ以上のことは不可能で、同地でオペラに客演していた時も同じだったろうと思う。その意味からしてもこの曲の正しい演奏は待たなければいけない。素人交響楽団には無理だ。一昨日放送されたハムブルクで客演で指揮したNDRの放送交響楽団が少なくとも同じような年齢でバイエルンでデヴューしたフルサ指揮の放送交響楽団よりも遥かに上手に演奏していたので、座付管弦楽団と交響楽団の差や指揮者の仕事がよくわかる事例となった。

話しによるとこの曲と集中して練習したのがルディ・シュテファンの曲だという。これはペトレンコは2012年にベルリンで指揮している。曲想自体も後期ロマン主義的作品なので独自のサウンドが欠かせない。その意味からヴィーナーでの演奏を期待していたが、それなりの価値はあったと思う。少なくとも六年前のベルリンより良かったのではなかろうか。ベルリンのコンツェルトマイスターサルヴァータの演奏も決して悪くはなかった。

さて二曲目のリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」の演奏は、嘗ての日本の映画評論家淀長さん的に一点だけ誉めておきたい。最後の葬送の和音が出るところでこれはとても良かった。あとはヴィーナーフィルハーモニカーに課題曲を与えたようなもので、弦楽陣だけでもこれをしっかりと音化出来るようにならなければ、幾らペトレンコが今後振っても詮無いことだという宣言にもとれる。あの会場でどのように響きと線をしっかりと響かせるか。全く独自のアンサムブルの問題でこれに簡単に手を突っ込める指揮者はいないだろう。少なくとも客演はさっさと逃げ帰った方がよい ー 既にキリル・ペトレンコは帰宅しただろうか。天気も悪いので自転車にも乗れず、精々疲れを残さないようにして欲しい。

キリル・ペトレンコが継続的に客演する楽団は今までも限られていて、ベルリンに移れば更に絞られるかもしれない。イスラエルフィル、RAIトリノと並んでヴィーナーフィルハーモニカーとなるかどうかは分からない。フォアアールベルクの交響楽団だが、これはマーラーシリーズが終わるまでだ。因みにラディオでも親父さんがそこで活躍したとあったが、楽団の前身とを考えると若干複雑だと思う。

但し今回は前回とオーストリア放送協会の紹介の雰囲気が変わっていた。つまり、最初から「ともに音楽をすることが、そこで報われることが」と始まり日本での記者会見の内容を二三度繰り返していた。要するにお言葉拝聴から始まるという如何にもオーストリアの公共放送第一らしい敬意の表し方だ。前回はまだまだヴィーンで修業したフォア―アールベルクにやってきた移民音楽家の倅の腕を見てやろうぐらいの扱いだった。やはりベルリナーフィルハーモニカーのザルツブルクでの登場が扱いを変えたと思う。



参照:
ペトレンコ指揮に音をあげる 2016-04-04 | 音
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
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